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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

水無月9

 背後から衝撃。
 激突する地面。
 コンクリートに押し付けられる。肺への圧迫。呼吸不可能。きしむ肋骨。ねじりあげられた両腕。
「ってアレ!? あなた篝火デスカ!?」
 女の声? 驚きを隠さない声。ややカタコト。
 とにかく痛いので必死で頷く。
「ゴメーン、泥棒かと思っちゃったヨ!」
 白髪の少女。屈託皆無の解放。
 星がなく、雲の切れ間に月。月光に赤い瞳が反射している。白い髪がさらさら鳴る。
「ケガしてないデスカ?」
「あ……別に」
 それだけ答えるのが精いっぱいだ。
 月下美人は字面こそ儚げだが、かなり大輪で香りも強い。この少女そっくりだとぼんやり思う。
 カタコト。アルビノ。ロシアとのハーフ。
「ユキ・クリコワさん?」
 白い少女は「ウー!」と嬉し気な声を上げた。
「その通り! ぷくっとボインのユキ・クリコワちゃんダヨ!」
 みなぎる活力。表情がくるくる変わる。人差し指をぴんと立てる。
「だけど、あなたもよくナイ。何度もドアノブ握ろうとしてやめ握ろうとしてやめしてタ。とてもたいへん泥棒っぽかったヨ」
「ああ、ごめん……。ところで……。どうやって背後に回ったん?」
「ん? 窓から飛び降りてフツーにエレベーター乗って来たデスヨ?」
「その……そうかもしれへんと思てたけど」
 篝火はまだコンクリートに倒れたまま問うた。
「ここ4階やんな?」
 ユキは片手で起こしながら返した。
「これぞ女子力デース!」
 笑顔。
 しかし、すぐ曇った顔に変わる。
「納と喧嘩したデスカ?」
 どくりと心臓がはねる。
「なんでわかんの……?」
 あっさり返答。
「そうでなくちゃこんな夜中に来ないし、納も今日元気なく帰ってきてすぐ寝たデスヨ」
 どろどろとした濁り。心の濁り。
「そうか……寝てるんか……せやな……そらせやな……」
 清流が一気に流れこむ。
「でも、朝になったらシェルターから出てくる」
 濁りが冷たい水にかき回される。
「シェルター……?」
「ウン。メフィストの表現。納の眠りはシェルターだって。空爆が激しくなったとき、シェルターに入って傷の手当をする。休憩する。それと同じ。いったん、やなことをシャットアウト」
 ほとんどユキの腕力で立ち上がる。肩に力強い手。
「でも、必ず出てくる。外が絨毯爆撃の最中(さなか)でも、死臭漂う焼け野原でも、納は必ず自分から出てくる」
 笑う。
「仲直りできるよ、絶対」
 うかつに零れる言葉。
「もっと冷たいヤツやと思ってた……」
 ユキはあははと声を立てて笑う。
「蛍から「あの話」聞いちゃったデスネー。まったくしょうがない男どもダヨ!」
 雲が流れ始める。
「病気の人と一緒に暮らすと、その人のことが嫌いになる」
 月が隠れる。
「私、今ではタフガールだけど、つい最近まで太陽に当たっただけで倒れる体だった」
「信じられない」
「でも信じて。去年までお父さんと二人暮らしだった。お父さんもアルビノ。私よりちょっと太陽に強いけど、ちょっとだけ。いつも家でお仕事。お父さん私のこと大好き。私もお父さん大好き。でも、お父さん、私のこと嫌いになったことある」
 過去を見つめる赤い瞳。
「その日、お父さんお仕事立て込んだ。体クタクタ。疲れ果ててた。私、がんばってりんご剥いて持ってった。そう、私もちょっと体の具合悪かった。でも、お父さんに喜んでほしかったからがんばった。そしたら、お父さん、がばっと頭まで毛布被って、「出て行ってください」って手だけで訴えた。お父さんは言葉を話せない。でも、あの時きっと「お願いだから」って言ってた。私、悲しくて部屋で泣いた。次の日起きたら、お父さんからの手紙あった。『昨日はせっかくの心遣いを申し訳ありませんでした。ただ、疲れていただけです。ユキは何も悪くありません』私、鏡で自分の顔見た。具合が悪そうな顔してた。昨日のお父さんは私のこと嫌いだったんだってわかった。嫌われるの悲しい。でも、大好きな人が具合が悪そうにするのもっと悲しい。病人はいつも具合が悪そう。いつも一緒にいるといつも悲しい。普段なら、それでも「大好き」のパワーでカバーできる。だけど、自分もつらいときはカバーできない。嫌いになる。嫌われた方は自分が嫌いになられたのは、自分のせいだってわかる。それがわかる人しか「大好き」って思われない。納はわかる子。だから、自分のことをすごくすごーく嫌いになる。私は納を嫌いになりたくない。納にも納を嫌いになってほしくない」
 瞳が正眼に据えられる。
「私には妹がいた。私は自分の人生を捧げ切りたくないから、妹を殺した。妹の命より自分の人生を取った。私が自分の一生を捧げ切ったら妹は今でも生きてた。かわいそうな子だった」
 赤色。血の色。
「納なら捧げたと思う。破滅から人を救うのは正しいことだから。納はいつも正しい。いい子じゃない。やさしくもない。正しいだけ。私は納を大好きに思うようになった。だから、時々悲しくなる。正しいだけの生き物、悲しい生き物。」
 篝火。
 彼女は問う。
「あなたが何をしたのか、何をされたのか、私は知りたい。でも、その前に言いたい。あなたのことを、納は絶対大好き。あなた、納を大事に思ってる。だから、納はあなた大好き。私もあなたと会うの初めてだけど、あなた絶対いい人。大好きに思う」
