36―水色赤色


 和泉の世界の終末はとても突然で。
 今日はヒロシ達はまだかなあ、とぼんやりおはじきをつついていた。
 おはじきはきらきらと日の光に染まっていく。少し、静かな気持ちになった。
 ヒロシ達は学校に行っているから、まだなんだろう。
 学校、行ってみたいなあ。
 着物の膝を抱えて丸くなると、絽の肌触りが気持ちよかった。
 がらり、と扉が開いた。
 最初、和泉はそれは坂口さんではないと思った。
 何故なら、その開け方はとても静かで、坂口さんのガラガラーと吠えるような開け方とは違っていたし、何よりまだ帰ってくる時間じゃない。
「誰?」
「誰か、俺のほかに」
 和泉の体が冷たくなった。
 坂口さんは氷のように静かな表情をしていた。ただ、一つ。
 口の横から頬にかけて、魚の骨が貫通している。
 針のように突き刺さった骨から、真っ赤な血がぼたぼたと落ちているけれど、痛みは全く感じていないようだ。
「さか、ぐちさん」
 返事はなく、坂口さんは骨ばった体を台所へ持って行った。
 そして、こちらに持ってこられたものを見て、和泉は「ひいっ」と悲鳴をあげる。
 刺身包丁だ。
 魚を捌くときに使うものだ。
 何に使うのか何に使うのか、嗚呼、分かってしまう!
 和泉はがくがく震える体で坂口さんに縋ろうとした。しかし体に力が入らず、無様に転がった。足に結わえられた紐がぴんと張った。
「さ、坂口さん」
「和泉、誰が来ると、思った?」
 低い声に、恐怖のあまり涙が零れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、和泉、いい子になります。もう人と会ったりしません。誓います。誓います。何でもします。お願い、どうか、どうか助けてください」
 ぼろぼろと泣きながら足元に取りすがる和泉を、冷たい目が見据えた。
「死ぬのは怖いです。お願いします。どうか、殺さないで。死にたくない。助けて。お願い、お願い、何でも言う事聞きますから」
 知らず口元が弧を描いた。泣きながら、和泉は媚びた。
「坂口さんの事が大好きです。どうか、お願い、殺さないで。許してください。お願い、助けて、ね、ね、お願い」
 す、とその頬に手が添えられ、がさがさした指が涙を拭った。
「どのガキと会っていたか、言いたくなったら喋れ。お前が言う前に目星つけてくる」
 ひゅうっと喉が鳴る。
「いやーーーーッ許してーーーーッ!」
 絶叫。
 坂口さんのズボンにしがみついて止めようとしたが、鋭く蹴りつけられた。
 痛くて体を縮こめて、お腹を押さえている間に、坂口さんは静かに行ってしまった。
 和泉は怖くて痛くて泣き喚いた。
 助けてください、助けてください、助けて、たすけて
 裏切ろうなんて考えた訳じゃないんです。ほんの少し、外に触れたかっただけなんです。ごめんなさい、ごめんなさい。
「ごめんなさ、ひ」
「和泉!」
 縁側から声が響いた。
「何泣いとるん!?」
 今から夕焼けが始まるのを浴びて、ヒロシが立っていた。
「ヒロシ……」
 和泉はしゃくりあげながら、折り紙を取った。
「なあ、和泉」
 鉛筆を取り出し、水色の折り紙に字を書く。
 涙は止まった。
「ヒロシ、走って、人通りの多い道を急いで帰って。それで、大人の人にこれを見せて。ね、急いで、走って」
 受け取ったヒロシの日焼けした顔は、きょとんとしている。
「何これ?」
「大人の人に見せてね。それまで見ちゃダメ。それから、坂口さんの姿を見たらすぐ逃げて」
 ね、お願い。
 そう言って儚く笑った和泉は、海の泡のように美しく、ヒロシの一生忘れられない記憶になる。
 夕焼けの中、笑っていた異国の人。デンマークの綺麗な街に住んでいるはずだった。彼は、薄汚い町の薄汚い売人の家の中に住んでいた。
 和泉はもう泣きもせず、笑って坂口を迎え入れたという。
 手紙を見たヒロシの母は、血相を変えて警察に連絡した。
 警察が突入したときには、和泉は手足、胴、首をばらばらにされて、畳に転がっていたと云う。
 隣には坂口が喉を掻き切って自殺していた。

 風呂場で和泉はくるりと回転する。
「何処に、居るのかな」
 ぱしゃり、と水音。
「何処に、行くのかな」
「行先は大ソ連邦だ。貴様に選択肢は無い」
 突如響いた鋭い声に、和泉はびくりと体を強張らせた。
 脱衣所のすりガラスに、スチールブルーが透けて見えた。
「大尉(カピターン)……」
 KGBウラジーミル大尉。
 完全に気配を消していた!
 すりガラスなのに、彼の灰色の眼光が見えるようだった。
 和泉は身震いする。彼の国の施設を激しく壊して出て来てしまった。
「大人しく投降しろ。そうすれば、施設破壊の件は不問とする」
 和泉はふるりと体を震わせる。
「い、和泉、取引、する」
「あんなヴァルコラキがそんなに大事か。理解できんな。だが、取引に応じる用意はできている」
 身を乗り出したのが察しられたらしい、僅かに口角が上がる気配がした。
「坂口の居場所を特定した。ただ今より捕縛作戦に入る。ついてきたければ来るがいい。ただし、客人扱いはしないがな」
 ばしゃん
 身を乗り出しすぎて、逆に浴槽に落ち、尻尾がばちゃばちゃ跳ねた。
「そこは狭すぎるようだな」
 ようやく水面に顔を出す。
「行くなら急げ。俺は急いでいる。貴様が急ぐのにそれ以上の理由は無い」
 すりガラスの向こうで、ウラジーミルは通信を聞いた。
『デンマーク国王イェンセンと、フィンランド軍総司令官アールネ、坂口の拘束を確認』
「ダー、通信を妨害し続けろ」
 帰ってきた『ダー』(了解)の言葉。同時に、すりガラスが開けられる。