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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

水無月9

 背後から衝撃。
 激突する地面。
 コンクリートに押し付けられる。肺への圧迫。呼吸不可能。きしむ肋骨。ねじりあげられた両腕。
「ってアレ!? あなた篝火デスカ!?」
 女の声? 驚きを隠さない声。ややカタコト。
 とにかく痛いので必死で頷く。
「ゴメーン、泥棒かと思っちゃったヨ!」
 白髪の少女。屈託皆無の解放。
 星がなく、雲の切れ間に月。月光に赤い瞳が反射している。白い髪がさらさら鳴る。
「ケガしてないデスカ?」
「あ……別に」
 それだけ答えるのが精いっぱいだ。
 月下美人は字面こそ儚げだが、かなり大輪で香りも強い。この少女そっくりだとぼんやり思う。
 カタコト。アルビノ。ロシアとのハーフ。
「ユキ・クリコワさん?」
 白い少女は「ウー!」と嬉し気な声を上げた。
「その通り! ぷくっとボインのユキ・クリコワちゃんダヨ!」
 みなぎる活力。表情がくるくる変わる。人差し指をぴんと立てる。
「だけど、あなたもよくナイ。何度もドアノブ握ろうとしてやめ握ろうとしてやめしてタ。とてもたいへん泥棒っぽかったヨ」
「ああ、ごめん……。ところで……。どうやって背後に回ったん?」
「ん? 窓から飛び降りてフツーにエレベーター乗って来たデスヨ?」
「その……そうかもしれへんと思てたけど」
 篝火はまだコンクリートに倒れたまま問うた。
「ここ4階やんな?」
 ユキは片手で起こしながら返した。
「これぞ女子力デース!」
 笑顔。
 しかし、すぐ曇った顔に変わる。
「納と喧嘩したデスカ?」
 どくりと心臓がはねる。
「なんでわかんの……?」
 あっさり返答。
「そうでなくちゃこんな夜中に来ないし、納も今日元気なく帰ってきてすぐ寝たデスヨ」
 どろどろとした濁り。心の濁り。
「そうか……寝てるんか……せやな……そらせやな……」
 清流が一気に流れこむ。
「でも、朝になったらシェルターから出てくる」
 濁りが冷たい水にかき回される。
「シェルター……?」
「ウン。メフィストの表現。納の眠りはシェルターだって。空爆が激しくなったとき、シェルターに入って傷の手当をする。休憩する。それと同じ。いったん、やなことをシャットアウト」
 ほとんどユキの腕力で立ち上がる。肩に力強い手。
「でも、必ず出てくる。外が絨毯爆撃の最中(さなか)でも、死臭漂う焼け野原でも、納は必ず自分から出てくる」
 笑う。
「仲直りできるよ、絶対」
 うかつに零れる言葉。
「もっと冷たいヤツやと思ってた……」
 ユキはあははと声を立てて笑う。
「蛍から「あの話」聞いちゃったデスネー。まったくしょうがない男どもダヨ!」
 雲が流れ始める。
「病気の人と一緒に暮らすと、その人のことが嫌いになる」
 月が隠れる。
「私、今ではタフガールだけど、つい最近まで太陽に当たっただけで倒れる体だった」
「信じられない」
「でも信じて。去年までお父さんと二人暮らしだった。お父さんもアルビノ。私よりちょっと太陽に強いけど、ちょっとだけ。いつも家でお仕事。お父さん私のこと大好き。私もお父さん大好き。でも、お父さん、私のこと嫌いになったことある」
 過去を見つめる赤い瞳。
