76―ドッグ

「大尉(カピターン)、次の切符が取れました!」
 シベリア鉄道への乗り継ぎ駅ベンチに、ウラジーミルは体を預けていた。
 体を起こそうとするのを、慌てて両手で止める。
 灰色の双眸は非難するようにこちらを見る。しかし、怒りは買わなかったようだ。
 DDRパンをどっさり入れた袋から、一つ取り出す。
 固めの丸パンを手に持ったまま、ウラジーミルはコンクリをうろつく痩せた犬を見ている。
 野良の老犬らしく、毛がボロボロになりすぎて元の色がよく分からない。微かにぱらつき始めた雨から逃れる場所を探して駅まで来たようだ。
「あれでは冬は越えられんな」
 ウラジーミルが言った言葉が、その老犬を指していると判断するのに、何拍か遅れた。
「は……はあ……」
「いつだったか、誰だったかに聞いたか忘れたが……。陸軍の奴が間抜けな失敗をした事がある。犬を訓練して、背中に爆弾を括りつけて敵戦車に突撃させようとしたらしい。訓練の時は見事に爆弾を戦車まで届けてくれた。そこで実戦投入したらどうしたと思う?」
 ニコライは自分に向けられた流し目は、笑っていると感じた。
「我等がソビエト陸軍戦車に爆弾を抱えた犬が次々突っ込んで来たのさ。自軍の戦車を使った訓練通りに、弾雨を掻い潜って来たらしい。奴らは敵軍の戦車を覚えさせる事を失念していたんだ」
 ふ……ふふ……。
 ウラジーミルは微かに笑い声を立てた。雨音に掻き消されるほど僅かな笑い声だった。
 ニコライは初めてウラジーミルが笑うところを見た。ふいにドミトリー軍曹が浮かんだ。あの人は大尉の笑顔を見た事があるのだろうか。
 急激に泣きだしたいような気持に駆られ、ニコライはそれを押し留めた。
「大尉、列車は着いておりますが、寝台の用意がまだです。暫く、休んでください」
「いや、もうどこにも傷は残っていない。問題ない」
 怪力と急速な自己再生能力。それはヴァルハラで戦士として進化したものだが、現世に居た頃より繰り返された肉体改造に起因する。手術、投薬、訓練を繰り返して、ウラジーミル・グリゴーリビッチ・グリーシャ大尉は誕生した。その体は、ただのイルクーツクの少年程度の大きさのニコライが、体を支えられる体躯に、電柱を投擲武器として使える筋力を顰めている。対決した時、依子はウラジーミルを力点の入れ方を熟知しているタイプと見誤った。人体の構造上不可能な筋力であったためである。不可能を可能にした可能性の結晶が、彼なのだ。
 その事実がニコライの心をぞっと冷えさせた。そして、沸騰させた。
「大尉、貴方はお疲れであります!」
 気付けば、ウラジーミルの両肩を押さえつけていた。座っている彼がニコライを見上げる形になる。ニコライは喚くように言った。
「日本騎士団をお一人で追討! その足でウラジオストクからシベリア鉄道に乗り! 下車して現場を確認した直後に襲撃! それから人目を逃れてここまで来られました! 貴方の心はいつ休まるのでありますか!」
 鼻が痛い。ニコライは痛みで自らが泣いている事に気付いた。
 ウラジーミルはこちらを見上げている。僅かに眉を寄せた顔は、瞳に十七歳の少年が写っている。
「お前は俺を失いたくないのか」
 確認ではなく、問いである。
「Да!(ダー、真実にそうです。そうなんです大尉!)」
「そうか」
 ニコライの手が外された。それは空気を動かすように軽く、のけられた事には、尻餅をついてから漸く気付いたくらいだ。
 ウラジーミルは、手元のDDRパンを、老犬に放った。雫を受けながら弧を描き、老犬の足元に落下する。
「車内で待つ。来い」
 立ち上がったウラジーミルに、気付けば見下ろされていた。
「はい……」
 慌てて姿勢の良い背中を追う。老犬がほとんど抜けた歯で、食材にかぶりついていた。

「おいサム(サマンサの愛称)、テメェはいつになったら最高級のアメリカンじゃねえコーヒーを淹れるんだ?」
「そうねえ、貴方が今三杯目を飲んだから、百杯目の奇跡を聖書に書けばいいわ」
「は! あんな奇跡を愛する奴らならこう書くね、「神の子が電気ポットに祈りを捧げると、なみなみと赤ワインが噴出した」ってな」
 ヘヴンズ・ドアーの店の奥で、こんな会話が繰り広げられていたのは、ウラジーミルがバスと格闘する前日。エミリーとジャックが、ヘヴンズ・ドアーの店員たちの昔話をし、不真面目なオーディンの話をした翌日である。
「それにしても驚いたぜ。俺はヘヴンズ・ドアーは年中無休だと信じてたんだがな。お、チャオ、来やがったか」
 アンドレアは左目の黒眼帯以外は、今日も違う服である。茶色のワンピースのボディ部分に黒の飾りが羽毛のようにびっしりと埋めつくされ、Vネックの胸の谷間と、ミニスカートから長い脚を見せつけている。お洒落なんであろうが、たかが外出するだけでエナメルのヒールなどという効率の悪い格好をわざわざするのは、ジャックにもエミリーにも理解できなかった。ジャックにはそのむき出しのセクシーさは、苦手なジャンルであるし、エミリーに至ってはTシャツにジーンズ寒くなったらダウンをプラス、以外のコーディネートなどない。
 サマンサは今日も簡単である。クリーム色のブラウスに、こげ茶のタイトスカート、青いエプロン。ブロンドの下には、落ち着いた化粧がなされている。
「休日出勤ごめんなさいね」
「会いたかったぜ。顔を見られて嬉しい限りだ」
 ピンクのルージュと、真紅のルージュが交互に動く。
「でも、呼んだのはエミリーだけど……ジャック……貴方はエスコート役なの?」
「いや……俺はあんたに用があって来たんだ。サマンサ」
 ジャックが脱帽すると、サマンサは肩を竦める。
「あの二人はとてもプライベートな用事らしいの。寒くても平気?」
「ああ、俺も外の方が都合がいい」
 ジャックは常の陰気な印象を与える顔を崩さない。
 サマンサも当然、いつもの笑みを浮かべたまま、ジャックを伴い扉を閉めた。
 エミリーはジャックとすれ違い様、二本指だけで敬礼チックな仕草をした。

「あたしに話って何だい? ロッソ・ファミリーの女ボスさん」
「おう。っつーか、自分で言っといてなんだが、年中無休なんざ正気の沙汰じゃねえな。サムの奴の辞書には金しか載ってねえんだ」
「あたし達も交代で休みはあるんだぜ? そう客が来るわけでもねえし」
「バカンスくらい取れよ。昼はビーチを堪能して、夜は山ほどのディナーとドルチェでぶくぶくに太らせてやるから」
「あんたそんな生活してそのスタイルか? ミラノのモデルがフォーク握って殺しにくるぞ」
「いや、普通に酒と煙草もやるぜ? っていうか吸わせろ。ああ、一本如何だ?」
 相変わらずの大きな手振り身振りで、葉巻を出してくるのを、苦笑いを作って制止する。
 シチリアマフィアを束ねて、今やイタリア半島最大勢力のトップとなったアンドレアに、まるで怖気づかない。
 それはサマンサと長年の交友をしているらしいアンドレアへの気安さであった。
 だが、直後、エミリーは目の前の女に、死神の印象を初めて抱く。

 そしてその壁の向こうでは、ジャックがサマンサの腹にナイフを突き立てていた。