110―かくて狂人の夜は終わる

 ふははははははは
 見たり見たり見たり!
 飯塚依子の狂哂が響き渡る。
 ニコライは背を向けようとした。
 否。
 彼はずっと、あらゆるものから背を向け続けていた。
「飯塚依子、うるさいぞ。大尉(カピターン)の夢見が悪くなるだろう」
 依子はくわっと口を開いた。
「世迷い事! 血迷い事! その方が見ておられるのは冥土の空よ! 貴様、とっくに分かっているのだろう! 本当は誰よりも分かっているのだろう!」
 哄笑。
「ウラジーミル大尉は死んでおられる!」
 ニコライもくわっと口と目を開いた。
「死んでいない! 大尉は死んでなんかいない! この人は眠っているんだ! あまりに、あまりに世界が恐ろしいから、眠っておられるだけだ! 俺が大尉が笑ってくれる世界を手に入れれば、また目を覚ましてくれるんだ!」
 両断。
「ウラジーミル大尉は斯様な弱いお方ではありません!」
 ニコライの背筋を雷撃が奔った。
「ウラジーミル大尉は、己が戦死を受け入れられたのです。故に、そのような安らかな死に顔をしておられる。その、その名誉の戦死を、戦いの最後を」
 絶叫。
「何故に穢したあああああああッ!」
 ジャックは言葉を挟まなかった。
 この二人は、異なる正義を持っている。
 そして、正義の敵は悪ではない。正義の敵は正義である。
「だって、だって、大尉はこんなに綺麗な姿で、死んでいたら、もっと、もっと崩れて」
「この方は、生前薬物投与による激しい改造を受けていましたね」
 やめろ。
「その中に入っていた防腐剤が体内に留まりすぎて、腐敗すらできぬだけで、その体は躯にすぎません」
「やめろおおおおおおおおおおッ」
 ニコライは悲鳴を叫した。
 取り落としたガラスのトランクが割れた。
 ガラスの破片が散らばった。
 その中にウラジーミルの躯があった。
 ぐにゃりと、力の入らない躯があった。
「大尉! 起きて! 起きて! 起きてよおおおおお! 逝かないで! 一人で逝かないでえええええ!」
 躯を揺さぶっても、首がガクガクと振り子のように揺れるだけだった。
 ニコライの手がガラスによって切れた。
 赤い血はすぐに止まり、ニコライの傷は再生した。
 ニコライは両目から涙を流していた。その色はソ連の赤色であった。
「ころしてやる、飯塚依子。これは八つ当たりだ。お前には感謝すべきかもしれない。だけど殺してやるッ! 一片残さず殺してやるッ!」
「その通りです、ニコライ・レヴィコフ。私は貴方に殺される。ただし、貴方を殺してからです。貴方を殺して私も殺されます」
 依子は、傍らの包みを開いた。
 そこには薙刀があった。
 名誉の戦死を命じられた時に、頂いた薙刀だ。
 それを掴んだ。
 そっと、ウラジーミルの躯が木陰に置かれた。
 周囲を見よ。
 血、血、血、躯の森だ、此処は。
「死ねええええええッ」
 ニコライは依子に跳びかかり、喉笛を掴んだ。
 そのままユグドラシルの樹に叩きつけた。
 樹木が破壊される樹皮の音がした。
 突進!
 ニコライは依子の背中で、ユグドラシルを突き破った。
 そのまま、後ろの樹を折り、樹を折り、樹を折り、ついに森の樹を破壊しつくして、二人は森を突き抜けた。
 空中。
 目に見えぬ場所から二人を見ていたオーディンは、サマンサに笑い掛けた。
『イイヅカヨリコも、取引を持ち出しそうだね』
 サマンサはこの幼き主君に、微笑みと云う名の侮蔑で返した。
「いいえ、ご覧になっていれば分かります」
 依子は、そのまま、地面に叩きつけられた。
 砲弾が落ちたが如き穴が空いた。
 地面にめり込み、ニコライに喉笛を押さえれながら。
 にたり、と笑い、血を吐いた。
 そして、右手の薙刀が、ニコライの左の横腹を貫いた。
「がッはッ」
 ニコライも血を吐き、喉笛の手が緩んだ。
 横腹を貫いた薙刀が、ぐっと依子の前面に押し出された。
 すなわち、ニコライの内臓を斬り裂き、そして外に血みどろとなって刃が現れた。
「ぐッおおおおおおッ」
 ニコライが膝をつく。
 依子が薙刀を手に立ち上がる。
 砂埃と血で、その姿は地獄の獄卒のようであった。
「うおおおおおおおッ!」
 薙刀を振りかぶり、ニコライに袈裟がけに斬りつける。
 オーディンは唖然と高見で問う。
「イイヅカヨリコの力が増している……! いや、これは、成長だ! 死路に向かって成長している!」
 サマンサは全てを見透かしていたかのように、また微笑む。
 ニコライの胸部腹部から血が噴き出る。
 しかし、すぐに血は止まる。
 再生能力! ウラジーミルの能力だったもの!