「その日、お父さんお仕事立て込んだ。体クタクタ。疲れ果ててた。私、がんばってりんご剥いて持ってった。そう、私もちょっと体の具合悪かった。でも、お父さんに喜んでほしかったからがんばった。そしたら、お父さん、がばっと頭まで毛布被って、「出て行ってください」って手だけで訴えた。お父さんは言葉を話せない。でも、あの時きっと「お願いだから」って言ってた。私、悲しくて部屋で泣いた。次の日起きたら、お父さんからの手紙あった。『昨日はせっかくの心遣いを申し訳ありませんでした。ただ、疲れていただけです。ユキは何も悪くありません』私、鏡で自分の顔見た。具合が悪そうな顔してた。昨日のお父さんは私のこと嫌いだったんだってわかった。嫌われるの悲しい。でも、大好きな人が具合が悪そうにするのもっと悲しい。病人はいつも具合が悪そう。いつも一緒にいるといつも悲しい。普段なら、それでも「大好き」のパワーでカバーできる。だけど、自分もつらいときはカバーできない。嫌いになる。嫌われた方は自分が嫌いになられたのは、自分のせいだってわかる。それがわかる人しか「大好き」って思われない。納はわかる子。だから、自分のことをすごくすごーく嫌いになる。私は納を嫌いになりたくない。納にも納を嫌いになってほしくない」
 瞳が正眼に据えられる。
「私には妹がいた。私は自分の人生を捧げ切りたくないから、妹を殺した。妹の命より自分の人生を取った。私が自分の一生を捧げ切ったら妹は今でも生きてた。かわいそうな子だった」
 赤色。血の色。
「納なら捧げたと思う。破滅から人を救うのは正しいことだから。納はいつも正しい。いい子じゃない。やさしくもない。正しいだけ。私は納を大好きに思うようになった。だから、時々悲しくなる。正しいだけの生き物、悲しい生き物。」
 篝火。
 彼女は問う。
「あなたが何をしたのか、何をされたのか、私は知りたい。でも、その前に言いたい。あなたのことを、納は絶対大好き。あなた、納を大事に思ってる。だから、納はあなた大好き。私もあなたと会うの初めてだけど、あなた絶対いい人。大好きに思う」
「大好き……?」
 正眼に据えた笑顔。
「納に聞かれた。「大好きって嫌がられないように伝えるにはどうしたらいい?」って。「嫌がられるなら伝えないですか?」って聞いたら「うん。伝えるの諦めなくちゃダメになる。だから、嫌がられないように伝えたい」って。私、初めて大好きなら大好きって伝えるって発想? ウー? 日本語難しい。言葉合ってますかね? とにかく、大好きって伝えることを知ったよ。大好きって強い。世界で一番強い言葉。でも、どんな強い言葉も言わなきゃ伝わらない。私知らなかった。それ言える納は強い。私も少し強くなれた。だから教えて。なんで喧嘩したですか?」
 篝火はまっすぐ月の陰を見た。
「俺も助けたかった。守りたかった」
「ウー?」
 続けて、と言われる前に続ける。
「けど、助けられへんかった。七竈の命より自分の人生を取ったんや。せやのに」
 誰かに学校行かせてって言うたらええんちゃう?
「いらんこと言うて」
 かがり火なんてきらい! 
「傷つけて。それっきりになっててん、今月まで。何年も」
 宿題をしている自分。隣で眠る七竈。外さない眼帯。硬くたこができた手。あちこちの傷。
「いや、それっきりになる前にな。ってか、次の日にはもう、お母んに喧嘩したって泣きついたんや。かっこ悪いやろ、俺。」
 大丈夫や。謝りに行こ。お母ちゃんも一緒に行ったるから。せや、平安殿で水無月買(こ)うて行こや。もう夏越(なごし)の祓(はらえ)やもの。厄を落としてまわな、な。
「そのころ七竈が住んでたんは、お母ちゃんの親戚の家の離れでな。お父ちゃんと二人で。よう送って行ったから道も覚えてた昔、薬問屋やった頃の看板もあったしな。いっつも遠いとっから来てんねんなあ思てたわ。学区も違たし。「おばさんもおじさんも優しいよ」って本人は言うとったけど」
