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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

水無月9

 背後から衝撃。
 激突する地面。
 コンクリートに押し付けられる。肺への圧迫。呼吸不可能。きしむ肋骨。ねじりあげられた両腕。
「ってアレ!? あなた篝火デスカ!?」
 女の声? 驚きを隠さない声。ややカタコト。
 とにかく痛いので必死で頷く。
「ゴメーン、泥棒かと思っちゃったヨ!」
 白髪の少女。屈託皆無の解放。
 星がなく、雲の切れ間に月。月光に赤い瞳が反射している。白い髪がさらさら鳴る。
「ケガしてないデスカ?」
「あ……別に」
 それだけ答えるのが精いっぱいだ。
 月下美人は字面こそ儚げだが、かなり大輪で香りも強い。この少女そっくりだとぼんやり思う。
 カタコト。アルビノ。ロシアとのハーフ。
「ユキ・クリコワさん?」
 白い少女は「ウー!」と嬉し気な声を上げた。
「その通り! ぷくっとボインのユキ・クリコワちゃんダヨ!」
 みなぎる活力。表情がくるくる変わる。人差し指をぴんと立てる。
「だけど、あなたもよくナイ。何度もドアノブ握ろうとしてやめ握ろうとしてやめしてタ。とてもたいへん泥棒っぽかったヨ」
「ああ、ごめん……。ところで……。どうやって背後に回ったん?」
「ん? 窓から飛び降りてフツーにエレベーター乗って来たデスヨ?」
「その……そうかもしれへんと思てたけど」
 篝火はまだコンクリートに倒れたまま問うた。
「ここ4階やんな?」
 ユキは片手で起こしながら返した。
「これぞ女子力デース!」
 笑顔。
 しかし、すぐ曇った顔に変わる。
「納と喧嘩したデスカ?」
 どくりと心臓がはねる。
「なんでわかんの……?」
 あっさり返答。
「そうでなくちゃこんな夜中に来ないし、納も今日元気なく帰ってきてすぐ寝たデスヨ」
 どろどろとした濁り。心の濁り。
「そうか……寝てるんか……せやな……そらせやな……」
 清流が一気に流れこむ。
「でも、朝になったらシェルターから出てくる」
 濁りが冷たい水にかき回される。
「シェルター……?」
「ウン。メフィストの表現。納の眠りはシェルターだって。空爆が激しくなったとき、シェルターに入って傷の手当をする。休憩する。それと同じ。いったん、やなことをシャットアウト」
 ほとんどユキの腕力で立ち上がる。肩に力強い手。
「でも、必ず出てくる。外が絨毯爆撃の最中(さなか)でも、死臭漂う焼け野原でも、納は必ず自分から出てくる」
 笑う。
「仲直りできるよ、絶対」
 うかつに零れる言葉。
「もっと冷たいヤツやと思ってた……」
 ユキはあははと声を立てて笑う。
「蛍から「あの話」聞いちゃったデスネー。まったくしょうがない男どもダヨ!」
 雲が流れ始める。
「病気の人と一緒に暮らすと、その人のことが嫌いになる」
 月が隠れる。
「私、今ではタフガールだけど、つい最近まで太陽に当たっただけで倒れる体だった」
「信じられない」
「でも信じて。去年までお父さんと二人暮らしだった。お父さんもアルビノ。私よりちょっと太陽に強いけど、ちょっとだけ。いつも家でお仕事。お父さん私のこと大好き。私もお父さん大好き。でも、お父さん、私のこと嫌いになったことある」
 過去を見つめる赤い瞳。