「大好き……?」
 正眼に据えた笑顔。
「納に聞かれた。「大好きって嫌がられないように伝えるにはどうしたらいい?」って。「嫌がられるなら伝えないですか?」って聞いたら「うん。伝えるの諦めなくちゃダメになる。だから、嫌がられないように伝えたい」って。私、初めて大好きなら大好きって伝えるって発想? ウー? 日本語難しい。言葉合ってますかね? とにかく、大好きって伝えることを知ったよ。大好きって強い。世界で一番強い言葉。でも、どんな強い言葉も言わなきゃ伝わらない。私知らなかった。それ言える納は強い。私も少し強くなれた。だから教えて。なんで喧嘩したですか?」
 篝火はまっすぐ月の陰を見た。
「俺も助けたかった。守りたかった」
「ウー?」
 続けて、と言われる前に続ける。
「けど、助けられへんかった。七竈の命より自分の人生を取ったんや。せやのに」
 誰かに学校行かせてって言うたらええんちゃう?
「いらんこと言うて」
 かがり火なんてきらい! 
「傷つけて。それっきりになっててん、今月まで。何年も」
 宿題をしている自分。隣で眠る七竈。外さない眼帯。硬くたこができた手。あちこちの傷。
「いや、それっきりになる前にな。ってか、次の日にはもう、お母んに喧嘩したって泣きついたんや。かっこ悪いやろ、俺。」
 大丈夫や。謝りに行こ。お母ちゃんも一緒に行ったるから。せや、平安殿で水無月買(こ)うて行こや。もう夏越(なごし)の祓(はらえ)やもの。厄を落としてまわな、な。
「そのころ七竈が住んでたんは、お母ちゃんの親戚の家の離れでな。お父ちゃんと二人で。よう送って行ったから道も覚えてた昔、薬問屋やった頃の看板もあったしな。いっつも遠いとっから来てんねんなあ思てたわ。学区も違たし。「おばさんもおじさんも優しいよ」って本人は言うとったけど」
 ああ、あの人らやったら引っ越しましてん。
「そんなんぜんぜん聞いてへんかった言うたら」
 うっとこもな、あんなあかん人や知っとったら関わりませんでしたわ。うちの人が塾の講師の口まで世話したったのにやで。1回叱られたくらいで1週間も無断欠勤て。そんなあほな話ありますかいな。それでうちの人がなんぼなんでも社会を甘く見すぎやて説教したら、「そんなん言うんやったら死んだる」言うてぷいっと出ていきましたわ。ほんまあほくさい。
 子供? ああ、そういえば一緒に行きましたな。あの子もなあ。問題ばっかりの子でな。なんぼ言うても、ほら、あの朝顔、むしった後ありますやろ。あれあの子や。あれだけとちゃいますねん。あっちこっちの花むしってな。あの花どないした言うたら「食べた」て。そんなわけあるかいな。
 どないしはりましたん。蒼い顔して。学校? そら行ってますやろ。子供が学校行かへんはずあらへん。
「そのときな、えんじのリボンが落ちてんのに気付いたんや。夕立に濡れて、泥にまみれて、元の色もようわからんようになってたけど。確かに七竈のリボンやった。そのリボンから顔を上げてったら。薄気味悪い土壁が見えて――。それがその家の蔵やってん。最初はなんやわからんかった。うちの蔵はうちの者(もん)だけやのうて、土御門の者がみんなしょっちゅう出入りするもんやから、LEDもいくつもついとって。その見ただけで真っ暗やてわかるようなもんが蔵やなんてわからんかった。でも、えんじのリボンをもっぺん見たら。ああ、ここに入れられたことがあるんや、って。腹減って腹減って花までかじって、それでも「おなかすいた」も言えへんで、こんなとこに入れられたんや。俺が言うたことで「ひとりぼっち」やて思い知らされたんや。七竈はひとりぼっちのまま、お父ちゃんに連れられてどっかで死ぬんやて。そう思たとき」
 こん人でなしがッ!
「お母んの声やった。おばはんに掴みかかった勢いで、水無月の箱が落ちて、中身が泥の中にぶちまけられた」
 土御門篝火は16歳になる。
「水無月、知らんか? 夏越の祓のころ食べる和菓子や。三角に切ったういろうみたいなんに小豆がのってるねん。せや。持ってくれば良かったなぁ。今しかないもんやから」
 七竈が生きててびっくりした。せやけど、ぜんぜん笑わんようになって、せやのに、喋り方が前と同じで。なんで眼帯してんのか、どうしても教えてくれんで。それで俺、あの眼帯の下にな。なんでそうなったかが隠れてるような気がしたんや。
 それで眼帯を外そうとしたら、いきなり目を覚まして。前とおんなじように「かがり火なんてきらい!」や言うて、そのまま帰ってしもた。俺、前と同(おんな)じことやってしもたんや」
 ふいに空の色が薄くなってきたことに気付く。
 夜明けが近いと気付く。
「大丈夫。仲直りできます」
「うん」
 篝火はふーっと息を大きく吐いた。
「せやけど、俺、学校行かな」
「帰るですか?」
「うん。学校行って、宿題して、テストあかんかったから課題もせなあかんし。終わらせてから七竈に連絡するわ。ああ、園芸部の手伝いも頼まれてんねやった」
 月が白々落ちていく。
「他の花の陰に生えてしもた花を植え替えるんやって。日陰でも花は咲くんやな言うたら、「あほか。強い花しか咲けへんわ」言われたわ。手伝うてもらうのによう言うわ。なあ」
 土御門篝火は光の方へ歩き出す。
「いろいろありがとうな。ほな、行って参ります。なんてな」
 光の方へ。光の方へ。