 ああ、あの人らやったら引っ越しましてん。
「そんなんぜんぜん聞いてへんかった言うたら」
 うっとこもな、あんなあかん人や知っとったら関わりませんでしたわ。うちの人が塾の講師の口まで世話したったのにやで。1回叱られたくらいで1週間も無断欠勤て。そんなあほな話ありますかいな。それでうちの人がなんぼなんでも社会を甘く見すぎやて説教したら、「そんなん言うんやったら死んだる」言うてぷいっと出ていきましたわ。ほんまあほくさい。
 子供? ああ、そういえば一緒に行きましたな。あの子もなあ。問題ばっかりの子でな。なんぼ言うても、ほら、あの朝顔、むしった後ありますやろ。あれあの子や。あれだけとちゃいますねん。あっちこっちの花むしってな。あの花どないした言うたら「食べた」て。そんなわけあるかいな。
 どないしはりましたん。蒼い顔して。学校? そら行ってますやろ。子供が学校行かへんはずあらへん。
「そのときな、えんじのリボンが落ちてんのに気付いたんや。夕立に濡れて、泥にまみれて、元の色もようわからんようになってたけど。確かに七竈のリボンやった。そのリボンから顔を上げてったら。薄気味悪い土壁が見えて――。それがその家の蔵やってん。最初はなんやわからんかった。うちの蔵はうちの者(もん)だけやのうて、土御門の者がみんなしょっちゅう出入りするもんやから、LEDもいくつもついとって。その見ただけで真っ暗やてわかるようなもんが蔵やなんてわからんかった。でも、えんじのリボンをもっぺん見たら。ああ、ここに入れられたことがあるんや、って。腹減って腹減って花までかじって、それでも「おなかすいた」も言えへんで、こんなとこに入れられたんや。俺が言うたことで「ひとりぼっち」やて思い知らされたんや。七竈はひとりぼっちのまま、お父ちゃんに連れられてどっかで死ぬんやて。そう思たとき」
 こん人でなしがッ!
「お母んの声やった。おばはんに掴みかかった勢いで、水無月の箱が落ちて、中身が泥の中にぶちまけられた」
 土御門篝火は16歳になる。
「水無月、知らんか? 夏越の祓のころ食べる和菓子や。三角に切ったういろうみたいなんに小豆がのってるねん。せや。持ってくれば良かったなぁ。今しかないもんやから」
 七竈が生きててびっくりした。せやけど、ぜんぜん笑わんようになって、せやのに、喋り方が前と同じで。なんで眼帯してんのか、どうしても教えてくれんで。それで俺、あの眼帯の下にな。なんでそうなったかが隠れてるような気がしたんや。
 それで眼帯を外そうとしたら、いきなり目を覚まして。前とおんなじように「かがり火なんてきらい!」や言うて、そのまま帰ってしもた。俺、前と同(おんな)じことやってしもたんや」
 ふいに空の色が薄くなってきたことに気付く。
 夜明けが近いと気付く。
「大丈夫。仲直りできます」
「うん」
 篝火はふーっと息を大きく吐いた。
「せやけど、俺、学校行かな」
「帰るですか?」
「うん。学校行って、宿題して、テストあかんかったから課題もせなあかんし。終わらせてから七竈に連絡するわ。ああ、園芸部の手伝いも頼まれてんねやった」
 月が白々落ちていく。
「他の花の陰に生えてしもた花を植え替えるんやって。日陰でも花は咲くんやな言うたら、「あほか。強い花しか咲けへんわ」言われたわ。手伝うてもらうのによう言うわ。なあ」
 土御門篝火は光の方へ歩き出す。
「いろいろありがとうな。ほな、行って参ります。なんてな」
 光の方へ。光の方へ。

