49―片割れの兄、ダニエル


 依子は煙幕が晴れた地点で、軽く息を切らした。
「もう、大丈夫ですね。後は、あのダニエルという男だけ」
 ジャックは暫く無言だったが、目を離さず口を開いた。
「さっきの言葉だが……」
 依子の頬に、朱が刺す。
「ジャックさん、お分かりになりませんか? 私の気持ちが」
「……」
 ジャックは無言のまま、無表情のまま。
「今なら誰もいません。ええ、誰も、いないのです」
 ほう、と息を吐かれる。
 その息は何処までも甘く、少女が吐いたとは思えないほど艶に満ちていた。
「私に、初めての」
 しゅるっという、和服特有の衣擦れの音。
 肌蹴られる胸は掌にすっぽり収まるほどに小ぶりで、ふるりと震えている。
 唇がそっと顔に寄せられる。
 すなわち、体全体が押し付けられ、柔らかな、それでいてしなやかな感触がぎゅうと。
 長い黒髪がさらさらと体をなぞる。
「お情けを、くださりませ」
 すっとジャックの手が依子の背に這わされる。
「一つ、聞きたい」
 黒い瞳が情に潤む。
「何でしょう? はしたないとお叱りになりますか?」
「いや」
 ジャックの目が赤く点滅する。
 チカチカとする、その瞳は、洗脳命令。
「君は誰だ?」
『正体を現せ』
 依子は、いや、依子の姿をした誰かは
 ジャックに腹部を蹴り飛ばされ、軽く吹っ飛んだ。
 その手から、小さなナイフが転がり落ちる。
「依子! 何処だ!」
 ジャックのめったにない大声に、煙の中から呼応。
「こちらです! 見えてはいたのですが、息ができず……」
 何かを引きずる音と、本物の、声。
 現れた。
 戦闘で髪をぼさぼさに乱し、鼈甲の髪飾りは歪み、右手にはBAR、左手には素手で倒したらしきストリートギャングの大柄な男(鼻血を垂らして呻いている)。
 本物以外の何物でもない、依子が。
 その本物の声は
「ジャッークさーんー」
怒りに震えていた。
「私のおっぱいにはそんなに魅力がありませんかあああああ!」
 地下道に響き渡る絶叫。
 ポカン、とする。ジャック。
「偽物だと見抜いたのは素晴らしいです! ですが、若い娘に体を寄せられ、胸を見せられ、何故そんなに冷静なのですか! そんなに小さいですか! このっ」
 投げ捨てられるストリートギャングの悲鳴。
「鬼畜英米があああああああッ!」
 たぶん、鬼畜なのは、体の一部分。
 対応も対処もできず、呆然と立ちすくむジャックと、息を切らせて目をぎらつかせる依子。それを割ったのは、くっくっく、と喉の奥からの笑い声だった。
 黒い髪が半分以下の長さに落ち、ウェーブがかかっていく。
 その色は星のような金髪。
 体の色は更に白くなり、細身の西洋人の男性のものに。
 服は黒いコートに。
 長く垂らした前髪の下から覗く瞳は、ネオンブルーアパタイト。
「大変見事な滑稽劇でございました」
 アッパークラスの英語。
「私の変化を何処で見抜かれたのですか? 後学の為にお聞きしたく存じます」
 ダニエル!
「何処も何も」
 ジャックは眉間に皺を寄せる。
「依子が、俺以外が如何でもよくなる事などない」
 小ばかにしたように、口元に手を当てるダニエルを、睨みながらも真摯な目。
「俺は、そんな彼女が、いい」
 本物の依子の顔に、本物の朱が刺した。
「おやおや、私の演技はまるっきり見当違いだったのでございますね。こうすればだいたい落ちるのに」
 笑い顔が美しく歪む。
「そうやって、落ちた相手が、裏切られたと思い込んで死んでいく。その瞬間の絶望と怒りの瞳が、私の何よりの楽しみですのに」
 残念至極です。
 歪んだ顔は笑い続ける。
「それでは、幕間の休憩と致しましょう。暫しごゆるりとお寛ぎください」
「ジャックさん目を!」
 再び青い瞳に素早くゴーグルがかけられたのを見て、依子が叫ぶ。
 しかし、叫んだところでなんだというのか。
 今度は音響の無いタイプだったのが唯一の幸いだ。
 二発目のスタングレネード。閃光が視界を一瞬で奪う。
 二人が目を開いた時には、既にダニエルの姿は消えていた。
「追うか?」
 依子は悔しげに首を振った。
「一度引き返しましょう」
 BARを見せる。
「弾切れです。視界が利かないので、限界まで撃つしかありませんでした」
 それは、ジャックも見えていない時間があったという事。
 だが、ジャックは頷いた。
「引き返そう。装填してまた戻ろう」
「はい」
 すっと差し出された手に、依子はきょとんとした。
「歩きにくいだろう」
 ボソリ、と呟かれ、目が丸くなる。
 だが、次には嬉しげに微笑み、手を握り返した。
「英国紳士でいらっしゃいますね」
「イギリスでは紳士が普通だ」
 歩きにくいのは、周囲が死体と血で満ちているから。
 しかし、英国紳士と大和撫子は、それを認め合っている。
 ジャックは変わり始めている自分を自覚した。
 それは、ジャック・ザ・リッパーとして、ロンドンを恐怖に陥れていた頃、最も嫌悪していたこと。
『君の彼女を尊重してあげなよ』
 ヴィンセントの言葉は聞き流したはずだったが、確かに胸に刺さったのかもしれない。
 心臓は確かに鼓動を強くしだしている。
 間違いか正しいか、それを決めるのは、誰だ。