 

(この日の日記は書かれていない)

 

≪空六六六ぷらす! にじゅうよん!≫
納「それでね、かがり火は僕が待ってるからね、いつもすごく頑張って早く宿題終わらせてくれるんだ」
蛍「ふーん」

 

蛍(そういう「まだ? まだ? 遊んでくれるのまだ? 遊んで遊んでー!」みたいなときに、時間かけるのが楽しいんだろ。いいヤツじゃん。ムカつく)
妙高蛍の理不尽なダメ出し。

 


水無月9.5

 私を信頼しきつて、安心しきつて
 かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
 そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
 鹿のように縮かむこともありませんでした
 私はすべての用件を忘れ
 この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。
(中原中也 羊の歌より)

 

 七竈納はノートを広げてぼんやりしている。
 蛍の寝息が聞こえる。その他にマンションの前を通る靴音(しおれたようなヒールの音)や、エアコンが湿気を吸い込む音(蛍は暑さより湿気が苦手)や、台所の冷蔵庫の音(晩ごはんの小鯵を甘辛く炊いたのが入ったまま)や、とにかく色々聞こえる。
 共用の自室の机。カシオの時計が1時を指す。時計のベルトをいじくってやめる。一昨日の夕方から眠って、起きたら昨日の20時だったのだから、丸一日以上眠っていたことになる。「それは才能だぜ」とジョーイに言われた。机の上には弾丸の部品がある。蛍の弾丸はハンドメイドでなくてはダメらしい。蛍はジョーイによくツンケンする。一刀斎先生が「おぬしは楽じゃな」と言っていた。ジョーイは「これじゃ苦労が足りないよ」と答えていた。マリュースクには来ていることを口止めされている。なぜかは知らない。ユキが家庭内での学習をしていることは伝えた。「読み書きですか」と聞かれたので「もうちょっと難しいのです」と答えた。
 ノートは日記帳である。
 文房具屋にはたくさん商品があったので、納は蛍とユキに「選んで」と頼んだ。
 蛍は嬉し気に選んでくれようとしたけれど、ユキは「それは納が自分で選ばなくちゃダメです」と止めてしまった。
 そんなわけで一番安いノートとシャーペンを買った。蛍とユキが「それでいいの?」と聞いたので「ダメだったら別のにする」と答えたら二人とも黙ってしまった。
 他にも黒い背表紙に金色の6B50という箔(はく)がおされたノートや、小学生のころ「子供らしいのにしろ」と買ってもらえなかったトンボのえんぴつや、ボールペンの替え芯や、薄墨の筆ペンの位置まで。納は写真のように覚えている。
 この写真から上手く一部を抜き取れば、カッコいい日記になるかもしれないと思う。けれども、納の日記は「アルジャーノンに花束を」のチャーリィがばかなころにそっくりだ。
 賢くなりたいなあ、といつものように考える。
 一部を抜き取るどころか、納の写真はぜんぜんいうことをきかない。勝手に頭の中で氾濫する。
 納は今、氾濫する写真を見ている。日記は空白である。

