33―この子の飼い主、探しています


 汗を流す事が好きだ。
 暑いのが好きと云う意味ではない。
 サッカー等の団体競技、マラソン等の個人競技等のスポーツから、筋トレのようなトレーニング、いっそ走るだけでも良い。
 走っているだけで楽しい、という子供のような感性を、クリスティーナは持ち合わせていた。
 ドイツ騎士団の団員からは密かに「団長は鍛えすぎだ」という意見が出た事もあるが、最終的には「あの大きな胸が減っていないし、顔も可愛らしく美しいから良い」という結論に落ち着いたのは彼女が知らない事である。
 砂浜は足を取られ、走りにくい。
 故に、そして逆に、海辺での滞在は彼女は大好きだ。
 困難な状況は確実に鍛えられているという充実感を持てる。
 何処までも捩じくれたところの無い女である。二十代後半で、このような女性はほぼいないだろう。
 そして、それを団員に求める事も無い。
 だから、砂浜を今日も走っている彼女を団員は慕う。
 それが多少、度が過ぎたとしても。

 こんんこん、と窓をノックする音で、ジャックは窓に寄った。
 その顔には、純粋に不審な目が宿っている。
 木のサッシのガラス戸をそっと開くと、潮の香りが立ち込めた。
 ロンドンで隠れ住んでいた頃には、海は多少遠く、この香りがなかなか嗅げなかった。
 潮の香りと云うだけで、陰気な顔に僅かに笑みが差す。
 時刻は午後7時。幾之助はまだ帰って来ない。
 依子が夕食の支度を終えつつある頃だ。
 窓の外から、ちょい、ちょい、と手が見えた。
「何だ?」
「ザ・ジャック君」
 さらにちょいちょいと手招きされ、ジャックはその手の持ち主をようやく確認する。
「クリスティーナ……?」
 窓から漏れる灯りの下、クリスティーナは爽やかな笑みを浮かべた。
「覚えてていてくれたんだね。ザ・ジャック君」
「いや……」
「違うのかい?」
 覚えていた事は覚えていたのだが、先日の双子事件の時にではなく、ヴァルハラにおけるロンドンの新聞紙に「ドイツ騎士団のミス・パーフェクト!」と紹介されていたのを見たからなのである。しかも、その新聞紙は買ったものではなく、寒さをしのぐために地面に敷いた、拾った古新聞だったりする。
 しかし、この事実を相手に好感度を与えつつ説明するような饒舌さは圧倒的に彼には欠けており、一言。
「まあ……そうだ」
と言うだけに終わった。
「それで、ザ・ジャック君、少し来てくれないか?」
 やけに笑みがすぐ引っ込んだだため、ジャックはまた不審を復活させる。
 その表情を読み取ったクリスティーナは、慌てて手を振った。
「そんなに時間は取らせない! 少し相談があって……」
 不審を消さないが、彼女の相談というものを無視できないほどには、ジャックは英国紳士であった。
「……では、依子に言って来る」
 更に慌てられる。
「よ、依子君には言わないでくれ!」
「?」
「大事な話なんだ、お願いだ!」
 不審げに靴を履きに玄関に行き、クリスティーナの後を付いていく。
 家では靴を脱ぐ習慣に、ようやく慣れた。

 そして。
「彼なんだが……」
 海辺に来たジャックを襲ったのは、怒涛のような後悔と疑問だった。
 日本領地の境界線、の砂浜に、その彼は居た。
 金髪、青い瞳、何故か着流しに打掛。そしてその下半身は―魚だった。
「クリスティーナ、説明してくれ、理解できない」
「そうだね、和泉君、話してもいいかい?」
「いい」
 簡潔な返事を受け彼女が話し出したのは、これまた頭が痛くなる話だった。