 なおも腹部に薙刀が突き立てられる。
 ニコライは串刺しにされた儘。
 にたりと笑って、薙刀を両手でへし折った。
 きらきらと破片が舞った。雪のようであった。
「うおおおおおおおおおッ」
 依子は素手で頬に拳を放った。
 ニコライは腹に拳を放った。
 両方当たった。
 痛みも何もかもすべて通り越し、依子は懐に潜り込んで、肘を腹部に放った。
 ニコライはそれを受けながらも、依子の体を二つに折るように膝蹴りを放った。
 マトモな人間なら、痛みで気絶するはずであった。
 だが、二人はマトモでなかった。
「死ね!」
「死ね!」
 ひたすらに一撃一撃が致命傷であろう殴り合いを続けた。
 世界の終りの黒い染みが、刻々と空を覆っていた。
 空は既に曇天を極めていた。
 突如降ってきた二人を、遠巻きに眺めていた群衆が叫んだ。
「世界が終わるんだぞ! そんな事してる場合か!」
 二人は、呼吸も儘ならず答えた。
「世界が、終わるからこそ、こいつだけは殺さなくてはならない」
 その答えを聞いた群衆のもう一人は、跪き両手を組んだ。
「Domine, Jesu Christe, Filie Dei,miserere mei peccatoris.(主イエズス・キリスト、神の子よ、罪人の私をあわれんでください!)」
 しかし、祈りなど無意味な事は明白であった。
 黒い染みはどんどん大きくなり、どんどん近づいてきた。
「間に合ったぞ!」
 大声が響いた。
 何が間に合ったのかと群衆が振り向くと、男が三人がかりでオルガンを持ってきていたのであった。
 その中の一人の、燕尾服を着た男が、おもむろにオルガンに座った。
 演奏が始まった。
 ニコライが呟いた。
「バッハだ……」
 それが今際であった。
 ニコライは、ゆっくりと前に倒れて行った。
 その全身からは、既に傷の無い部分が無くなっていた。
 バッハの音色が鳴り響く中、ニコライは血に伏して言った。
 それは彼の夢であったのかもしれない。
 ただ、確かに、ニコライは死ぬ直前に言った。
「来てくれたんですね大尉……。はい……自分も……一緒に……」
 それを聞いた依子の力も消えた。
 彼女は、仰向けに倒れて行った。
 その背を、ジャックが受け止めた。
「ジャック……さん……」
「依子……」
 依子は霞む目をこらした。
「何故でしょうね……貴方に謝りたい気分です……」
 ジャックは、依子のBARを拾ってきていた。
「ごめんなさい……ジャックさん……」
 ジャックはその唇に強く接吻した。
「依子、俺は勝つぞ」
 依子からの返事は無かった。
 死んだのだ。
 バッハは演奏を続けていた。
 黒い染みはもう手の届く程傍にあった。
 今まで聞こえなかったオーディンの声が響いた。
「これはこれは、最後にとんだ番狂わせだ! 新たなる世界の覇権を握るのは人ではなくジオラマ! 面白い! とても面白いぞ! さあ、ジャック・ザ・リッパーよ! 行くがいい、新たなる世界へと」
 ジャックの瞳が、ゆっくりとオーディンに合った。
 その瞬間、オーディンはジオラマの赤い点滅から、この命令を受けた。
【絶望しろ】
「オーディン、俺の勝ちだ。お前達のゲームのご褒美など」
 ジャックは、BARを己に向けた。
「願い下げだ」
 発砲。
 ヴィクトリア朝ロンドンを恐怖に陥れたジオラマの思念は、頭部を模していたところが吹き飛び、歯車が転がり落ちた。
 オーディンは絶叫した。
「こんな! こんなんじゃ、僕の思ってたんじゃない!」

 さて、頁を捲る諸君。これにて、狂った人間の世界と命と物語は終りである。
 しかしながら、人間が人間である以上、ヴァルハラを望む者は世界中の何処にでもいて。
 彼らは人でなしと呼ばれながら、自分達が人口の中でどの程度のパーセンテージを占るかだけは、秘密にしてくれているのだ。