ある平凡な老婆の非日常

 歳を取ってからの退屈との戦いは、嘆きとの戦いよりはマシ。
 そうこの老婆は信じている。
 老婆の一日はいつも変わらない。
 早朝目覚め、朝食にパンとコーヒーを摂取し、その後ゆっくりと愛犬との散歩を行う。近所に住んでいる娘夫婦の家のミニチュアダックスフントに挨拶して帰宅し、雑種たる愛犬と共に昼食を摂る。腹ペコの愛犬ががっふがふとがっつくのを確認した後に自分は淡々と息をするように昼食。それでもう一日の用事は済んでしまったに等しい。それから夜の九時に就寝するまで、彼女はほとんどを記憶に納めず過ごす。確かに彼女は目覚め、細々とした用事を確実にこなしているのであるが、それはどうしようもない凡庸さに掻き消えて、記憶に残らずまた朝が来る。
 しかし、その昼間は十数年ぶりに記憶に残る午後となった。
 インスタントのコーヒーをカップに注ぎ、安楽椅子にゆったりと腰かける。平穏無事な午後四時。テレビのニュースは相変わらずバラバラ死体を報道している。
 そこに、じりりいんと古臭い音を立てて電話が鳴った。
 電話などめったにかかってこない。だから、彼女は不審に思いながら、そしてちょっぴり期待して受話器を取った。
「はい。もしもしどなた?」
 しかし、その電話の先は非日常であった。
「もしもし僕ですよー」
 聞き覚えがない。やけに幼げだが、子供本来の声変わり前の声ではない。それで居て大人の声とも思えない甲高い声。
「・・・僕ってどなた?」
 老婆は警戒して聞き返す。向こうは無邪気な声を上げる。
「僕、KYO・Kって言うんだよ」
「K・・・?」
 Kの名は彼女の知ったところである。そして、あまりいいイメージはない。あちらこちらの戦に傭兵として働き、異常なほどの成果を上げる殺人一族。それがKだ。
 そして、思う。
 この娘は悪戯をしているのだと。歳はきっと酷く小さい子で、声から分からないだけなのだろう、と。
「あらそう。で、お嬢ちゃんは何処の子?」
「もー、Kだって言ってるのにー」
 電話の先は不服気だ。老婆は少し相手をしてやる気になった。退屈・・・そう、退屈だったのだ。
「そうねえ。K家ねえ・・。ところでこの電話は何処からしているの?」
 認められた、とばかりに電話の先は意気込む。
「おうち! 今お留守番してるの!」
 想像が合っていたと、老婆はほっとした。
「お家の電話からかけているの?」
「ZEKUちゃんの携帯電話でもしもししてるの!」
 あらあら、この子、誰かの携帯で遊んでいるのね。
「そうなの? 怒られないの?」
「帰ってくる前に切るもん」
 履歴は多分残ってしまうのだったのだけれど・・・。老婆は思ったが気にしない事にし、会話を続けた。その前にコーヒーを一口。
「まあ、KYOちゃんは計算高いのね」
「僕賢いの」
 そうかしら?
「それで、何でお電話して来たの?」
「番号適当に押したらおばちゃんとこだったの」
「まあ、悪い子ね。知らない人に電話かけちゃ駄目よ」
 完全な悪戯電話を少し咎める。ただし、笑い声は混じってしまう。
「悪い子じゃないもん! 良い子だもん!」
「・・・あらー、お電話勝手に使ってるのに?」
 むう、と困ったように沈黙があり、そして相手はまた言った。
「じゃあ、良い子の証拠におばちゃんの困りごと、助けてあげるのよ」
「それは良い子の証拠なの?」
「なの。何かなあい?」
 老婆には何もない。ただ、変わらない日常があるだけだ。
 不満もない、怒りもない、喜びも別段ない。
「何かないのー?」
 電話先では催促する。老婆は苦笑して、現在テレビで流れているニュースを見やった。
「そうね・・・。今は・・荒鷲ジョーンズが少し困りごとね」
「荒鷲?」
「政治家よ。公務員の数を減らすって息巻いてるの。失業率が高いのにね」
「・・・・よく分かんない」
「そうでしょうねえ」
 本当は、それにも興味が無い。ただ、今ニュースで特集を組んでいただけだ。その政治家がやけに誇らしげに称賛を受けている映像が。
「でも、僕が何とかしてあげるよ」
「そう? ありがとうね」
「本当だよ! ぜった『こら! 人の携帯を』」
 幼い声が遮られ、低い男の声に。戸惑っているとそのまま電話は男の声に切り替わった。
『申し訳ない・・。子供が電話を玩具にしていて・・』
 あらあら、ばれちゃったのね。
 彼女はくすくすと穏やかに笑う。
「いえいえ、お気になさらないで下さい」
 再び謝罪があり、電話は切れた。
 彼女の非日常は終わり、またコーヒーを啜る作業に移る。
 まだ、温もりが残っていた。

 そしてその晩、彼女は就寝前にテレビのニュースを何気なく見ようとテレビをつける。
 何もない。どんな事件があっても関係がない。
 そのはずのニュースで、アナウンサーは切迫した声を出した。
「荒鷲ジョーンズで知られる、●●知事、ジョーンズ氏が、何者かに殺害されました。鋭利な刃物で斬りつけられた事による失血死で・・部屋には他にSPが・・・」
 そこまでアナウンサーが言った途端、いきなり紙がテレビの中で差し出される。
「失礼致しました。ジョーンズ氏の死因は心不全の誤りでした。訂正します。申し訳ありませんでした」
 他のチャンネルに回すと、もうニュースは次の知事の輩出が話題になっていて、死因については全く触れられていない。ただ【急死】とだけ報道されている。
『僕、KYO・Kっていうんだよ』
 その言葉が老婆の背筋を駆け巡り、彼女は安楽椅子に座り込む。
 どくどくと老いた心臓が鳴り響く。
 その時、リビングにまた電話が鳴り響いた。
 受話器を取る老婆の口元に浮かんだ笑みは、誰も知ることがないだろう。