80―マンリー

  追うか?
 ウラジーミルは、走り去るアントンと幾之助を見て、一瞬逡巡した。
 しかし、一瞬しかしなかった。
 ベルリンの壁の方で起こった爆発音に、そちらを優先すべきと踏んだのだ。
 彼の任務は壁の死守である。
 途中で拾った荷物(おんな)を脇に置き、ウラジーミルは走り出した。
 あちこちで民衆の声がする。
「壁が崩壊する!」
「壁が崩壊する!」
「壁が崩壊するぞ!」
 走りながら通信のイヤホンを耳に入れる。
「将軍、ベルリンの壁付近で爆発です」
 イヤホンの向こう。モスクワに居るKGB最高責任者は冷静に、落ち着いた声で命じた。
『パニックを壁に近づけちゃいけないよ。ベルリンの壁は、東ドイツの希望なんだ」
「Да(ダー)」
 民衆の声は歓喜に昂り始めた。
「壁が崩壊する!」

 幾之助とアントンは、ベルリンを走り抜け、ポーランドとの国境沿いの、製鉄所の町アイゼンヒュッテンシュタットの、中心地に飛び込んだ。
 そこはのんびりとした公園に見えていたが、巨大な労働者を象徴する壁画が、此処もDDRなのだと思い知らせる。
 壁画に描かれているのは、大きな掌、鳩、そして東ドイツ、ポーランド、ソビエトの国旗。
 その、掌の皺をなぞる様に、アントンは飛び降りた。
 下はコンクリートで固められている。
 そこに、固いブーツが降り立つ。
「貴方は何者です?」
 幾之助は答えず、斬撃を繰り出した。
 アントンの対応はベンチだった。
 斜め袈裟斬りに、ベンチを浮かせてぶつけたのである。
 幾之助は躊躇わず、ベンチを袈裟斬りにした。
 重たい木製のベンチが、バターでも切るように、ずばん、と割れた。
 アントンはまた空を駆け、地に降り立つ。路上駐車の自動車に触れる。
 ベンチが袈裟斬りにしている背後を、自動車が襲った。
 幾之助は轢き潰される直前に、上に跳んだ。
 ボンネットの上に飛び降りた幾之助を乗せた儘、自動車はベンチを撥ねた。
 そこで幾之助は息を飲んだ。
 ボンネットの更に上から、もう一つのベンチが落下してきたのである。
 疾走する車の上でバランスを取れる訳がない。
 幾之助はあっけなくベンチの下敷きになった。
 骨が圧し折れる音を自分で聞いた。
 しかし、ベンチは更に”降りて”来た。
 幾之助の体は、ベンチの下敷きになったまま、車にめり込んでいった。
 メキメキメキメキ
 嗚呼、これは私の体が潰れる音だ。
 幾之助はそれを自覚した。
 しかし、恐怖は無かった。
「貴方は何者です?」
 アントンが自動車の前に立った。
 幾之助は答える頃合いと判断した。
「日本武士団、飯塚幾之助」
 言葉を発すると同時に、口から血を吐き出す。
 恐らく、胃に穴のようなものが空いているのだろう。食道もかもしれない。
「何故、日本人が邪魔をするのですか?」
 幾之助は血をごぶと吐きながら答えた。
「貴方なら、ワロージャに……ウラジーミル大尉に勝てるかもしれないからですよ」
「日本とソ連は同盟関係に無いはずだ」
 幾之助は笑った。
 口を真っ赤にして、笑い声を上げた。
 その笑い顔は、標的を目の前にしたストーカーに似ていた。
「貴方は私とウラジーミルの関係を知らない」
「貴方はスパイなのですか?」
 笑い声と同時に血が飛び散るのも、幾之助は気にしない。アントンはそれに冷静になろうとしているが、不気味さに冷や汗が零れたのを、幾之助は確かに見た。
「良いですか。国家なんてものはね、便利なものですが、別に躍起になる必要はないのです。それより、目の前に強い雄がいるじゃないですか。ソ連最強、KGBのウラジーミル大尉という強い雄がいるじゃないですか」
 アントンは、動かない。剣鬼は笑い続ける。ボンネットに赤が飛び散る。
「私は雄です。より強い雄を噛み砕き、噛み千切り、骨まで貪ってやりたいという欲望は当然の事ではないですか。あれは私の肉です。あの雄は私の肉です。私が食らいつくべき肉です。他の誰にも渡してはならない、愛しい肉です。それをですねえ」
 アントンは息を呑んだ。
 幾之助の左腕は、間違いなくひしゃげていた。
 すなわち、幾之助は右手一本で。
 300キロ近くあるベンチを撥ね飛ばしたのである。
 しかし、アントンが驚愕したのはそれではない。
 飯塚幾之助が発した言葉だ。
「私の雄だ。貴女のような雌が彼に勝つなんて、あってはならない」
 幾之助は、車から、アントンの体の上に飛び降りた。
 そして、力任せにコートのボタンを引きちぎった。
 その下の白いシャツをびりびりに引裂いた。
 そこには小ぶりな乳房があった。
 アントンは悲鳴を上げた。
 それは、確実に女のものであった。
「貴女の能力は、重力を操るものでしょう」
 アントンは覆いかぶさる幾之助を押しのけようともがいた。
「しかし、制限がある。貴女は自分が触れた物の重力しか操れない」
 幾之助の右手がアントンの白い肌に食い込む。べっとりと血の手形が締め上げる。
「そして、自分以外の人間の体には、重力操作を使用できない。使えたならば、今頃私を撥ね飛ばしているはずだ」
 アントンの腹部を、幾之助の右手が押さえる。彼女は酷く暴れる。アントンの腹部は、腰骨が僅かに浮いた真っ白い女の腹部だ。
 幾之助がスラックスに手をかけた瞬間、アントンは絶叫した。
「やめてえッ」
 幾之助は執念に染まった笑顔で告げた。
「貴女のような女は、入念に心を折らねばならない」
 スラックスが引裂かれた。
 アントンの滲んだ視界に、壁画の掌にとまった鳩が見えた。
 鳩の瞳は笑っていた。