「その日、お父さんお仕事立て込んだ。体クタクタ。疲れ果ててた。私、がんばってりんご剥いて持ってった。そう、私もちょっと体の具合悪かった。でも、お父さんに喜んでほしかったからがんばった。そしたら、お父さん、がばっと頭まで毛布被って、「出て行ってください」って手だけで訴えた。お父さんは言葉を話せない。でも、あの時きっと「お願いだから」って言ってた。私、悲しくて部屋で泣いた。次の日起きたら、お父さんからの手紙あった。『昨日はせっかくの心遣いを申し訳ありませんでした。ただ、疲れていただけです。ユキは何も悪くありません』私、鏡で自分の顔見た。具合が悪そうな顔してた。昨日のお父さんは私のこと嫌いだったんだってわかった。嫌われるの悲しい。でも、大好きな人が具合が悪そうにするのもっと悲しい。病人はいつも具合が悪そう。いつも一緒にいるといつも悲しい。普段なら、それでも「大好き」のパワーでカバーできる。だけど、自分もつらいときはカバーできない。嫌いになる。嫌われた方は自分が嫌いになられたのは、自分のせいだってわかる。それがわかる人しか「大好き」って思われない。納はわかる子。だから、自分のことをすごくすごーく嫌いになる。私は納を嫌いになりたくない。納にも納を嫌いになってほしくない」
 瞳が正眼に据えられる。
「私には妹がいた。私は自分の人生を捧げ切りたくないから、妹を殺した。妹の命より自分の人生を取った。私が自分の一生を捧げ切ったら妹は今でも生きてた。かわいそうな子だった」
 赤色。血の色。
「納なら捧げたと思う。破滅から人を救うのは正しいことだから。納はいつも正しい。いい子じゃない。やさしくもない。正しいだけ。私は納を大好きに思うようになった。だから、時々悲しくなる。正しいだけの生き物、悲しい生き物。」
 篝火。
 彼女は問う。
「あなたが何をしたのか、何をされたのか、私は知りたい。でも、その前に言いたい。あなたのことを、納は絶対大好き。あなた、納を大事に思ってる。だから、納はあなた大好き。私もあなたと会うの初めてだけど、あなた絶対いい人。大好きに思う」
「大好き……?」
 正眼に据えた笑顔。
「納に聞かれた。「大好きって嫌がられないように伝えるにはどうしたらいい?」って。「嫌がられるなら伝えないですか?」って聞いたら「うん。伝えるの諦めなくちゃダメになる。だから、嫌がられないように伝えたい」って。私、初めて大好きなら大好きって伝えるって発想? ウー? 日本語難しい。言葉合ってますかね? とにかく、大好きって伝えることを知ったよ。大好きって強い。世界で一番強い言葉。でも、どんな強い言葉も言わなきゃ伝わらない。私知らなかった。それ言える納は強い。私も少し強くなれた。だから教えて。なんで喧嘩したですか?」
 篝火はまっすぐ月の陰を見た。
「俺も助けたかった。守りたかった」
「ウー?」
 続けて、と言われる前に続ける。
「けど、助けられへんかった。七竈の命より自分の人生を取ったんや。せやのに」
 誰かに学校行かせてって言うたらええんちゃう?
「いらんこと言うて」
 かがり火なんてきらい! 
「傷つけて。それっきりになっててん、今月まで。何年も」
 宿題をしている自分。隣で眠る七竈。外さない眼帯。硬くたこができた手。あちこちの傷。
「いや、それっきりになる前にな。ってか、次の日にはもう、お母んに喧嘩したって泣きついたんや。かっこ悪いやろ、俺。」
 大丈夫や。謝りに行こ。お母ちゃんも一緒に行ったるから。せや、平安殿で水無月買(こ)うて行こや。もう夏越(なごし)の祓(はらえ)やもの。厄を落としてまわな、な。
「そのころ七竈が住んでたんは、お母ちゃんの親戚の家の離れでな。お父ちゃんと二人で。よう送って行ったから道も覚えてた昔、薬問屋やった頃の看板もあったしな。いっつも遠いとっから来てんねんなあ思てたわ。学区も違たし。「おばさんもおじさんも優しいよ」って本人は言うとったけど」
