ヴァルハラではヨーロッパで水質汚染が広がり、人々はアメリカ大陸に移住しようとした。
しかし、南米、北米、共に激戦によって壊滅。エミリー(ヘヴンズ・ドアー店員)はカナダにて戦死する。
依子(ヘヴンズ・ドアー店員)、紅玉(ヘヴンズ・ドアー店員)、ジャック(依子の恋人)は、ユグドラシルに囚われた紅玉の家族を救うため、スイスへと向かっていた。
一方、イギリス女王ブリタニアによって、ペルーを脱出したダルシア(インカ帝国王女)は、フェンリルを目覚めさせる。

更にブリタニアはヴィンセント(オランダ商人)に「あるナチスのお心当たりがある方」をの情報を流す。
その頃、日本領の跡地では、動かなくなったウラジーミル大尉(ソ連KGB)が笑ってくれることを願いながら、ニコライ(ソ連KGB)が静かに暮らしていた。


106―フェンリルの目覚め

 咢(あぎと)が開く。
 眼(まなこ)をあけた、世界を呑みこむ狼。
 
 どおおおん。
 腹に響く音に、ジャック達は目を見開いた。
 東の空。
 夜明けの方向から、黒い染みが見えた。
 そう、空間に染みがあった。
 空中に染みがあった。
 空を、土を、森を、建物を、人を、その黒い染みが呑みこんでいく。
「何だこれは……!?」
 背後から返答があった。
「フェンリルよ」
「サマンサ……!」
 いつの間にか背後に居たサマンサは、相変わらずのエプロン姿だった。
「フェンリル……?」
 サマンサはいつになく固い表情だ。それが、この事態の恐ろしさを教えていた。
「世界の終り(ラグナロク)は、フェンリルと呼ばれる狼の口に、世界が呑みこまれる事」
「それがあの染み……」
「あれはフェンリルの口よ。そうね……お分かりのようだけど言っておくわ」
 組んだ腕にピンクのネイルが立つ。
「世界の終りが、始まったのよ」
 すっと指を差される。
 指の先には、スイスの国境。
「征きなさい、さあ。世界の終りを家族と迎えたいのでしょう?」
 紅玉が弾かれた様に走り出した。
「紅玉、待ってください!」
 依子とジャックも後を追う。
 サマンサの姿が闇に溶ける。
 そして、鼓動は激しくなる。
 
 世界樹(ユグドラシル)。
 数多の人間を閉じ込めた牢獄は、何事も無いかのように立っていた。
 天高く青葉を繁らせ。
 まるですべての穢れを知らぬ樹のように。
 ただの、巨大な樹のように。
「大哥! 中哥! 翠柳! 青蘭! 飛龍!」
 紅玉が兄弟の名を叫ぶ。
 すぐそこに、その牢獄の中に!
 その樹の根元には、こんこんとわき出る泉があった。
 美しい。
 緑を完全に映した透明な水。
 何も知らぬものなら、あまりに美しい光景にほれぼれとするだろう。
 しかし、その泉は、ヨーロッパの水質汚染の源。
 毒水だ。
「大哥……アナタがやったか……?」
 樹の中に囚われている男、張国軒に問う。
 テロリストとして阿片戦争に身を投じた、孤児の娘を拾ってくれた、優しい兄に問う。
 貴方は突然現れた。
 第二次世界大戦終戦。
 依子の存在に慣れた頃に突然現れて。
 家族を集め、家庭を作り。
 紅玉に兄弟をくれた。
 優しい兄。
「そいつがやったに決まってる」
 それを切り裂くような声がした。
 姿を現した二人は、オランダ商人ヒューリック義兄妹。
 ヴィンセント・ファン・ヒューリック。
 ロビン・ファン・ヒューリック。
 白いジャケットを泉に映し、ヴィンセントは言った。
 憎々しげに。
「そいつは初めてじゃないからな」
「オマエ達が何の用か」
 紅玉が匕首を構える。
「僕が用があるのは君の兄さんだよ。張国軒? どこのどいつだいそれは。ヤツの本名は愛新覚羅……」
 三人が息を呑む。
 愛新覚羅。
 清国皇族の名字だ。
 満州国の傀儡王の一族の名字だ。
「そうだ。西太后に認められなかった妃が生んだ、皇子の子供。れっきとした清国皇子だよ、君の兄さんは。民族をごまかして処刑を免れた彼は、満州国の薬師としてドイツ帝国に渡った。ヒットラーがユダヤ人虐殺を行っていた真っただ中のね。そして何をしたか」
 まさか。
「ユダヤ人を用いて人体実験を行う施設で、あらゆる毒を作り続けていた。僕の妻と娘はユダヤ人だった。離婚してドイツに残っていた」
 ヴィンセントは叫ぶ。
「そうだ! 殺したのはお前の兄さんだ! ドイツ敗戦の時に、ナチスから満州国に戻り損ねて死んだお前の兄さんだ! 僕の愛した妻を! 娘を! 毒で殺して、用済みとばかりに暗い穴に放り込んで焼いたんだ!」
 ヴィンセントは絶叫する。
「僕は殺害せねばならない! その男をブチ殺してやらねばならない! 寒い寒い強制収容所から、実験室に送られた愛しい家族の為に! 無理やりに改教させてオランダに連れ帰らなかった僕の後悔の為に! 強制収容所が解放された時、「今日は便りがあるかもしれない」と待ち続けたあの日々の為に!」
「させない!」
 紅玉も絶叫した。
「お前の愛しい家族を奪ったのは、我(ワタシ)の愛しい家族! だからさせない!」
 緑の中から浮き出すように、サマンサが姿を現した。
「貴女も同意? シスター・エラ」
 同じように、世界樹の中から、尼僧が姿を現す。
「いいえ、違いますサマンサ。世界樹は決して浸食されてはならぬ領域。そこから出る者も、そこで死ぬ者もあってはならない。この世界樹はオーディンの秩序。この世界樹はルール」
「つまり」
 サマンサの視線が動く、その先には同じく緑の中に現れたドレスの女。
「貴女はヴァルキリーとして、世界の理に反したのよ、ブリタニア」
 サマンサはすっと指をさす。
「お仕置きよ、ブリタニア」