109―ベイビーベイビビアイラビュー

 飯塚依子は語る。
 己の正義を。
「正義とは、敵を殺して死ぬ事です。故に、マトモな頭をした人間には正義なんて必要ないのです。戦争で生きのびるのは、正義を全うできなかった人達です。そういう人達がいなければ、国家と云うものは戦後を生き抜けません。故に、戦争に正義なんて必要ないのです」
 そして、シスター・エラの動揺を見透かしたように笑む。
「しかしながら、此処には戦後など存在しないのです」
 にたりと。
 紅玉は、ジャックと依子に背中を向ける。
「その尼さんは任せたよ」
 依子はBARを構える。
 ジャックはナイフを構える。
「応(ええ)(ああ)」
 紅玉は、針を取り出す。
「ロビン・ファン・ヒューリック。お前もまがい物あるか?」
 ロビンは一本鞭を構える。
「張紅玉。わたくしはまがい物です。兄様の娘の代わりのまがい物です」
 紅玉の指に針が光る。
「しかし、お前は、まがい物が本物になった事を理解している」
 ロビンは鞭を振りかぶる。
「そうです。貴女もそうでしょう。しかし、私と貴女は違う。貴女は本物である事を望んだ。わたくしは、本物になる事を望まなかった」
 颯!
「わたくしは、兄様に女性として愛されたかった」
 ロビンが一陣の颯の如く、紅玉に近づいた。
 そして、鞭を一閃した。
 瞬時に、ユグドラシルの2メートルほどの枝が、ずるりと断面図を見せて斬りおとされた。
 ロビンの凶行に恐れをなしたように、ユグドラシルが大きく揺れた。
 しかし、紅玉は
 かわしていた。
「お前、疾いね」
 紅玉は、相手を淡々と賞賛する。
 しかし
「我(ワタシ)もっと疾くできるよ」
 紅玉の赤いチャイナ服を纏った体が、分身した。
 否、そんな訳はない。
 錯覚だ。
 あまりの動く速度に、目が認識出来ず。
 紅玉が何人もいるかのように見えるだけだ!
 そこからの動きは、二人以外の誰も、目で見る事が出来なかった。
 ロビンであろうと思われる、黒い風のようなものが、ユグドラシルのあちこちを足場にして飛び交った。
 それを、紅玉の分身が追い回した。
 風の足場に分身の一人が飛び込み。
 それを潜り抜けて風が天井目がけて飛び上がり。
 それをもう一人の分身が天井から襲った。
 時折銀色の光が光った。
 その銀色が何であるかは、数秒後分かった。
 そう、この間、数秒しかかかっていなかった。
 ロビンは小柄な体を、ユグドラシルの枝の上から落下させた。
 その全身には、銀色の針が突き立っていた。
 依子とジャックは知っていた。
 針に、張国軒が作成した毒が塗ってある事を。
 紅玉は確信した。
 ロビン・ファン・ヒューリックの死亡を。
 そして、紅玉の左腕は、ロビンの鞭によって斬りおとされていた。
 片腕を無くした紅玉は、ふらつく足取りでユグドラシルに囚われた家族の元へ向かった。
「みんな……今、出してあげるよ……」
 真っ赤な手形をユグドラシルの樹皮につけたその時だった。
「紅玉! 危ないッ!」
 依子が叫んだ。
 紅玉は振り向いた。
 その瞬間、紅玉の胴体は横に真っ二つに両断されていた。
 上半身と下半身が、斬って分けられた。
 紅玉は、自分の足が少し遠くにあるのを見た。
 その足元に、ユグドラシルの幹が倒れてくるのを見た。
 自分の足を押し潰して、ユグドラシルの幹は倒れた。
 その中の家族は、同じように、真っ二つになっていた。
 紅玉は、呆然と目の前の少女を見上げた。
 下半身が無い身では、最早見上げる事しか出来なかった。
 ロビン・ファン・ヒューリックは絶命していた。
 立ったまま絶命した体には、無数の毒針が突き立っていた。
 そして、その針は喉にも突き立っていた。
 兄の毒は即、死に至るに十分な量であった。
 依子の言葉。
「弁慶の立往生を越えたか……」
