82―ブーケ

「止まれ! 止まらんか! 貴様ら!」

 崩れ落ちるベルリンの壁。
 ウラジーミルは叫ぶ。 

「希望を消したいのか!」

 重い壁が、ばらばらになっていく。
 隔たれた境界が崩れていく。
 世界が、開かれる。
 太陽が落ちる方向に、人々は殺到した。
 コンクリートの壁の向こう。

「ハインリヒ! なんだかいきなり街が現れたぞ!」
「ベルリンの壁の向こうに街が……!?」

 ベルリンの西側は、草むらが広がっていた。
 見渡す限りの自然。
 遠くを見れば、巨大な森が生い茂っている。
 目の前にいる人間はたった二人。
 ドイツ騎士団団長クリスティーナと、その弟であり副団長ハインリヒ。
 遥かに望むプファルツの森とヴォージュ山脈。
 ドイツ騎士団は定住する土地を持たず。
 騎士団以外の国民というものを持たない傭兵集団。
 国境も持たず、各地で戦を繰り返す流浪の民。
 すなわち。

 東ドイツ市民が恋願った、西ドイツという国は存在しない。
 その真実を知っていたウラジーミルは、唇を噛みしめた。
 西側への希望。
 豊かなドイツ。
 祖国の統一。
 それらは、すべて―幻だった。
 ラースローは吠えた。それは遠吠えに等しかった。
 それでも、入った通信には応対した。
「アンタは誰だ? アンタは知っていたのか? アンタはこの絶望を知っていたのか?」
 捲し立てるラースローに、通信機の向こうのパブロは、冷静に状況を説明した。
 ラースローの血がどんどん冷えて行った。
『来てくれるわね』
「ああ、すぐ行く」
 
 アントン―アナは、崩壊した壁の向こうを、小高い丘の上で見つめていた。
 引き裂かれた服には、パブロの上着が着せられていた。
 起こし続けたテロ。
 飯塚幾之助に行われた凌辱。
 その全ては、あの西側のためであった。
 アナは叫んだ。
「お母さん! お父さん!」
 西では誰も待っていない。
 誰も、誰一人、”西ドイツの街”なんてものに住んでいる者はいない。
「お母さん! お父さん!」
 答えるものなどいない。
 パブロはじっと動かない。
 アナは涙を大量に零し、父母の名を呼び続けた。
 答えは無かった。
 泣き叫んだ。
「誰か答えて!」
「アナ!」
 その声を発した主を、アナはよく分かっていた。
「ラースロー! 貴方なんていらない!」
 アナは走ってきた髭面を力いっぱい殴りつけた。
 ラースローは地面に倒れた。
 ベルリンの壁を壊した事で、体力は底をついていた。
「貴方なんて呼んでない! 私は西側を! お母さんを! お父さんを!」
 ラースローに馬乗りになって、アナは顔が腫れあがってもなお殴り続けた。
 彼は、うめき声をたまに上げるだけだった。
 ラースローの人相が変わった頃、アナの手が止まった。
「許さない!」
 そう絶叫して、ラースローの体の上に倒れこんだ。
 そして、激しく泣き続けた。
 永遠のように泣き続けた。

 一週間後。
 東ドイツのそのカフェは再開した。
 ベルリンの壁崩壊後最速の再開である。
 東ドイツは誰もが喪に服していた。
 ある者は酒に溺れた。
 ある者は麻薬に溺れた。
 ある者は命を絶った。
 希望という希望は喪われた。
 それでも、そのカフェは再開した。
 店主は、オストマルクが突っ込まれたレジスターを開いたのである。
 客は一人だった。
 彫が深く、明るい茶髪と茶色の目のコーカソイド。
 アジア人の特徴は、ヨーロッパの歴史と共に消滅した、典型的ハンガリー人だ。
 彼は、コーヒーを僅かに啜っては止め、僅かに啜っては止めを繰り返していた。
 中空を睨み据えるように、視線は険しい。
 一点を睨みつけ、コーヒーをまた一口啜る。
 しかし、待ち人は逆方向から来た。
「ラースロー」
 ラースローは振り返って、息をのんだ。
「アナ……!」
 先日まで男装をしていた彼女の服装は、水色のワンピースに、白薔薇のコサージュ、白い帽子を軽く被り、ベージュのコートを小脇に抱えていた。爪にはピンクのマニキュアが塗られている。
「アナ……ああ、悪い、その、な」
「ラースロー」
 薄化粧を施された唇が、その言葉を発する。
「私は飯塚幾之助を殺します」
「アナ……」
 ラースローは理解していた。
 それ以外に、彼女が己を保つ事などできないと。
「ところで、この服は如何ですか? 潜伏するにも、女とばれてしまってはこちらのほうがリスクが少ないかと思いまして」
 短く切りそろえれた黒髪に、軽く彼女は触れた。
「ああ、アナ、その、すごく……」
 ラースローはその先を言えず、テーブルに置いていたものを引っ掴んだ。
 色とりどりの大きな花束だった。
 それを、アナに差し出し、深く跪いた。
 アナは花束を受け取る前に、ちょんとラースローの鼻に指を当てた。
「『留まれ、いかにもお前はカワイイ』」
「!?」
「それでいいのです」
 カフェの店主の熊のような巨体が見えた。
 その盆にはシャンパンが乗っていた。
「飯塚幾之助のすべてをぐちゃぐちゃにする私ってカワイイでしょう? あの男の希望を踏み潰す私ってカワイイでしょう? 人殺しの私ってカワイイでしょう?」
 アナ・リーデルは、狂った。