85―無限抱擁

 「名誉の……戦死……?」
 驚きはあった。
 しかし、とうとう来たという感覚も強かった。
 紅玉、エミリー、そしてジャックは晴れ晴れとした表情の依子を見たとき、ああ、ついに来たと思ったのだ。
 依子からは、戦死を願う心を常に感じていた。
 それは、自殺願望ではない。
 名誉欲だ。
 飯塚依子という人間を支配するものだ。
 飯塚依子は、誰よりも欲深いのだ。
「私(わたくし)は、立派に死んで見せます」
 その功名に対する欲は、依子の骨の髄まで染み込んでいるものだ。
 否。
 依子の血肉は、名誉欲でできている。
 それは遠くは会津の祖先から、近くは現世のサイパン島から、依子を徐々に形作っていったものだ。
 三人は言葉が出なかった。
 彼女を引き留める言葉等、存在し得なかった。
 言葉以外も存在しなかった。
 だから、ジャックは―。
 静かに敬礼した。
 表情を強く見せるように敬礼した。
 それがきっかけになって、紅玉とエミリーの目から涙がどっと溢れた。
 しかし、二人は―。
 嗚咽を堪えながら、続けて敬礼した。
 その光景を一言も発せず見ていた依子は、落ち着いた動作で敬礼を返した。
 その瞬間、紅玉とエミリーは依子に抱きついた。
「お前は我(ワタシ)の妹だと思ってたよ! 本当に本当に思ってたよ!」
「そんなに嬉しそうにすんじゃねえよ! あたし達はお前を止められねえのが分かりすぎるだろ!」
 二人を優しく抱き返しながら、依子は微笑んだ。
「勝手を致しまして申し訳ありません」
「心にもない事言うんじゃないある!」
「畜生! 畜生! 畜生!」
 泣き続ける二人を、依子の暖かい手が擦る。
「依子」
 ジャックがようやく言葉を発した。
「これから何処へ行くんだ?」
 依子は、頷いた。
「ユグドラシルへ」
「ユグドラシル?」
 三人の声が重なった。
「紅玉のご兄弟を救出に行こうかと思います」
 紅玉は悲鳴に近い声を上げた。
「我の家族の事でお前が死ぬ道理はないある!」
 それを宥めるように、落ち着いた言葉が紡がれる。
「私は、最も充実した戦場で死にたいのです」
「でも……! でも……!」
 紅玉が縋り付くのを、エミリーが制した。
「あたしも行くぜ」
「エミリー……」
 エミリーは涙を流しながら笑った。
「あたしは、戦争がしたいんだ」
 それは戦争中毒者というだけの理由でないのは、明白であった。
「エミリー」
「止めるなよ紅玉。あたしは死にたい訳じゃねえぜ」
 エミリーの笑顔に、紅玉はしゃくりあげる。
「我も行くよ」
「二人とも……!」
「我の家族ある。行くのは当然ね」
 依子の微笑みが更に優しくなった。彼女らはこの70年、ずっと一緒だったのだ。
「依子」
「はい、ジャックさん」
 たおやかな返答に、ジャックも穏やかに告げた。
「何処で死ぬのであっても、最期は俺の隣で逝ってくれ」
 そして、笑みを見せた。
「何処に行くのでも、ついていくから」
 依子の顔がはっと呑まれたようになった。
 そして、微笑みではなく、満面の笑顔になった。
「私の黄泉路を見送って下さい」
 ジャックも、笑っていた。
「ああ、世界中何処だって、君を送ろう」

 翌朝、四人は荷造りをしていた。
「……片づけても片づけても漫画が出てくるね」
 紅玉の呆れた声に、依子が慌てて
「あまり見ないで下さい!」
と叫ぶ。
 ジャックの右手には、包帯が巻かれている。
 それを巻いた依子は何も言わない。
 柱に、血の跡がついている。
 紅玉もエミリーも何も言わない。
 ジャックの目の下には隈が出来ている。
 三人とも何も言わない。
 一晩中、何かを殴り続ける音と、泣き声がした事も。
 誰も、何も言わない。

 船上で、アンドレアは死体を放り投げる。
「おらよっいっちょあがりだ!」
 最後の一人が死んだ事を確認したパブロに、ライターを強請った。
「アンタ、自分のはどうしたのよ」
「やりあってる最中に落とした」
 深々と葉巻の煙を吸い込む。
 周囲の死体は約30人。全て、アンドレアとパブロの手にかかった。
「ねえ、多すぎない?」
 女の口調で話す、筋肉質の男を笑い飛ばす。
「武器が手に入ったんだ。南米を離れる前に仕留めたいんだろうよ」
「やっぱり、あたしはさっさとスペインに帰った方が良いと思うわ」
「そいつは国王のお望みじゃねえ。奴はぞろぞろインディオの刺客が来るのにビビってやがる」
 口調が男女まるで逆の二人を襲撃するインディオの数は、日に日に膨れ上がっていた。
「インディオに武器を回してる奴を仕留めないとどうしようもねえ」
「それだけじゃ足りないわ。もう武器を手に入れたインディオはたくさんいる。今後どんどん決起していくわ。スペインの移住計画が沈んでしまう」
「良い駒を一人、目星をつけといたぜ」
「一人? 一人でよ? 南米全土のインディオを……」
「お前はじきにそんな心配は、完全に無駄だったと知るだろうさ。暫く、お前に任せて平気か?」
「暫くっていつまでよ?」
 アンドレアは口笛を吹いた。
「エミリー・カーターがラブコールに応えてくれるまでさ」