 

(この日の日記は書かれていない)

 

≪空六六六ぷらす! にじゅうよん!≫
納「それでね、かがり火は僕が待ってるからね、いつもすごく頑張って早く宿題終わらせてくれるんだ」
蛍「ふーん」

 

蛍(そういう「まだ? まだ? 遊んでくれるのまだ? 遊んで遊んでー!」みたいなときに、時間かけるのが楽しいんだろ。いいヤツじゃん。ムカつく)
妙高蛍の理不尽なダメ出し。

 


水無月9.5

 私を信頼しきつて、安心しきつて
 かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
 そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
 鹿のように縮かむこともありませんでした
 私はすべての用件を忘れ
 この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。
(中原中也 羊の歌より)

 

 七竈納はノートを広げてぼんやりしている。
 蛍の寝息が聞こえる。その他にマンションの前を通る靴音(しおれたようなヒールの音)や、エアコンが湿気を吸い込む音(蛍は暑さより湿気が苦手)や、台所の冷蔵庫の音(晩ごはんの小鯵を甘辛く炊いたのが入ったまま)や、とにかく色々聞こえる。
 共用の自室の机。カシオの時計が1時を指す。時計のベルトをいじくってやめる。一昨日の夕方から眠って、起きたら昨日の20時だったのだから、丸一日以上眠っていたことになる。「それは才能だぜ」とジョーイに言われた。机の上には弾丸の部品がある。蛍の弾丸はハンドメイドでなくてはダメらしい。蛍はジョーイによくツンケンする。一刀斎先生が「おぬしは楽じゃな」と言っていた。ジョーイは「これじゃ苦労が足りないよ」と答えていた。マリュースクには来ていることを口止めされている。なぜかは知らない。ユキが家庭内での学習をしていることは伝えた。「読み書きですか」と聞かれたので「もうちょっと難しいのです」と答えた。
 ノートは日記帳である。
 文房具屋にはたくさん商品があったので、納は蛍とユキに「選んで」と頼んだ。
 蛍は嬉し気に選んでくれようとしたけれど、ユキは「それは納が自分で選ばなくちゃダメです」と止めてしまった。
 そんなわけで一番安いノートとシャーペンを買った。蛍とユキが「それでいいの?」と聞いたので「ダメだったら別のにする」と答えたら二人とも黙ってしまった。
 他にも黒い背表紙に金色の6B50という箔(はく)がおされたノートや、小学生のころ「子供らしいのにしろ」と買ってもらえなかったトンボのえんぴつや、ボールペンの替え芯や、薄墨の筆ペンの位置まで。納は写真のように覚えている。
 この写真から上手く一部を抜き取れば、カッコいい日記になるかもしれないと思う。けれども、納の日記は「アルジャーノンに花束を」のチャーリィがばかなころにそっくりだ。
 賢くなりたいなあ、といつものように考える。
 一部を抜き取るどころか、納の写真はぜんぜんいうことをきかない。勝手に頭の中で氾濫する。
 納は今、氾濫する写真を見ている。日記は空白である。

 

