94―寒い国

『神の仕事は、神それ自身のように広大無辺際じゃ。神の仕事はあんたの内部にありますのじゃ。あんたは神のもとへ行って、労働者ではなく神の息子になりなさい、それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。神のもとには大きいもの小さいものもありはしませぬ、また人生においても大きいも小さいもなく、存在するのは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ』
トルストイ「光あるうち光の中を歩め」(原久一郎訳)

「大尉!(カピターン!)」
 ニコライの泣き顔を、ウラジーミルの灰色の瞳が写した。
「ニコライ……」
「大尉! もう大丈夫ですから! モスクワに帰りましょう! 大尉! 大尉! 大尉!」
 胸より上しかなくなったウラジーミルは、微笑んだ。
「ソ連崩壊の30年ほど前……、優れた遺伝子を掛け合わせて作られた赤ん坊が産まれた……。灰色の瞳……射撃に適した色。赤ん坊はすぐさま管理施設に送られ、人間兵器となるように訓練が始まった。名前はレーニン閣下より頂いてウラジーミル、俺だ……」
 血は止まり、顔面は蒼白に変わっていく。
「初めて独房に入れられた年齢は覚えていない……。だが、ごく幼い頃だった事は覚えている。何度目かの手術の後で、まだ肉体を使う訓練には耐えきれんと、クレヨンを渡された。そこで、ソ連国旗とアメリカ国旗を並べて描いたんだ。何で描いたかは覚えていない、たぶん、どちらも赤いからみたいな理由だろうな。それで独房に入れられた。酷く寒くて、一人きりで、酷く怖くて、泣き叫んで謝ったのを覚えている……」
 口調は静かで、途切れがちだ。
「KGBに入って、何度も手術と投薬を繰り返して、毎日訓練して、しょっちゅう人を殺して、そんな日々の中、ソ連の崩壊が決まって……。いきなり拘束されて精神病院に入れられた。かっての育ててくれた人達は誰も来なかった。ただ、俺は非人道兵器として、存在を隠蔽され処分されるんだと気づいたのは、毎日毒を注射されている事に気付いた時だった。そうだろうな、撃とうが、刺そうが、俺は死なないんだから。ベッドに拘束された儘、やめろと喚く事しかできなかったよ……。医者は「少しちっくんするだけですよー」なんて言って、笑いながら毎日毒を注射していった。カルテは見せては貰えなかった。一か月後、ベッドの上で俺は死んだ。そして、ヴァルハラに来た」
 ウラジーミルは静かに微笑んだ。
「ニコライ……此処は寒いな……この国は……酷く……寒い……」
 そこで、言葉は途切れた。
「大尉! 大尉! 大尉ーーー!」
 ウラジーミルの灰色の瞳が、ゆっくりと閉じられた。
 ニコライは、幾度も揺さぶって、何度も「大尉!」と叫んだが、返事は無かった。
 その時、背後に人影を感じ、ニコライは慌てて振り返った。
「将軍!」
 そこに居たのは、部下を引き連れたKGB長官だった。
 彼は冷徹な目を二人に向けた。
「君、あれを貸して」
 将軍に、部下は何か書類を手渡した。
 それが、ウラジーミル・グリゴーリビッチ・グリーシャの人民登録証だと気付いたニコライは、悲鳴に近い声を上げた。
 目の前で、ウラジーミルの人民登録証が、ライターで火を点けられたからである。
 声も上げられぬ内に、ウラジーミルがソ連に居た証拠が、蛍火のように小さくなっていく。
「将軍! 何をするんですか! 将軍!」
 ウラジーミルを抱えたまま、金切り声で叫ぶニコライに、将軍は一瞥を見せる。
「あのね、ウラジーミル君は人間じゃないんだ。兵器。モノ。モノは壊れたら捨てるのが当たり前でしょ」
「そんな……大尉は……! 大尉は人間だ! 優しくて、強くて、傷を沢山持った……ただの人間なんだ!」
 将軍はその言葉を聞こえないかのように扱った。
「ニコライ君、”それ”は処分しておきたまえ。即刻モスクワに帰還せよ。今は、君だけがソ連の戦士なんだからね」
「そんな、そんな事が……」
 足並みを揃えて背を向けた将軍達に、ニコライは絶叫した。
「そんな事が許されて堪るかってんだーーーー!」
 泣き喚き、ニコライは、人民登録証の残骸を、拳で幾度も殴った。
 凍てついた地面はニコライの拳を酷く傷つけた。
「大尉……」
 その時だった、ニコライがウラジーミルの胸に接吻したその時。
 どくん。
 左胸から、鼓動がした。
 それは、まぎれもない心臓の音だった。
「大尉……生きてる……?」
 ニコライはぎゅうと左胸に耳を押し付けた。
 音は(ニコライが信じたものは、我々には伏せておかれる)。
 ニコライは笑い声を上げた。
「大尉、生きてるんですね、大尉、俺には分かる、大尉は生きているんだ。ねえ、大尉、暖かい所へ行きましょう。貴方がまた笑ってくれるように、俺は暖かい所へ連れて行ってあげる。
 そして、叫んだ。
「サマンサァ! 取引だ!」
 雪が降り始めた荒野に、コットンシャツにエプロン姿のヴァルキリーが現れた。
 サマンサは、問うた。
「ニコライ、貴方の望みは?」
「ソ連なんてもういらない。嗚呼、もういらないんだ! だから、俺に大尉と……ウラジーミル大尉と同じ能力をくれ!」
 サマンサは軽く首を傾げた。
「貴方の弾丸を自在に抜き取る能力と、ウラジーミルの超回復能力、そして、超筋力。それらを合わせれば、貴方はこのヴァルハラでチートになるわ。誰も貴方に敵う者なんていなくなる。それで、貴方は世界の覇権を狙うの?」
 ニコライは笑い声を立てた。
「世界? そんなものはどうだっていい、どうだっていいんだよサマンサ。俺は暖かい場所を手に入れるんだ。大尉にもう一度笑って貰うんだ。この悲しい人に、もう一度笑って貰うんだ!」
 サマンサは、悲しげに眉を寄せた。
「いいわ。叶えましょう。貴方の望み」
 