 

 土御門かがり火は英雄だ。
 ギリシャ神話で英雄とは、神様と人間の間に生まれた子という意味を持つ。
 そういう意味も含めて、ヒーローという意味も籠めて、かがり火は納の中で英雄であり続けている。
 京都に住み始めた8つ。3月で9つの納は、天国に来たと思っていた。神様が愛してくれるようになったと。
 父親が毎日仕事に行く。だから生きるのが後ろめたくない。おばさんが毎日晩ごはんをくれる。だから飢え死にすることもない。
 そして何より、学校に行かなくていい。
 学校に行くと、まず朝の会でみんなで飛ぶ大きな縄跳びを納が飛べなかったと、クラスが怒り狂う。休み時間は先生にドッヂボールに連行されて「七竈集中狙い!」とボールで痛めつけられる。
 一日中そんな風。そこに納がいるというだけで、なぜかみんなを怒らせる。
 うるさいし、こわいし、痛いし、給食以外いいことなんか何もない。
 給食は確かに惜しい。でも、この天国では晩ごはんがもらえるから、やっぱり行かない方がいい。
 病院に行ってから、父親は「死んでもいいから学校へ行け」という態度をころりと変えた。
 何か「しえんがっきゅう」がどうとかで先生と喧嘩をしたからだ。何の喧嘩かはよくわからないけれど、納は自分が劣等種であることをきちんと理解していたので、その「どうしようもない子が行くとこ」に入るべきなんだろうと思う。
 でも、学校自体行かなくてよいのなら、それも関係ない。
 天国だ。
 しかし、みんなが学校にいる時間におばさんに見つからないようにしないといけない。
 納の徘徊癖はそのころから始まった。
 とにかく遠くまで歩く。疲れたらその場に座る。眠れそうな場所があれば眠る。起きたら帰る。目的地はない。遠くへ。遠くへ。遠くへ行けば行くほど、空気が澄んでいく。
 英雄とはそんな初夏の始めに出逢った。
 黒板に描かれるような星の神社。そこで眠っていたら、ランドセルを背負った子に起こされた。
 おばさんに小学生になったのだから、名字を名乗りなさいと言われていたので「七竈」と名乗ったのに、なぜかかがり火は下の名前を名乗った。
 変なの、と思ったが、すぐにどうでもよくなった。
 かがり火がお友達になってくれたのだ。何度作りなさいと言われてもできなかったのに。かがり火は友達だと言ってくれた。その日から、かがり火は納の英雄だ。
 かがり火はいつもやさしかった。初めて「友達の家」というものに行った。おやつを自分の分まで半分くれた。何より、叩いたり怒鳴ったりしなかった。それどころか、頭を撫でたりしてくれた。公園でたんぽぽの花輪をくれたので、納はありがたく持ち帰って食べた。
 でも、やっぱり時々変なことを言った。
 よく「糸が、糸が」と納から何かを払いのけようとした。
「大人になったら結婚してくれる?」と言われたときは、「なれないよ」と答えたけれど「うちでずっと一緒に暮らそう」というのはあまりに好条件で。
 男同士で結婚できないことは知っていたが、内縁関係というものも知っていた。
 だから「結婚する」と答えた。
 翌日、かがり火は鉄錆色のリボンをくれた。近所のリボン屋で買ったそうだ。それを首に巻くとなんだかほっとした。寝るとき以外はちょっとだけ体をきゅっと締め付けると落ち着くと知った。
 かがり火といるとおなかの中が暖かくなる。
 英雄がいる。もっと天国になるはずだった。
 なのに、逆に天国はひび割れていった。
 そのひびは、かがり火が母に口答えをしたり、宿題をめんどうがったり、毎年夏休みに行く種子島の親戚の話をきいたり、そういうときにぴしりぴしりと入っていった。
 そしてあの日、思い知らされた。「かがり火なんてきらい!」衝動的に叫んだ日、納は声を上げて泣けなかった。声を殺さねば、涙をこらえねば、英雄だって死んでしまうと。
 神様は、納のことなんて忘れていた。
 どれだけの距離走っていられたのかはわからない。息はすっかり上がっていた。かがり火なら母に抱きしめてもらえるのだと思った。無性にかがり火に謝りたかった。許してほしかった。母屋の扉を「こんにちは」と開けた瞬間、おじさんの怒鳴り声がした。何を言ってるのかわからなかった。おばさんも聞き取れないほどの大声を上げ、納のリボンをむしり取った。鉄錆色のリボンは、泥の中に落ちていった。拾いに行こうとした。しかし、父親の「そんならもう死んだるわ!」という悲鳴が響き渡った。慌てて父親に駆け寄った。死なないようにしないと死んでしまうから。手をぐいと引かれた。そのまま、納は父に手を引かれ、ひび割れた天国から電車に乗った。あのリボンを探しに行ったけれど、あの蔵も離れも家もマンションに変わっていた。
 それから1年ほど、どこに住んでいたのかはわからない。どこに行ってもすぐに引っ越したからだ。
 どこへ行ってもどこにも行けない納の灯りは、英雄との結婚の約束だった。

