101―一番の狂人

 地下から出ると、青空には雲一つ無かった。
 嫌な空だ、とエミリーは思った。
 こういう一点の陰りも無い昼間が耐え切れなくなって、よく人が死ぬ。
 カナダ国立病院の敷地内の出口には、葉っぱを落とした木々が森となっていた。
 周囲には雪が少し積もっている。
 以前、ロビンと”やらかした”森だ。
 あのオランダ人兄妹は如何しているだろうか。
 ヨーロッパの水質汚染の影響は受けているはずだ。
 人を殺してきたばかりなのに、他人の安否を気遣う自分に、こう言ってやった。
「あたしは人情家なんだ」
 まったく、依子と紅玉(ホンユイ)がいないと、皮肉ばかりが口を吐く。
 たかが70年一緒だっただけで、どうにも居るのが習慣になってしまったらしい。
「これはアレだ。この嫌な森が悪い」
 そう呟いたところで、赤い車が視界に入った。
 そのスズキ・キャリィが小型の救急車である事に気付いたエミリーは、また呟いた。
「嫌な森だ」
 目の前で救急車が停止し、運転席からカナダ国立病院院長パーシー・コレットが下りて来たので、まっさきに言ってやる。
「救急車代は払わねえぞ」
 その様子を見ても、パーシーにいつものハンサムな笑みは浮かばなかった。
「いや、必要かもしれなかったんだよ、事情を今から話すね」
 それを遮るように、助手席から男が下りてきた。
 筋肉質な弟のパーシーとは真逆の、ガリガリに痩せて度の強い眼鏡をかけた男―ケネス・コレットだ。
 彼はキャラメル味のポップコーンの袋を、こちらに差し出した。
「召し上がりますか?」
 明らかに食べかけであるそれを、手で避けながら「いいよ」と言うと、彼は続きを食べ始めた。
 時折白衣に零しているが、パーシーは特に注意しない。
 今はそんな無駄な事をしていられないらしい。
 いつも過剰な程に兄を気に掛けるパーシーの、この慌てぶりはよほどの事だと身構える。
 しかし、ケネスは慌てた様子も無く、指についたキャラメルを舐めながら言った。
「アンダーグラウンドがねえ、封鎖されたんだそうでござりますよ」
 エミリーは耳を疑った。
 何せアンダーグラウンドのボスである双子と、5時間前に別れたばかりだからだ。
「おい、どういう事だよ?」
「さあ?」
 ケネスは残ったポップコーンを袋に直接口を付け、中身を流し込んだ。当然大いに零れ、白衣がキャラメルでべたべたになる。
 さして噛みもせずに飲み込むと、ケネスはにこやかに言った。
「そんな事より、雪が美しいでしょう。良い季節にいらっしゃいましたね」
 エミリーはこの男と対峙した時に、密かに感じた背筋の寒気をまた感じた。
 ケネスはヴァルハラで一番の狂人だ。
 温和で人当り柔らかで戦いを好まず―。
 自らに、一切の価値を感じていない。
 発狂した男は、のんびりとカナダの雪の美しさを語っている。
「兄さん、ちょっとごめん」
 パーシーがそれを遮った。
 兄思いの弟に見えるが、エミリーは真実を知っている。
 パーシーが、パーシーを含めた家族というものが、生前のケネスの世界の全てで。
 そして世界はケネスを愛さなかったと。
「あら、構いませんよ、なんでも」
「うん、ちょっと僕が説明するよ」
「何でもいい、早くしてくれ。物事はイージーに済ませたいんだ」
「アンダーグラウンドの構成員から、アメリカ軍が突入してきたと連絡が入った。僕はすぐにアダムとダニエルに連絡を取った。しかし、通信機が壊れているらしく、連絡が取れない。だから、ホワイトハウスに連絡をしたんだ。どういう事かってね。そしたら、アメリカ合衆国大統領マイケルが行先を誰にも告げずに出て行き、行方不明という事だった」
「OK、大体推測できた」
「ああ、おそらく、マイケルはアンダーグラウンドに向かった、と、いう事を政府は隠している。そして、アダムとダニエルかマイケル、どちらかが死んだ。僕と考えの相違点はないかい?」
「極めて無い。畜生くそったれ」
 ケネスはぼうっと木の枝に残った雪を見つめて言った。
「味方がいなくなっちゃいましたねえ」
「いや、兄さん。僕らにはブリタニア女王と大英帝国がバックについてるんだよ」
「そうでしたっけ? あら、野兎が落ちた雪に吃驚して逃げていきましたよ、お馬鹿さんでござりますねえ」
 とりあえず、話した事でパーシーも落ち着きを取り戻したらしい。
 話したというか、戦力がある者と会話になる会話をしたというか。
「まあ、それで、あたしか大怪我した双子が穴倉から出てくるかもしれないと、救急車で駆けつけてくれた訳だ、白衣の天使は」
「僕はナイチンゲールじゃないよ、医者だ。まあ、君に怪我が無くて良かった。とりあえず病院に戻って、ブリタニア女王の指示を待とう」
 そこまでパーシーが言った時、救急車の通信機が鳴った。
 止める間もなくケネスが取る。
「もしもしい?」
 若い女のように語尾を上げて出ると、「はいはーい、わかりましたー」と明るく切った。
 そして告げた。
「北欧連合軍に病院が襲撃を受けているーって受話器の向こうで言ってらっしゃいましたけど、銃声がして切れちゃいましたよ」
 明らかにそんなテンションで話す内容ではない事を告げると、ケネスは今度はチョコレートボンボンを取り出して、エミリーの目の前にぶら下げた。
「召し上がりますか?」
 笑顔のケネスを無視し、エミリーは救急車に駆け寄った。
「戻るんだろ!?」
 パーシーはケネスを抱き寄せるように助手席に乗せながら、怒鳴り返した。
「大急ぎでだよ!」
 救急車は猛スピードで雪道を駆けて行った。
 医学では修正できないものが、過去というものだ。
 そして修正したい過去を得た時、最も手にしてはいけないものが、信仰というものだ。
 この兄弟は、それを知る者と知らない者で出来ている。