 翌日のモスクワ。KGB本部。
「ニコライ・レヴィコフ、ただ今帰還しました」
 本部V部に、軍靴の音を鳴らして、ニコライは帰ってきた。片手には、トランクを提げている。
「おお、ニコライ、遅かったな。”あれ”はどうした?」
 声を潜めた部長に、ニコライは、にっと笑った。
「いずれ、ふさわしいベッドを用意するつもりですよ。ガラス製が良いかな? 大尉がいつでも外を見られるように」
 その口調に狂気めいたものを感じて、部長は眉を潜めた。
「おい、何を言っているんだ?」
「今日は置いてきてしまったから、悲しんでいるかな、大尉は。でも、すぐに一緒にいられるようになる。すぐに片づけて帰りますよ大尉。そして、本当に帰れるところを探すんです」
「ニコライ・レヴィコフ! 何を言っているんだ!」
 ニコライは笑いながら、トランクを開いた、中にはぎっしりと、レモン型手榴弾が詰まっていた。
 一気にピンが抜かれ、V部の入っている階は丸ごと消し飛んだ。
 その爆発の中、ニコライは立っていた。
 吹き飛んだ体は、すぐに修復されていった。
 即座に本部中からKGB局員がすっ飛んでくる。
 その中には、将軍も居た。
 それを認めて、ニコライは相変わらず笑っていた。
「やあ、皆さん。自分は大尉をエルドラドだかユートピアだか、とにかくそんな所にお連れします。それでは、皆さん、安らかにお眠りください。いずれソ連の真っ赤な同胞達が後を追います。貴方の愛する妻も子供も人民も皆後を追います。だから安らかにお眠りください」
 銃声が上がった、直後、ニコライは両手を広げた。
 そこからは、ばらばらと今撃ったはずの弾丸が落ちた。
「さあ、早く片付けないといけない。大尉を置いてきてしまったのだから。もうあの人を一人にしちゃいけない。さあ、быстро(ヴィーストラ・早く)быстро」
 ニコライは、一歩、足を出した。