 ああ、あの人らやったら引っ越しましてん。
「そんなんぜんぜん聞いてへんかった言うたら」
 うっとこもな、あんなあかん人や知っとったら関わりませんでしたわ。うちの人が塾の講師の口まで世話したったのにやで。1回叱られたくらいで1週間も無断欠勤て。そんなあほな話ありますかいな。それでうちの人がなんぼなんでも社会を甘く見すぎやて説教したら、「そんなん言うんやったら死んだる」言うてぷいっと出ていきましたわ。ほんまあほくさい。
 子供? ああ、そういえば一緒に行きましたな。あの子もなあ。問題ばっかりの子でな。なんぼ言うても、ほら、あの朝顔、むしった後ありますやろ。あれあの子や。あれだけとちゃいますねん。あっちこっちの花むしってな。あの花どないした言うたら「食べた」て。そんなわけあるかいな。
 どないしはりましたん。蒼い顔して。学校? そら行ってますやろ。子供が学校行かへんはずあらへん。
「そのときな、えんじのリボンが落ちてんのに気付いたんや。夕立に濡れて、泥にまみれて、元の色もようわからんようになってたけど。確かに七竈のリボンやった。そのリボンから顔を上げてったら。薄気味悪い土壁が見えて――。それがその家の蔵やってん。最初はなんやわからんかった。うちの蔵はうちの者(もん)だけやのうて、土御門の者がみんなしょっちゅう出入りするもんやから、LEDもいくつもついとって。その見ただけで真っ暗やてわかるようなもんが蔵やなんてわからんかった。でも、えんじのリボンをもっぺん見たら。ああ、ここに入れられたことがあるんや、って。腹減って腹減って花までかじって、それでも「おなかすいた」も言えへんで、こんなとこに入れられたんや。俺が言うたことで「ひとりぼっち」やて思い知らされたんや。七竈はひとりぼっちのまま、お父ちゃんに連れられてどっかで死ぬんやて。そう思たとき」
 こん人でなしがッ!
「お母んの声やった。おばはんに掴みかかった勢いで、水無月の箱が落ちて、中身が泥の中にぶちまけられた」
 土御門篝火は16歳になる。
「水無月、知らんか? 夏越の祓のころ食べる和菓子や。三角に切ったういろうみたいなんに小豆がのってるねん。せや。持ってくれば良かったなぁ。今しかないもんやから」
 七竈が生きててびっくりした。せやけど、ぜんぜん笑わんようになって、せやのに、喋り方が前と同じで。なんで眼帯してんのか、どうしても教えてくれんで。それで俺、あの眼帯の下にな。なんでそうなったかが隠れてるような気がしたんや。
 それで眼帯を外そうとしたら、いきなり目を覚まして。前とおんなじように「かがり火なんてきらい!」や言うて、そのまま帰ってしもた。俺、前と同(おんな)じことやってしもたんや」
 ふいに空の色が薄くなってきたことに気付く。
 夜明けが近いと気付く。
「大丈夫。仲直りできます」
「うん」
 篝火はふーっと息を大きく吐いた。
「せやけど、俺、学校行かな」
「帰るですか?」
「うん。学校行って、宿題して、テストあかんかったから課題もせなあかんし。終わらせてから七竈に連絡するわ。ああ、園芸部の手伝いも頼まれてんねやった」
 月が白々落ちていく。
「他の花の陰に生えてしもた花を植え替えるんやって。日陰でも花は咲くんやな言うたら、「あほか。強い花しか咲けへんわ」言われたわ。手伝うてもらうのによう言うわ。なあ」
 土御門篝火は光の方へ歩き出す。
「いろいろありがとうな。ほな、行って参ります。なんてな」
 光の方へ。光の方へ。