 砂浜を走っていたクリスティーナは、何やら漂着物を見つけた。
 近寄っていくと、それは確かに生き物で、次にはマナティかと思った。
 予想は近かった。漂着していたのは人魚だった。
「き、君、こんな所で何を!?」
 慌てて揺り起こすと、その人魚はぱちりと目を開けた。
「おなかすいた……」
 これが和泉の第一声だったと言う。
 そこで彼女が朝食に持ってきていたサンドイッチを、はぐはぐと食べながら、和泉とクリスティーナは話をした。
「君は何処の国の人?」
 彼女の首を傾げるのに合わせて、和泉も時折首を傾げる。
「デンマーク、でも、日本にしか、阪口さんいないと思う」
「サカグチさん、誰だい? それは」
「和泉のご主人」
「君は使用人なのかい?」
 軽く首を振られた。
「和泉、働いてない」
「ええと、それで、君はデンマークに行こうとしたのかな?」
「阪口さんのところ。でも日本、何処か分からない。阪口さんも分からない」
「それは途方に暮れているね」
「途方にくれてる」
 そして、クリスティーナは、陣営に帰り、弟に話をかけた。途方に暮れている人魚を放ってはおけなかった。
 機嫌を取るのならこれしかないと、ビールとソーセージを出し、笑顔で
「ハインリヒ、少しお願いがあるんだが……」
と切り出した。
 ハインリヒは、ビールをぐっと飲み干し、告げた。
「姉さん、我が軍では犬、猫、ハムスター、小鳥に至るまで、ペットを飼う余裕はない。それは金銭面、食料面、行動の制限など多岐にわたる理由でだ。動物に心を癒されたいのなら、軍馬を愛でてくれ。さて、そのお願いは何だ?」
「魚……のようなものを拾ったんだが」
 弟はこの上ない笑顔を作った。
「活きていれば夕食の一品にしよう。ただ、今現在まで鮮度が保てている可能性は限りなく低い。そこは考慮してくれ」

 ああ……きっと似たような事が何度もあったのだろうな。とジャックはコメカミを押さえる。
「彼を食べるなんて私にはできない! でも、一度ご飯をあげたのに捨てるなんて!」
「和泉、食べられるの困る」
「何でペット扱いなんだ……?」
 クリスティーナも首を傾げる。
「彼がね」
「和泉、飼われてる」
 自己申告するペットはペットだろうか、と今度は疑問のみが怒涛のように襲ってきた。
「それで……何で俺の所に?」
 深々とため息を吐いて、ジャックは質問を繰り出した。
「いや、実は彼は戦士らしくて。しかもソ連とデンマークと日本に追われている身らしくて……すまない、他に住所不定無職の知り合いがいないんだ。何処にも狙われないで、その阪口さんという人を探す潜伏先が君の所しか思いつかなくて」
「住所不定じゃない」
「え? じゃあ、幾之助君と依子君の家から出勤していたのかい? 知らなかったよ。すまない」
「無職は事実だ」
「……すまない」
「いや……」
 一番心が痛む現状に素直に謝られる。それはそれで心が痛い。
 その時、やたらと明るい少女の声がした。
「心配いらないな!」
 いきなりした声に、二人ははっと振り向く。
「エミリー、お前アホも大概にするよろし。気づかれたよ」
「す、すみません、立ち聞きするつもりは無かったのですが」
「え? 立ち聞きしに来ただろ?」
「エミリー!」
 ヘヴンズドアーのエミリー、紅玉、依子が古ぼけた元は休憩所であったろう、建物からそっと覗いていた。クリスティーナは「やあ!」と快活に挨拶する。和泉は「こんばんは」と一礼する。ジャックの顔はポカンと口を開いた間抜けな顔になる
「依子が「ジャックさんが告白されるかもしれません。そっとクリスティーナさんと家を出られました」なんて言うからさー」
「ち、ちが、お二人がそういう関係であっても、私には口出しできぬ事でっ」
「まあ、無職はないある。接点もないある」
「あ、あの、ジャックさんも今は確かに……その……でもきっといつか!」
 後を付けて来ていたらしい3人に、笑顔を返すクリスティーナと、つられて笑う和泉。自分に沸いていた疑惑。
 ジャックは無言で俯く他無かった。