78―コーヒー

  アンドレアは豪奢な船室に降り立った。
「パブロ!」
 真紅の皮張りのソファの男に声をかける。
 全身を固めた筋肉をタンクトップから披露し、刈り上げられた頭は水色に染められていた。顔立ちは明らかなヒスパニック系で、黒い瞳が鋭さを持って笑顔のアンドレアを捉える。
 右手はつまみに置いておいた胡桃をカリカリと、引っ掻いていた。
「随分と嬉しそうじゃないの」
 男は女言葉で言うと、胡桃を握りしめた。パキンと音を立てた殻は、木端微塵に粉砕した。
「おう。嬉しいったらねえぜ」
「まあ座りなさいよ、あたしの船じゃないけど。まあ飲みなさいよ、あたしのワインじゃないけど」
 アンドレアのワインをグラスに注ぐと、軽く差し出す。
 赤い液体を一気に干すと、アンドレアは独特のクカカカカという笑い声を上げた。
「え? 聞いてくれよパブロ姐さん。え? 俺がメッセンジャー・ボーイをしてやった結果をよ」
「勿論聞くわよ。あたしからアンタにした話を聞かないで如何するの? 成功したの? してないの?」
 アンドレアはもう一杯注いだ。
 そして、グラスとカンと鳴らして、ガラス製のテーブルに置いた。
「「金輪際そのツラを見せんじゃねえ」って言いやがったんだよ、エミリー・カーターは」
 そして盛大に哄笑した。
 パブロははあ、と艶っぽい溜息を吐いた。
「え? 不満かよ? 不満なのかよ、司令官(コマンダンテ)」
 まだ笑っているアンドレアの顔をちらりと見た、スペイン軍特殊部隊隊長は両手を広げる。
「不満に決まってるでしょ、海賊女王(レジーナ・ピラータ)。なんだってねえ、アンタ、スペインが、いえ、南北アメリカの君主国たちがよ、アンタにスーツケース一杯のお金を貢いだのよ」
「何も不満に思う事ぁねえさ」
 アンドレアは大きく足を組んだ。
「見込みのあるやつは初めは断るんだ。そうさ、初めからOKなんて言う奴はまず見込みがねえんだよパブロ。知ってってだろ」
「あら」
 パブロの顔が綻んだ。
「あたしったら、結果が気になって、男として恥ずべき事をしてしまったわ。アンドレア、そのジーンズとTシャツも似合ってるわよ」
 洒落た服装から着替えていたのだ。誰がコーヒーをぶっかけたかなど、わざわざ聞くまでも無い。
 アンドレアとパブロのグラスが、チンとキスをした。

 三日後の東ベルリン。
 ラースローはいつにない緊張の中にあった。
 正確にはいつにない訳ではなく、戦場の馬上で常にある緊張である。
「いましたよ、ラースロー」
 楽しげにコートを引っ張るアントンの、いつもの手袋を払いのける。
「みりゃあ分かる」
 細面のアントンの顔に、不意に湧きあがった言葉を押さえかねた。
「なあ? アントン、お前……」
「ラースロー、今はウラジーミル大尉です。そして壁ですよ。東西ドイツを生きながらに引裂いたあのベルリンの壁です」
 ソ連の番犬、ウラジーミル大尉と、ベルリンの壁を同時に崩す。
 それがアントンの計画であった。
 何も同時でなくたっていい。一つ一つ潰していけ。
 ラースローのその言葉に、アントンは答えた。
「我々が壊すのはソビエトです。唐突に崩れ去った壁を見た瞬間、東西ドイツの民衆は蜂起します。するに違いない。長年別たれた同胞を見た時に、真っ先に考えるのは喜びであり、次に考えるのは同胞を二度と失いたくないという思いです。そこで、ソビエトの最も強い男が死ぬ。ソビエトを崩すのに、ドイツ国民の誰が迷いなど抱くでしょう? 恐ろしい相手の中の、最も恐ろしい男が、目の前でいなくなるのです。他の場所で死んだのなら、ソビエトは必ずウラジーミル大尉の死を隠す。徹底的に隠蔽するでしょう。しかし、私があの男と、ウラジーミル大尉と戦っていれば? あの人間離れした戦い方を見て、それが誰か別人であると思う人間がいるでしょうか? 崩すのです、あの北の暴君を崩すのですよラースロー」
 冷え切った十二月に、アントンの頬は赤くなっていた。
 随分と西ドイツの人民を信じた作戦だ。
 だが、西ドイツの彼らが、壁の崩壊を願っているのは明らかである。
 現世でベルリンの壁があった時代以降にヴァルハラに来た者達は、必ず悲嘆にくれるのだ。
「あの壁がまだあるなんて! 嫌だ! 信じられない! あの壁は現世ではとっくに壊れたんだ! あるはずがないんだ! 神様!」
 東ドイツに渦巻くのは、壁が壊れた後のドイツを知る者の、現世のEUの中心たるドイツであり。第三次世界大戦下では、NATO軍の”鉄の騎士”と呼ばれやはり中心の一つであるドイツであった。
 西ドイツでも、そうであるならば。再統一後の栄光を知るならば。
 再統一を願わないはずがない。
 一時的なパニックから、彼らはすぐさま銃を取るだろう。
 西と東が手を取り合って、ソビエトを進軍していくだろう。
「ラースロー、あの少年兵がいませんね?」
 双眼鏡で覗いた先、コートを固く着込んだ男は独りだけだった。それがウラジーミル大尉である事は、詮議の余地が無い。しかし、彼の周りに三日前まで、それこそ本物の犬のように付いていた、少年が居なかった。
 首を傾げる彼らだが、それもそのはず、ニコライは現在モスクワに居たのだ。
 モスクワ駅の洗面所で、拳を震わせて涙を流していたのである。
 それはウラジーミル大尉が再び、東ベルリンに戻る命令が下りた時の事であった。
 駅の電話で、確かにウラジーミルはこう言った。
「あれはもう使い物になりません」
 電話をする声がニコライに聞こえていたなど、ウラジーミルは知るはずがない。
 だが、戻って来たウラジーミルは、表情一つ変えずに、いつもの凍り付いたような灰眸で、ニコライに告げたのである。
「貴様にはモスクワへの帰還命令が下った。俺は東ベルリン行の列車に乗る。貴様はモスクワ行に乗れ」
 声が出なかった。
 ただ、目を見開いて、ウラジーミル大尉のコートを掴んだ。
 その掴んだ右手を見て、大尉は僅かに笑った。
「何だ? 欲しいのか?」
 その微笑に近いものを見た瞬間、ウラジーミル大尉は列車に飛び乗った。
 閉まったドアの背に向って、ニコライはなんだか分からない事を喚き続けた。