86―バビロンまでは何マイル?


 三枚の辞表。
 サマンサはそれらをテーブルに置いた。
「How many miles is it to Babylon?(バビロンまでは何マイル?)
Threescore miles and ten.(60と10マイルさ)
Can I get there by candle-light?(ろうそくの灯りをたよりに行けるかしら)
Yes, and back again!(ああ行って戻ってこれるさ)
If your heels are nimble and light,(君の足が軽くてすばしこいなら)
You may get there by candle-light.(ろうそくの灯りをたよりに行ってこれるさ)」
 小さな声で歌いながら、サマンサはキャンドルに火を灯し、それらを焼いていく。
 三枚がすっぱり灰になってしまうと、彼女は言った。
「征ってしまったのね」
 
 依子、紅玉、エミリー、ジャックは船上にあった。
 日本武士団から払い下げられた小型船は、悠々と波を切っていく。
 相当な旧式ながら、動きは確かな船だ。錆の臭いはどうしても隠せないが。
「ジャックさん! 見てください!」
 依子の声に、ジャックは船室から這い上がった。
「どうした?」
「夕焼けです!」
 それは海一面をオレンジ色に染め上げる、見事な夕焼けであった。
 海に徐々に落ちていく太陽は、生命の輝きをふんだんに見せつけながら、その姿を消していった。
 海に太陽が溶けたようだった。
「綺麗ですね!」
 依子の無邪気な笑顔に、ジャックは微笑み返した。
「ああ、綺麗だ」
 そこに、エミリーの溌剌とした声が響いた。
「釣れた! 釣れたぜ!」
 片手に釣竿を握ったエミリーが、クーラーボックスを持って来る。
 中からはビチビチという魚の跳ねる音がした。
「サバだ!」
 大ぶりのサバは銀色の鱗を、きらっきらっと光らせ、まだ悶えている。
「おお、お手柄よエミリー」
 夕食の用意をしていた紅玉も出てきた。
「こんな時間に釣れるわけない思ってたね」
「あったりめえよ、あたしを誰だと思ってやがる」
「早速塩焼きにするね。依子、七輪出すよろし」
「無視すんなよ!」
 二人のいつもの言い争いを、依子は笑顔で聞きながら七輪を出す。
 この四人が戦場に向かっている等、誰が想像がつくだろうか?
 しかも、その内の一人は戦死しようとしているなど?
「依子! クレイジーソルトを使うよろし!」
 紅玉の言葉に「はい!」と返事をしたその時だった。
 船の通信機が鳴った。
 外に「通信です!」と叫ぶ。
 そして、一拍、躊躇ってから通信に出た。
「CQCQ、こちら―」
『言わなくていい。わかってる。もうテメエらは「誰でもない」だ』
 その聞き覚えのある口調に、依子は眉を寄せた。
「アンドレアさん?」
『お察しの通り。そこから2マイル先に俺の船がある。ちょっくら寄っていけよ』
 ガタン
 大きな音を立てたのはエミリーだった。
 船室に入ってきた彼女は、通信機に向かって怒鳴り声を上げた。
「テメエ! もう二度とその面見せんなっつったはずだぞ!」
 通信機の向こうでは、クカカカカという笑い声がした。
「俺が言った意味が理解できてるか? 俺達は2マイル先にいる。良いか? たった2マイルだ。天使のラッパは2マイルくらい、平気で響き渡るぜえ」
「ふざけんな! んな脅しに……!」
「分かったある」
 横から返答したのは紅玉だった。
「Grazie!(あんがとよ)。歓迎のワインを用意してるぜ」
 通信が切れた。
「エミリー、アンドレアと……」
「皆まで言うなよ、紅玉」
 エミリーは呻くように言った。
「あたしだって、隠してて悪かったと思ってるんだ」

 モスクワ。KGB本部。
「ウラジーミル大尉(カピターン)を何故未だ独房からお出しにならないのですか!」
 ニコライの絶叫を、KGB最高責任者、通称「将軍」は冷笑で受けた。
「ウラジーミル君は、ベルリンの壁崩壊を止められなかった。彼が齎したソビエトへの被害は甚大だ」
「しかし! あれから一か月も経っています! それに、大尉は壁の崩壊を阻止する為、善戦したと!」
「善戦?」
 将軍の冷笑が濃くなった。ニコライの背筋にも、冷たいものが走った。
「ニコライ君、君は納得しているの?」
「え……」
「あの時、君はウラジーミル君の独断で一人モスクワに帰された。本当はこう思ってるんじゃないの? 「自分が隣にいれば、ベルリンの壁崩壊は防げた」」
 心臓を締め上げられるような屈辱感が、ニコライを襲った。
 そう、ニコライは隣に居たかったのだ。
 どうしようもなく狂おしいほどに、あの人の傍らに居たかったのだ。
 それを見透かしたうえで、将軍は冷笑を続ける。
 ニコライは全身をばらばらに引き裂きたい気持ちになった。誰の? 将軍と自分両方の。
「ウラジーミル大尉の面会を許可する。ニコライ、行きたまえ」
 ぐっと奥歯を噛みしめ、ニコライは敬礼した。
「失礼……します!」

「Lizzie Borden took an axe(リジー・ボーデン斧を取り)
And gave her mother forty whacks.(母親40回 滅多打ち)
And when she saw what she had done(我に返って)
She gave her father forty-one.」(父親41回 滅多打ち)
 サマンサの歌声が、アメリカンカントリーの店に小さく流れた。