 土御門かがり火は英雄だ。
 ギリシャ神話で英雄とは、神様と人間の間に生まれた子という意味を持つ。
 そういう意味も含めて、ヒーローという意味も籠めて、かがり火は納の中で英雄であり続けている。
 京都に住み始めた8つ。3月で9つの納は、天国に来たと思っていた。神様が愛してくれるようになったと。
 父親が毎日仕事に行く。だから生きるのが後ろめたくない。おばさんが毎日晩ごはんをくれる。だから飢え死にすることもない。
 そして何より、学校に行かなくていい。
 学校に行くと、まず朝の会でみんなで飛ぶ大きな縄跳びを納が飛べなかったと、クラスが怒り狂う。休み時間は先生にドッヂボールに連行されて「七竈集中狙い!」とボールで痛めつけられる。
 一日中そんな風。そこに納がいるというだけで、なぜかみんなを怒らせる。
 うるさいし、こわいし、痛いし、給食以外いいことなんか何もない。
 給食は確かに惜しい。でも、この天国では晩ごはんがもらえるから、やっぱり行かない方がいい。
 病院に行ってから、父親は「死んでもいいから学校へ行け」という態度をころりと変えた。
 何か「しえんがっきゅう」がどうとかで先生と喧嘩をしたからだ。何の喧嘩かはよくわからないけれど、納は自分が劣等種であることをきちんと理解していたので、その「どうしようもない子が行くとこ」に入るべきなんだろうと思う。
 でも、学校自体行かなくてよいのなら、それも関係ない。
 天国だ。
 しかし、みんなが学校にいる時間におばさんに見つからないようにしないといけない。
 納の徘徊癖はそのころから始まった。
 とにかく遠くまで歩く。疲れたらその場に座る。眠れそうな場所があれば眠る。起きたら帰る。目的地はない。遠くへ。遠くへ。遠くへ行けば行くほど、空気が澄んでいく。
 英雄とはそんな初夏の始めに出逢った。
 黒板に描かれるような星の神社。そこで眠っていたら、ランドセルを背負った子に起こされた。
 おばさんに小学生になったのだから、名字を名乗りなさいと言われていたので「七竈」と名乗ったのに、なぜかかがり火は下の名前を名乗った。
 変なの、と思ったが、すぐにどうでもよくなった。
 かがり火がお友達になってくれたのだ。何度作りなさいと言われてもできなかったのに。かがり火は友達だと言ってくれた。その日から、かがり火は納の英雄だ。
 かがり火はいつもやさしかった。初めて「友達の家」というものに行った。おやつを自分の分まで半分くれた。何より、叩いたり怒鳴ったりしなかった。それどころか、頭を撫でたりしてくれた。公園でたんぽぽの花輪をくれたので、納はありがたく持ち帰って食べた。
 でも、やっぱり時々変なことを言った。
 よく「糸が、糸が」と納から何かを払いのけようとした。
「大人になったら結婚してくれる?」と言われたときは、「なれないよ」と答えたけれど「うちでずっと一緒に暮らそう」というのはあまりに好条件で。
 男同士で結婚できないことは知っていたが、内縁関係というものも知っていた。
 だから「結婚する」と答えた。
 翌日、かがり火は鉄錆色のリボンをくれた。近所のリボン屋で買ったそうだ。それを首に巻くとなんだかほっとした。寝るとき以外はちょっとだけ体をきゅっと締め付けると落ち着くと知った。
 かがり火といるとおなかの中が暖かくなる。
 英雄がいる。もっと天国になるはずだった。
 なのに、逆に天国はひび割れていった。
 そのひびは、かがり火が母に口答えをしたり、宿題をめんどうがったり、毎年夏休みに行く種子島の親戚の話をきいたり、そういうときにぴしりぴしりと入っていった。
 そしてあの日、思い知らされた。「かがり火なんてきらい!」衝動的に叫んだ日、納は声を上げて泣けなかった。声を殺さねば、涙をこらえねば、英雄だって死んでしまうと。
 神様は、納のことなんて忘れていた。
 どれだけの距離走っていられたのかはわからない。息はすっかり上がっていた。かがり火なら母に抱きしめてもらえるのだと思った。無性にかがり火に謝りたかった。許してほしかった。母屋の扉を「こんにちは」と開けた瞬間、おじさんの怒鳴り声がした。何を言ってるのかわからなかった。おばさんも聞き取れないほどの大声を上げ、納のリボンをむしり取った。鉄錆色のリボンは、泥の中に落ちていった。拾いに行こうとした。しかし、父親の「そんならもう死んだるわ!」という悲鳴が響き渡った。慌てて父親に駆け寄った。死なないようにしないと死んでしまうから。手をぐいと引かれた。そのまま、納は父に手を引かれ、ひび割れた天国から電車に乗った。あのリボンを探しに行ったけれど、あの蔵も離れも家もマンションに変わっていた。
 それから1年ほど、どこに住んでいたのかはわからない。どこに行ってもすぐに引っ越したからだ。
 どこへ行ってもどこにも行けない納の灯りは、英雄との結婚の約束だった。

 

2018/5/30初稿