 

2018/5/30初稿

 


水無月10

「どれ、見せてみい」
 素直に刀を渡すと。
 一刀斎はひょいひょいと二振りをバラバラにしてしまった。
「なんで壊すのーっ!」
「阿呆(あほう)。壊しとりゃせんわ。こうやってすぐにばらせるのも日本刀のウリじゃ」
 頭を掴まれての制止。
 打刀にすっと目を通し。
「二尺四寸」
 次に短刀を同じように見て。
「六寸」
 今度はぎっと見る。
「鎬(しのぎ)地に柾目肌(まさめはだ)が目立つ。沸が強く出ておる。刃文は直刃。正長に似ておるな」
 にやりと笑う。
「打刀はは雲切丸(くもきりまる)と呼んでやれ。短刀は名前はいらんらしい」
「え、何でですか?」
 こいつは何にもわかってない、という顔。
 柄で隠れていた部分を指す。
「ここにそう彫ってある」
 なるほど。打刀には雲切丸。短刀には無名と彫られている。
「そう呼んでくれと言うておる」
 納は刀をじぃっと見る。
「これはいい刀ですか?」
「お前は美人しか知らんからそんなことを問う。美人の刀というのはな、握れば背筋がしゃんとする。しかし、女以上に抱きたくなる。この刀ははとんでもなく美人じゃ」
 鏑木一刀斎は目を細める。
「生き物を殺すのに、これ以上のものはなかなかない」
 刃は白々と光る。
「先生の刀は?」
 笑みがますます、にやりとしたものになる。 
「備前長船清光」
 ククっと喉を鳴らす。
「美人じゃ」

 

 白紙のノートを眺めていると、スマホの振動音が聞こえた。
【土御門篝火】
 どくんと跳ねる心臓。
 通話のパネル、何度も指がすべる。
「かがり火!」
『七竈、ごめんな』
 納が謝る前に、かがり火は言った。
『助けてくれ』
 泣いているような声で。
「わかった。どうすればいいの?」
 早口に対して、ゆっくりしたかがり火の口調。
『晴明神社の前の道。鳥居の前んとこ。そこに井戸がある。うん。今夜だけあるんや。そこに飛び込んでくれるか』
「わかった。今行く」
『待ってる』
 納はジャージの上着をひっつかんだ。
 道着はひどく乱れていたが、そんなことまで考えられなかった。走りながら上着を着た。
 外は静かな雨だった。
 晴明神社が近づくにつれ、雨はどんどん静かになり。
 自分の呼吸だけが響いていた。
 晴明神社。星の神社。英雄と出逢った神社。
 そこに確かに井戸があった。
 あるはずがない石造りの井戸。
 苔(こけ)ですべるその縁を掴む。
 底は見えない。
 七竈納は飛び込んだ。

 

