ざっとしたあらすじ
死んだ後の世界、ヴァルハラ。それは現世が終焉を迎えた後、新たなる世界での覇権を賭けて、各国戦力が戦争を繰り広げる”天上の戦場”。
その入り口の店、ヘヴンズ・ドアーでは死者がヴァルハラに行くかの判別と、ヴァルハラに来た人間の行き先探しの手伝い、店員の派遣を行っている。
店員は依子(日本人)、紅玉(中国人)、エミリー(アメリカ人)の三人娘。共に行動するのは、走馬灯が見える男ジャック・ザ・リッパー。
アンダーグラウンドでの戦いは、トップの双子の敗北で終わった。アダムがサディズムを抑えきれず、片割れのダニエルを惨殺したためである。
一方、父親であるフィンランド元帥をエミリーに殺害されたウッラ=マイヤは、復讐を誓っていた。彼女がウクライナ革命軍及びイギリスと手を結び、復讐を企てる章。オランダヒューリック商会トップヴィンセントの妹、ロビンは触れたものを刃物に変える能力を持つ、強力な戦士だが、兄の危機を感じると暴走してしまう。指輪に染みができる事によって、兄の死亡を知ったロビンの追走を逃れながら、カナダまで辿り着く事ができるのか。


53―ヴァルハラのウクライナ、ヴァルハラのカナダ

 水色のワイシャツに、ワイン色のネクタイを結び直す。
 タイピンまで確認すると、パーシー・コレットはトイレを出た。
 歩きながらプラチナブロンドを軽くなでる。その下の筋肉はいかめしく、肩が盛り上がっている。
「院長先生、こんにちは」
 若い女患者の挨拶に、きりりとした笑みを向け
「やあ。具合は如何かな?」
女患者は頬を染める。
「だいぶ良くなりました。先生のおかげです」
「いや、君の努力だよ。でも、気を抜かないように。また熱っぽくなったら、すぐに看護師を呼んでね」
 そのまま、さっそうと立ち去る。
 カナダの病院で一番かっこよく、しかも若く、そして逞しい院長。
 そんな評判にふさわしいのが、パーシーだ。
 ただ、彼には悩みの種がある。
 それは芽吹いて花を付け実をならし、また種となる。
「院長!」
 別の看護師が息を切らせて走ってきた。
 彼は複数の可能性を考える。
「ケネス先生が!」
 幾つかの可能性が消える。
「兄さんがどうしたんだい?」
 この可能性だけは違ってくれ、と祈る。
「中庭で患者さんの一人と揉めております!」
 最悪の事態だ。
「急いで行くよ。君は他の患者が近づかないようにして」
 そう言うと、ケネスは二階の窓から飛び降り、中庭にショートカットした。

 ウラジーミル・グリゴーリビッチ・グリーシャ。
 KGBは第一管理局行動実行部(通称V部)所属、階級は大尉。
 現在彼は
「照準合いました!」
「発砲許可を!」
死に瀕していた。
「まだだ」
 指揮官は苦渋の顔を浮かべる。
「あのコヴァリュークを殺した男だ。確実に、確実に仕留めねばならん。あのソ連の番犬を、殺す機会は他にないと思え」
 コヴァリューク、それはウラジーミルの足元の躯の、生前の名だ。
 彼はウクライナ革命軍一の実践格闘術の使い手と言われていた。
 この革命軍の隠しアジトの要石だった。
 それを、このウラジーミルはアジトのビルに一人で侵入し、コヴァリュークともみ合い。
 この地下室に突き落すついでに、素手で首を引きちぎった!
 コヴァリュークの無残な亡骸に、革命軍の兵士達の心が軋む。
 引き金にかけた指に汗が滲む。
 地下室にはウラジーミル一人。
 階段は鉄壁で封鎖。
 ただし、狙撃のための隙間だけが開き。
 そこに兵士たちが汗を握っている。
 一人が叫んだ。
「何だ!? 何か言っているぞ!」
 ウラジーミルの口元に煙草が運ばれる。
 その口は確かに、こう動いている。
「Прощайте(さようなら)」
 一人が煙草の箱に気付いた。
「あれは……! あれはコヴァリュークの愛用の煙草だ……!」
 ついに指揮官は絶叫した。
「発砲許可アアアアアア!」
 一斉にライフルが火を噴く。
 硝煙が満ち、血の臭いが鼻孔に染み渡る。
 しかし
「何だ!? あの男、何なんだ!?」
「こっちに向かってくるぞ」
 何発もの弾丸を受けながら、ウラジーミルは階段を上がった。
 火の点いていない煙草を銜えながら。
 その体は確かに血を流している。
 しかし、その血が、あまりにすぐ止まり、ついに鉄壁が彼の両腕で持ち上げられた時、兵士は絶叫した。
「化け物めエエエエエエ!」
 ウラジーミルが懐から特殊警棒を取り出した。
 その場の全員が躯と名を変えるまで、3分とかからなかった。
 そして、無線を取り出した。
「殲滅成功しました」
「その場に女はいるか?」
「いいえ」
 その返事に、上官は舌打ちした。
「逃したか!」
「誰かいたのですか?」
 煙草を捨てる。
「お前に知らせるのが遅くなったのが失敗だ。いた。大変な大物だ。そこのアジトに女が潜んでいた。奴の名はネクラーサ・ダヌィレーンコ。ウクライナ革命軍の女将軍だ!」
 ぎりり、と奥歯を噛みしめるのを無線が拾う。
「追いますか?」
「いや、もう遅い。本部に帰ってこい。どうせ、弾は取り出さないといかん」
「ダー」
 
