92―夜来香

 「ふ……ふふふ……」
 アナから笑い声が溢れ出た。
「あははははははは」
「アナ……リーデル」
 アナは顔を覆って哄笑する。
「飯塚幾之助、勘違いだ。貴方は勘違いをしている」
 その口角は歪に歪んでいる。
「それはとても良い勘違いだ。その勘違いを聞けただけで、万雷の拍手を捧げざるを得ない」
 幾之助は息を呑む。
「良いですか、飯塚幾之助。貴方は花だ。決して実を結ぶ事はない花だ。種を残すことのない花だ。云わば、香りを振りまき、色を映えさせる以外に意味は無い存在なのだ」
 脳内に危機警報のアラームが響き渡る。
「私が来た意味は、その実を結ばんと云う希望を、引き千切り、踏み躙り、花弁を無慚に泥の中に撒き散らす為だ!」
 轟ッ!
 周囲の砂が、浮き上がる。
 アナは自分の触れた物の重力しか支配できなかったはずだ。
 しかし、砂は、アナの周囲50メートルの間合いの砂が全て浮き上がっている。
「東ドイツの、希望潰えた民と共に死ね」
 取引!
 アナはサマンサと取引し、東ドイツの国民の命と引き換えに、能力をパワーアップさせたのだ。
 それが理解できると同時に、幾之助の頭上から。
 20トンを超えるであろう、大量の砂が一気に降ってきた。
 両腕が潰れる所までしか、幾之助の姿は砂の外になかった。
 幾之助の肉体が、砂の重量によって、ぐちゃぐちゃに潰されていく。
「待っ……」
 幾之助は、そこまでしか言えなかった。
 刀が、砂に弾かれ、潰れた手の届かない処まで飛んでいき。
 そして、砂に突き刺さった。
 幾之助の体は、ほぼ挽肉と化した。
 それを見届けた時、アナも倒れた。
 砂にどくどくと血が溢れ出た。
「お母さん……お父さん……まだ待っていてくれてる……?」
 両手で砂を掴んで呟いたが、すぐに、砂はさらさらと手から流れ出していった。
 砂と涙を流しながら、アナは動かなかった。
 ただ、アナは嗤っていた。
「アナッ!」
 駆け寄って来た男の姿も、アナの瞳は霞んで捕える事が出来ない。
 だが、その声、その愛情深き声で分かった。
「ラースロー……」
 アナを愛している男は、その嗤った顔を見て、全てを理解した。
「アナ、喋るな。すぐに医者に連れて行く」
 アナを負ぶうと、ラースローは走り出した。
「医者も、看護婦も、尼さんも、全て私が殺しましたよ……」
「アナ、何も言わなくていい。治ったらゆっくり聞く」
 ラースローは瓦礫の中、必死に走る。
 背中のアナは、言う。
「飯塚幾之助……殺してやりました。私が殺してやりました……」
「アナ……もういい、もういいんだ」
 瓦礫の中、呻き声があちこちからしている。
 その中を、ラースローは走る。
「ラースロー、私ね」
 ふいに、アナがどっと重くなった。
「貴方の事、結構好きでしたよ」
 振り返ると、アナは笑っていた。
「アナ……? アナ! アナァアアアアア!」
 もう二度と開かぬ瞳に、最期に写ったのは―。
 絶叫するラースローを、鋼のような月が照らしていた。

 幾之助は、全身から声を絞り出した。
 挽肉と化した体からは、それでも、羽虫の羽音のような声しか出なかった。
「サマンサさん……取引です」
 月光から幻のように、サマンサが姿を現した。
 いつものコットンシャツにエプロンと云う姿で。
「日本の国の”思い”を渡します……ですから……私と」
 拳だった肉が、僅かに脈打った。
「ウラジーミルとの決着を」
 サマンサは微笑んだ。
「叶えましょう。貴方の望み。その狂った執念を」

 モスクワKGB本部。
 ニコライは、その扉の前に走った。
 正確には、扉だったものの前に、全力疾走で走り着いた。
 KGB本部独房。
 鉄製の、何物をも拒み、人間を心まで冷やす寒さの中に閉じ込める扉は。
 ひしゃげ、破壊されていた。
「ウラジーミル大尉の足取りは!?」
「未だ調査中! 拿捕の手配は既に済ませました!」
「拿捕できるのか……? 本気で逃げ出したあの化け物を……」
 騒然とする局内で、ニコライは茫然と呟いた。
「大尉……何故……俺を連れて行ってくれなかったのです」
 そんな言葉に構っていられる余裕など、誰にも無かった。
 ソビエト最強の男が、KGBから逃亡したのだ。