「かがり火!」
 納の声に、かがり火は小さく笑い声を立てた。
「靴どないしてん」
 安心したように。
 ぴしゃんぴしゃんと水滴の音。
「……失(な)くしちゃった」
「相変わらずどんくさいなあ」
 その笑っている首しか残っていない。
 かがり火の、首から下が蜘蛛になっている。
 茶色の蜘蛛の脹(ふく)れた胸から、かがり火の首が突き出ている。
 胸の下にはさらによく脹れた腹が、おぞましく上下している。
 六本の足を白い糸に這わせている。
 茶色い、巨大な蟲。
 白く汚らしい巣。
 糸から水滴がまた落ちる。
 ゲヘナだ。
 納は理解した。
 ここは蜘蛛のゲヘナだ。
「かがり火、待ってて」
 空中にひび割れ。
 そこから納は刀を引き出す。
「今、糸を全部斬る」
 かがり火は笑っている。
「七竈、それがお前の刀か?」
「うん。待ってて。今、そこから出すから。助けるから」
 刀の柄に手をかける。その様子をかがり火はじっと見て。
「黒漆仕上げの鞘。縞皮菱巻。繁打ち下げ緒。鐔(つば)は鉄地菊・蜻蛉文透鐔か」
 愛し気に言った。
「カッコええなあ、お前」
 納の全身を悪寒が駆け抜けた。
「かがり火、待って。助ける。必ず助けるから」
 かがり火は穏やかに告げる。
「もうあかん。首から下全部喰われてるんや。わかるやろ」
 納は黙って刀を振り上げた。
 糸を切る。切る。斬る。
 ねばねばとした糸が刀に貼りつく。
 刃の切れ味が鈍くなっていく。
 もう鉄の棒で巣を叩き壊しているに等しい。
 それでも斬る。斬る。斬り続ける。
「七竈、もうやめてや」
「だめ。助ける。助ける。助けるのッ!」
 叫ぶ。否。哭(な)く。
「お話よ、な」
 刀に絡みついた糸が、納の体にも絡みつく。
 それをかき分けるように、かがり火の首にしがみつく。
「土御門の一族はな、たまにこういう子供が生まれるんや。土蜘蛛(つちぐも)の餌になるために生まれる子が。土蜘蛛は知ってるか? 平安の世、京を襲った妖(あやかし)や。土御門の一族総出で殺した。せやけど殺しきれなんだ。代々一族の誰かの体内に住まい、育ったころに食い殺す。そして力を得ればまた次の土御門を探す。今回は俺やった」
 刀を落とす。ねばついた糸は落下をゆっくりにする。
「最近まで知らんかったよ。俺だけやのうて、誰も。今も俺以外知らん。お前しか知らん。唯一知っとったお父んは亡(の)うなったしな」
「かがり火、かがり火、やめて」
 細い毛がびっしり生えた脚。頬をやさしく撫でる。
「覚悟はできてたはずやったんや。けどな。今から死ぬてわかったら、一人で死ぬんが怖(こわ)なってな」
 スマートホンが落ちて砕け散る。
「お前に逢いたくてたまらんようになった」
 ななかまど、と脚が頭に移動する。初めて会ったときのように。優しく頭を撫でてくれる。
 納は眼帯に手をかける。
 ぱさり、とプラスチックの白を落とす。
「かがり火」
 毛むくじゃらの脚は大事に触れる。むき出しの左の瞼(まぶた)に。大きく醜い傷痕に。
「痛い?」
「もう痛くないよ」
「これ、もう見えへんの?」
「眼球が潰れてる。瞼も開かないんだ」
 納の手がかがり火の頬に触れる。
 冷たい。
「治せへんかったん?」
「刺されてすぐなら治った。でも、僕が治さないでってメフィストに頼んだんだ」
 声が震えた。
「治るまでは、メフィストがそばにいてくれるって思って。僕はバカだよ。かしこくなれない。一生片目で生きなきゃいけなくなるのに、ほんの数日メフィストがそばにいてくれるのを選んだんだ」
 馬鹿なんだ。だから恥ずかしいんだ。見られたくないんだ。
「そうか……」
 唇が震えている。
「でも、もうひとりぼっちや、のうなったんやろ」
 泣く。哭く。喉も裂けんと泣き叫ぶ。
「やだ! ひとりじゃなくても、誰が隣にいても、かがり火がいなきゃやだ!」
 赤子のような泣き方。
 かがり火は目をぱちくりさせる。
「結婚してくれるって言ったもん! 約束したのになんで死んじゃうの! 置いてかないで! 死なないでえッ!」
 頬を両手でつかむ。すがる。なく。
「ごめんな。結婚できへんよ。七竈、恋もしてない相手と結婚したらあかん」
 かがり火の首がぐらりと傾ぐ。
 蜘蛛の胴から離れ、腕の中に落ちてくる。
 抱き留めた首は
「七竈、また約束してくれへん?」
 笑っていた。
「うれしいときに、うれしいときは、笑って」
 抱えた首を抱きしめる。納の足が床に崩れる。
「約束する……」
 糸から落ちた水滴が、気づけば土砂降りに変わっていた。
 かがり火の目が閉じられていく。
「よかった……」
 最期の息。
「最期にひとつ、助けられた……」
 冷たい雨が打ち据える。土蜘蛛の世界が納を排斥し始める。
 土御門篝火という男に、心残りはないのだろうか。
 奈落の花は、緋(ひ)に染まる。