 

(この日の日記は書かれていない)

 

≪空六六六ぷらす! にじゅうよん!≫
納「それでね、かがり火は僕が待ってるからね、いつもすごく頑張って早く宿題終わらせてくれるんだ」
蛍「ふーん」

 

蛍(そういう「まだ? まだ? 遊んでくれるのまだ? 遊んで遊んでー!」みたいなときに、時間かけるのが楽しいんだろ。いいヤツじゃん。ムカつく)
妙高蛍の理不尽なダメ出し。

 


水無月9.5

 私を信頼しきつて、安心しきつて
 かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
 そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
 鹿のように縮かむこともありませんでした
 私はすべての用件を忘れ
 この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。
(中原中也 羊の歌より)

 

 七竈納はノートを広げてぼんやりしている。
 蛍の寝息が聞こえる。その他にマンションの前を通る靴音(しおれたようなヒールの音)や、エアコンが湿気を吸い込む音(蛍は暑さより湿気が苦手)や、台所の冷蔵庫の音(晩ごはんの小鯵を甘辛く炊いたのが入ったまま)や、とにかく色々聞こえる。
 共用の自室の机。カシオの時計が1時を指す。時計のベルトをいじくってやめる。一昨日の夕方から眠って、起きたら昨日の20時だったのだから、丸一日以上眠っていたことになる。「それは才能だぜ」とジョーイに言われた。机の上には弾丸の部品がある。蛍の弾丸はハンドメイドでなくてはダメらしい。蛍はジョーイによくツンケンする。一刀斎先生が「おぬしは楽じゃな」と言っていた。ジョーイは「これじゃ苦労が足りないよ」と答えていた。マリュースクには来ていることを口止めされている。なぜかは知らない。ユキが家庭内での学習をしていることは伝えた。「読み書きですか」と聞かれたので「もうちょっと難しいのです」と答えた。
 ノートは日記帳である。
 文房具屋にはたくさん商品があったので、納は蛍とユキに「選んで」と頼んだ。
 蛍は嬉し気に選んでくれようとしたけれど、ユキは「それは納が自分で選ばなくちゃダメです」と止めてしまった。
 そんなわけで一番安いノートとシャーペンを買った。蛍とユキが「それでいいの?」と聞いたので「ダメだったら別のにする」と答えたら二人とも黙ってしまった。
 他にも黒い背表紙に金色の6B50という箔(はく)がおされたノートや、小学生のころ「子供らしいのにしろ」と買ってもらえなかったトンボのえんぴつや、ボールペンの替え芯や、薄墨の筆ペンの位置まで。納は写真のように覚えている。
 この写真から上手く一部を抜き取れば、カッコいい日記になるかもしれないと思う。けれども、納の日記は「アルジャーノンに花束を」のチャーリィがばかなころにそっくりだ。
 賢くなりたいなあ、といつものように考える。
 一部を抜き取るどころか、納の写真はぜんぜんいうことをきかない。勝手に頭の中で氾濫する。
 納は今、氾濫する写真を見ている。日記は空白である。

 