 ロビン・ファン・ヒューリックは、死んだ後。
 死体に残った執念のみで、体を動かし、張一家を殺害したのである。
 まさに、立ったまま死ぬ立往生を、越えたのである。
 紅玉は呟いた。
「我、死ぬね」
 依子は紅玉に駆け寄った。
「紅玉!」
「依子……我、なんだろうね……昔からいつ死んでも仕方ないような毎日送ってたけど」
 依子は紅玉の手を強く握った。
「でも、今死にたくないよ。でも、仕方ないねえ」
 紅玉の口元が綻んだ。
「さよならよ」
 赤い珊瑚の髪飾りが、血だまりに落ちた。
 紅玉は、動かなくなった。
「紅玉……」
 依子は、紅玉の躯の前で、はらはらと涙を流した。
「立派な最期でしたよ……」
 それをぶち破るように、絶叫が響いた。
「もうダメよおおおおおおおお!」
 シスター・エラだった。
 彼女は、まるで子供が駄々をこねるように泣き喚いた。
「だいじなルールが! だいじなルールがこわれた! わたしなんにもわるくないのにいいいいい! もうダメよおおおおお!」
 泣き喚いて、足を踏み鳴らし、怒鳴り散らした。
「もうダメよおおおお! もうダメよおおおおお!」
 耳障りな絶叫。
 場違いな絶叫。
 空気を読めていない絶叫。
 それが悲鳴に、うめき声に変わる。
 シスター・エラの胴体が、本来曲がらない方向に折り曲げられている。
 そして、その力を加えていた手は、更に力を籠め。
 ヴァルキリーの体は、二つに引きちぎられた。
 全ては腕力によるものであった。
 腕力の持ち主は
「ウラジーミル大尉?」
 依子はぽつりと言った。
 こんな腕力を持っているのは、ヴァルハラには彼しかいないはずだったからだ。
 しかし、目の前にいるのは、少年だった。
 ソ連陸軍の軍服を纏っているが、明らかに大尉の階級の軍服ではない。
 そしてウラジーミルと違い、まだ雪の中を駆け回っているような少年だ。
 依子と同じ年くらいの少年だ。
「そうか、お前達とは初対面だ。飯塚依子、ジャック・ザ・リッパー」
 少年は微笑み、傍らからガラス製のトランクを引っ張り出し、大事に抱えた。
「ほら、ご覧下さい、ウラジーミル大尉。貴方が動けなくなる原因となった、飯塚幾之助の妹です。嗚呼、そうですよね。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いですよね。でも、一番の目的である、ユグドラシルは無くなりました。これで俺達の暮らしの障害は何も無くなったんです。もう、裏切者である事も気にする事がない。いえ、俺達が裏切ったんじゃありませんよね。向こうが先に裏切ったんだ。大ソ連邦が先に裏切ったんだ。とにかく、寝床を探しましょう。大尉、日本からずっと休みなしできたんですから、さぞお疲れでしょう。まずはベッドを探しましょう。できれば、清潔なシーツも」
 少年は愛おしげに話しかける。
 トランクの中身に。
 トランクの中の、胸から上しか体が無い、ぴくりとも動かないウラジーミル大尉に。
 依子は問うた。
「貴方……お名前は?」
 少年はガラスを撫でながら言った。
「ニコライ・レヴィコフ。ウラジーミル大尉の部下だ。もういいか? 俺は忙しいんだよ。大尉と静かに暮らせるところを探さなくちゃならないんだ。大尉が、もう一度笑ってくれるには、そういった穏やかな環境が必要なんだ」
 ふ……ふふ……。
 地獄の底のような笑い声が発せられた。
「ふははははははははははは」
 依子だった。
 依子が、その笑い声を上げていた。
「見たり! 見たり! ニコライ・レヴィコフ! 貴様こそ我が最後の好敵手と見たり!」
「依子!」
 ジャックは理解した。
 最後の戦いが始まる。
 狂気の終焉が始まる。
「見たり! ニコライ・レヴィコフ! その男の、名誉の戦死を穢したと見たり!」
 飯塚依子の、満願成就の夜が来た。