 

 白紙

 


水無月11

「56、57、58、59、50、51」
「戻っておるぞ」
 ハっと気付く。
 体の下には汗の水たまりができている。
 納は顔を上げる。
「先生」
 鏑木一刀斎は納を見下ろす。
 七竈納は逆立ちと片手腕立て伏せを同時にしている。垂直のまま見上げる姿勢である。
「今日はもう帰れ」
「でも」
「儂の言う通りにせよと何度言わせる」
 納は渋々床に下りる。
 足に括り付けた鉄板を外す。20キロの鉄がごとりと鳴る。
「おい」
「はい」
 一刀斎はまだ見下ろしている。
「髪を切ってこい」
「……髪?」
「視界が悪い」
 腕を組んだまま、不器用な調子で言う。
「敵ができたな」
「はい」
 納は肯定する。
 一刀斎先生は背を向ける。

 

 ユキ・クリコワはハサミの音を聞く。
 じょきん、じょきん、じょきん。
「お前、癖が多いね」
「そう?」
「わりと。はい、おしまい」
 妙高蛍はバスタオルを剥がす。
「ありがとう」
「どーも」
 長身を見送る。
「蛍、髪切るの上手いデスネ」
「お上手ですこと」
「私も今度切ってくだサイ」
「お前は美容院行け」
「女の子だかラ?」
「女の子だから」
「でも、あの美容院はもう行かないデス」
 ユキには愛想よくしていた美容院。
 嫌がる納を連れて行ったら、「養護学校の子?」と。
「確かにあの頃は表情もなかったし、喋り方も棒読みみたいだっタ」
 怒らないで、ユキ。しょうがないんだよ。僕みたいなのはいちゃダメなところがいっぱいあるんだよ。
「確かに私たちはあの美容院がきっかけで、メフィストを問い詰めタ。でも、ゆるさない」
 白い髪も少しだけ伸びた。
「潰れるいいです」
 蛍は無言で、バスタオルをゴミ袋に放り込んだ。

 

 