 土御門かがり火は英雄だ。
 ギリシャ神話で英雄とは、神様と人間の間に生まれた子という意味を持つ。
 そういう意味も含めて、ヒーローという意味も籠めて、かがり火は納の中で英雄であり続けている。
 京都に住み始めた8つ。3月で9つの納は、天国に来たと思っていた。神様が愛してくれるようになったと。
 父親が毎日仕事に行く。だから生きるのが後ろめたくない。おばさんが毎日晩ごはんをくれる。だから飢え死にすることもない。
 そして何より、学校に行かなくていい。
 学校に行くと、まず朝の会でみんなで飛ぶ大きな縄跳びを納が飛べなかったと、クラスが怒り狂う。休み時間は先生にドッヂボールに連行されて「七竈集中狙い!」とボールで痛めつけられる。
 一日中そんな風。そこに納がいるというだけで、なぜかみんなを怒らせる。
 うるさいし、こわいし、痛いし、給食以外いいことなんか何もない。
 給食は確かに惜しい。でも、この天国では晩ごはんがもらえるから、やっぱり行かない方がいい。
 病院に行ってから、父親は「死んでもいいから学校へ行け」という態度をころりと変えた。
 何か「しえんがっきゅう」がどうとかで先生と喧嘩をしたからだ。何の喧嘩かはよくわからないけれど、納は自分が劣等種であることをきちんと理解していたので、その「どうしようもない子が行くとこ」に入るべきなんだろうと思う。
 でも、学校自体行かなくてよいのなら、それも関係ない。
 天国だ。
 しかし、みんなが学校にいる時間におばさんに見つからないようにしないといけない。
 納の徘徊癖はそのころから始まった。
 とにかく遠くまで歩く。疲れたらその場に座る。眠れそうな場所があれば眠る。起きたら帰る。目的地はない。遠くへ。遠くへ。遠くへ行けば行くほど、空気が澄んでいく。
 英雄とはそんな初夏の始めに出逢った。
 黒板に描かれるような星の神社。そこで眠っていたら、ランドセルを背負った子に起こされた。
 おばさんに小学生になったのだから、名字を名乗りなさいと言われていたので「七竈」と名乗ったのに、なぜかかがり火は下の名前を名乗った。
 変なの、と思ったが、すぐにどうでもよくなった。
 かがり火がお友達になってくれたのだ。何度作りなさいと言われてもできなかったのに。かがり火は友達だと言ってくれた。その日から、かがり火は納の英雄だ。
 かがり火はいつもやさしかった。初めて「友達の家」というものに行った。おやつを自分の分まで半分くれた。何より、叩いたり怒鳴ったりしなかった。それどころか、頭を撫でたりしてくれた。公園でたんぽぽの花輪をくれたので、納はありがたく持ち帰って食べた。
 でも、やっぱり時々変なことを言った。
 よく「糸が、糸が」と納から何かを払いのけようとした。
「大人になったら結婚してくれる?」と言われたときは、「なれないよ」と答えたけれど「うちでずっと一緒に暮らそう」というのはあまりに好条件で。
 男同士で結婚できないことは知っていたが、内縁関係というものも知っていた。
 だから「結婚する」と答えた。
 翌日、かがり火は鉄錆色のリボンをくれた。近所のリボン屋で買ったそうだ。それを首に巻くとなんだかほっとした。寝るとき以外はちょっとだけ体をきゅっと締め付けると落ち着くと知った。
 かがり火といるとおなかの中が暖かくなる。
 英雄がいる。もっと天国になるはずだった。
 なのに、逆に天国はひび割れていった。
 そのひびは、かがり火が母に口答えをしたり、宿題をめんどうがったり、毎年夏休みに行く種子島の親戚の話をきいたり、そういうときにぴしりぴしりと入っていった。
 そしてあの日、思い知らされた。「かがり火なんてきらい!」衝動的に叫んだ日、納は声を上げて泣けなかった。声を殺さねば、涙をこらえねば、英雄だって死んでしまうと。
 神様は、納のことなんて忘れていた。
 どれだけの距離走っていられたのかはわからない。息はすっかり上がっていた。かがり火なら母に抱きしめてもらえるのだと思った。無性にかがり火に謝りたかった。許してほしかった。母屋の扉を「こんにちは」と開けた瞬間、おじさんの怒鳴り声がした。何を言ってるのかわからなかった。おばさんも聞き取れないほどの大声を上げ、納のリボンをむしり取った。鉄錆色のリボンは、泥の中に落ちていった。拾いに行こうとした。しかし、父親の「そんならもう死んだるわ!」という悲鳴が響き渡った。慌てて父親に駆け寄った。死なないようにしないと死んでしまうから。手をぐいと引かれた。そのまま、納は父に手を引かれ、ひび割れた天国から電車に乗った。あのリボンを探しに行ったけれど、あの蔵も離れも家もマンションに変わっていた。
 それから1年ほど、どこに住んでいたのかはわからない。どこに行ってもすぐに引っ越したからだ。
 どこへ行ってもどこにも行けない納の灯りは、英雄との結婚の約束だった。