 パーシーは全速力で走った。
 学生時代アイスホッケーで鍛えた体は、この程度の全力疾走ものともしない。
 目標は見つけた。
 銀色の髪。
 自分と同じ青い瞳。
 しかし、その体は細く、肌は青白い。それでいて艶めいていて、どこか不健康な色気を醸し出す男だ。
 おろおろと口元に手を当てているのに、大声を上げた。
「兄さん!」
「あら、パーシー、いらしてくださったのですね!」
「あらじゃないよ! コーヒー淹れてくるって行ったっきり、帰ってこないと思ったら!」
「だってコーヒーにはお茶菓子がついていると幸せになれるでしょう? そういえば、クッキーがありましたと思い出したので、それを取りに行って、ついでに可愛らしいお子様がいらしたので、中庭で一緒に頂いていたら―」
「それは総合してサボりというんだよ! 全くいつもいつも!」
「おい、俺を無視するな!」
 上から野太い声が響いた。
 ぎろりと睨みつけるのは、長身の男。退院間近の入院患者だ。病名は結石だったな。
 まあ、彼が無視するな。と怒鳴るのも無理はない。彼はパーシーの兄、ケネスの胸ぐらをつかんだままだったのだから。
「院長先生よぉ、この兄ちゃん先生、人の話聞いてんのか。何言ってもへらへらへらへらよぉ」
「人間笑顔でいる方が、人生は楽しいのでござります」
 にこにこし続ける兄に、はあ、とため息。
「で、何でこんな事になったの」
「花壇に煙草をお捨てになったので、お花が可哀そうですよ、と申し上げましたら」
 相変わらずにこにこ。
 パーシーはまたため息。
「君、ここは禁煙だ。ましてやポイ捨ては火事の心配がある。しかし、君は退院も近いから、兄さんを放してくれたら、今回は見逃すよ」
 笑顔に変わりがないケネスと違い、パーシーは筋骨隆々としている。それを思ってか、男は手を放した。
「ところで君、兄さんを殴りはしなかったろうね」
「いや、それは」
 眼光鋭いパーシーに、男が急にしどろもどろになる。代わりにケネスがおっとりと返す。
「お腹をぶたれちゃいましたー」
「そうか」
 次の瞬間、パーシーは男の腹部に回し蹴りを叩き込んだ。
 男が胃液を吐き出して、蹲る。
「行こう、兄さん」
「あらあら、パーシー、あの患者さんはよろしいのですか? 怪我を放置するのは医者としてちょっとまずいかと思います」
 パーシーは隣に来るよう手で指示する。
「自業自得さ。それより何より」
 ここはヴァルハラ。
「もう、何したって無駄さ」

 3日後、結石で入院したはずの患者は、遺体安置室に運ばれた。