 その奇妙な二人を尾けたのは、完全なる偶然であった。
 しかし、野々原傑の人生は、たったそれだけで大きく転換する。
 見つけたのはJR奈良駅バス停。市内循環から降りたとき。
 和服の男が二人、ベンチに座っていた。手元の何かをのぞき込んでいる。
 最初に思ったのは、きれいな男たちだという感想。
 三十路半ばほどの男の方は、髪を腰まで伸ばしており、それが日に透けて金色と錯覚させる。青い着物。袴姿だ。紅葉を散らした薄いショールをしている。声をきかねば女と間違える。
 連れは男というより少年である。校則通りのような黒髪。しかし、癖があり量も多い。道着姿。その下の筋肉質な体が見てとれる。眼鏡の下、左目に医療用眼帯。
 次の感情は不快感。
 学校をサボらせるなら、もっと目立たない恰好をすればよいのに。平日の昼間からぶらぶらしている大人と、そんな人間と付き合いがある高校生。
 ろくなものではない。
 道行く人もたびたび振り返っている。
 ふいにスマホが鳴る。
 発信者「奈良教育大学学生課」
 急ぎではないと無視する。留守電に用件が入る。やはり急ぎではない。
「お前、えらく静かじゃな」
 慌てて顔を上げる。話しかけられたのは自分ではなかった。ベンチの少年の方だ。
「いつもうるさいですか?」
「うむ」
「黙った方がいいですか?」
「今、黙れと言っているわけではない」
 二人の手元にあるのが路線図だと気付く。
 不快感が消える。
 外国人観光客か。どこの国かはわからないが、少年の方の言葉遣いが幼すぎる。なんだ。それなら文句はない。
 この段階では野々原に尾行の意思はなかった。
 しかし、乗る電車は同じだった。
 普通 和歌山行き。2両しかない。古い車体。いまだに窓が開けられる車体。
 がらがらにもかかわらず、二人は立っている。
 男は少年に路線図を見せる。
「京阪(けいはん)で京橋まで乗って、京橋(きょうばし)で乗り換えて鶴橋(つるはし)から近鉄(きんてつ)に乗った」
「はい」
 この二人の関係が気になりだした。男の口調は教え諭すようであり、甘やかすようでもあった。
「学園前(がくえんまえ)という駅は覚えているか?」
「はい」
「そこから近鉄奈良駅で降りて、三条通りを歩いて、今は三輪駅(みわえき)に向かっている」
「はい」
「お前が生まれたのはそのあたりのどこかじゃ」
 空気がぶるりと震えた。
「なんで……わかるんですか?」
 先生。そういわれて男は視線を窓の外に移した。
「生まれた土地と、ガキのころ共に暮らした者。それらの訛りはなかなか消えぬ」
 少年は黙っている。
「アクセントは関西。だが、ゆるゆるとした速度で話す。語尾を若干伸ばす癖がある。しかし、発音ははっきりしている。その訛りはそのあたりのもの」
 少年も窓の外を見る。
「お前は確かに生まれた。誰も覚えていなくとも、お前は生まれた。今日までずっと生きてきた」
 少年はぎゅっと”先生”の手を握った。
 その右手は握り返された。
「お前は確かにやかましい。だが、その言葉は悪くない」
 三輪駅、三輪駅、とアナウンスが流れた。
 二人を追って電車を降りる。偶然からくる衝動的行動。
「少し歩くか」
「はい」
 少年は”先生”の後を、とことこついていく。
 ”先生”の背中しか見ないで歩いている。
 商店街の人はまばらである。
 ”先生”は店の前で止まる。
「お前、甘いものが好きじゃったな」
「あ、はい、でも、先生は」
 きらい、という終いまで聞かず、”先生”は店に入る。「みむろ最中」ののれん。「自動ドア故障中」の貼り紙。わずかにドアを開ける。
 中年増の店員が最中を2つ渡している。
「お父さん?」
 少年は”先生”の方を見る。
「だったら良かったか?」
 少年の大きな呼吸。
 しかし、返答の前に”先生”は後ろのベンチに座ってしまう。
「食え」
「いただきます」
 少年は両手で大事そうに最中をかじっている。
 ”先生”はかっかっと二口で飲み込んでしまう。
「そう悪くもないの」
 もぐもぐと頬張ったまま、少年は頷く。
 どちらも奪われまいという食べ方をしているように見えた。
 少年がやっと食べ終える。
 二人は大神神社(おおみわじんじゃ)の方へ歩いていく。
 野々原はずるずるついていく。
 三輪山(みわやま)が近づく。大神神社のご神体はこの三輪山である。
 鳥居をくぐる直前、少年は「先生、ざわざわする」と言った。
「ならぬ」
 ”先生”は少年の手をぐいと引き、鳥居をくぐる。
 参道の真ん中を歩いていく。野鳥が甲高い声を立てる。何羽も何羽も。参拝客はそこそいるのに、鳥の声だけがやたら大きい。
 あちこちの社(やしろ)に酒が供えてある。老人がそのうちの1つに大きく礼をする。
 少年は怯えた様子で何度も立ち止まろうとする。そのたび、”先生”は無言でぐいと手を引く。
 磐座(いわくら)の前にきたとき、少年はとうとう「先生」と泣き声に近い声を上げる。
 しかし、振り返った”先生”は、厳しく告げる。
「ならぬ」
 三輪山が近づいてくる。
 あの狭井神社(さいじんじゃ)向こうはもう三輪山だ。
「先生、こわい、いやだよぅ」
 少年は懇願する。
「ならぬ。お前は」
 その先を聞いた瞬間、野々原は走り出した。
 逃げ出した。
 走って走って逃げて逃げて、どこをどう来たのかわからぬまま、自宅の玄関につっぷしていた。
「傑! どうしたん!」
 母親の声。
 驚いた顔でこちらを見ている。
 野々原はその丸々した腕にすがりついた。
「俺、もう教員なんかならへん。やめる。できへん」
「どうしたん急に、なあ、どうしたん」
 感情のまま泣き叫ぶ。
「人にものを教えるいうんが、どういうことかわかったんや。あんなんできへん。俺は子供の重みなんか知らんかったんや」
 先生は告げたのだ。
「お前は――」

 

 日記には記載されていないこと。
「僕は先生を殺したかった」

 


 

2018/5/30