 

2018/5/30初稿

 


水無月10

「どれ、見せてみい」
 素直に刀を渡すと。
 一刀斎はひょいひょいと二振りをバラバラにしてしまった。
「なんで壊すのーっ!」
「阿呆(あほう)。壊しとりゃせんわ。こうやってすぐにばらせるのも日本刀のウリじゃ」
 頭を掴まれての制止。
 打刀にすっと目を通し。
「二尺四寸」
 次に短刀を同じように見て。
「六寸」
 今度はぎっと見る。
「鎬(しのぎ)地に柾目肌(まさめはだ)が目立つ。沸が強く出ておる。刃文は直刃。正長に似ておるな」
 にやりと笑う。
「打刀はは雲切丸(くもきりまる)と呼んでやれ。短刀は名前はいらんらしい」
「え、何でですか?」
 こいつは何にもわかってない、という顔。
 柄で隠れていた部分を指す。
「ここにそう彫ってある」
 なるほど。打刀には雲切丸。短刀には無名と彫られている。
「そう呼んでくれと言うておる」
 納は刀をじぃっと見る。
「これはいい刀ですか?」
「お前は美人しか知らんからそんなことを問う。美人の刀というのはな、握れば背筋がしゃんとする。しかし、女以上に抱きたくなる。この刀ははとんでもなく美人じゃ」
 鏑木一刀斎は目を細める。
「生き物を殺すのに、これ以上のものはなかなかない」
 刃は白々と光る。
「先生の刀は?」
 笑みがますます、にやりとしたものになる。 
「備前長船清光」
 ククっと喉を鳴らす。
「美人じゃ」

 

 白紙のノートを眺めていると、スマホの振動音が聞こえた。
【土御門篝火】
 どくんと跳ねる心臓。
 通話のパネル、何度も指がすべる。
「かがり火!」
『七竈、ごめんな』
 納が謝る前に、かがり火は言った。
『助けてくれ』
 泣いているような声で。
「わかった。どうすればいいの?」
 早口に対して、ゆっくりしたかがり火の口調。
『晴明神社の前の道。鳥居の前んとこ。そこに井戸がある。うん。今夜だけあるんや。そこに飛び込んでくれるか』
「わかった。今行く」
『待ってる』
 納はジャージの上着をひっつかんだ。
 道着はひどく乱れていたが、そんなことまで考えられなかった。走りながら上着を着た。
 外は静かな雨だった。
 晴明神社が近づくにつれ、雨はどんどん静かになり。
 自分の呼吸だけが響いていた。
 晴明神社。星の神社。英雄と出逢った神社。
 そこに確かに井戸があった。
 あるはずがない石造りの井戸。
 苔(こけ)ですべるその縁を掴む。
 底は見えない。
 七竈納は飛び込んだ。

 

「かがり火!」
 納の声に、かがり火は小さく笑い声を立てた。
「靴どないしてん」
 安心したように。
 ぴしゃんぴしゃんと水滴の音。
「……失(な)くしちゃった」
「相変わらずどんくさいなあ」
 その笑っている首しか残っていない。
 かがり火の、首から下が蜘蛛になっている。
 茶色の蜘蛛の脹(ふく)れた胸から、かがり火の首が突き出ている。
 胸の下にはさらによく脹れた腹が、おぞましく上下している。
 六本の足を白い糸に這わせている。
 茶色い、巨大な蟲。
 白く汚らしい巣。
 糸から水滴がまた落ちる。
 ゲヘナだ。
 納は理解した。
 ここは蜘蛛のゲヘナだ。
「かがり火、待ってて」
 空中にひび割れ。
 そこから納は刀を引き出す。
「今、糸を全部斬る」
 かがり火は笑っている。
「七竈、それがお前の刀か?」
「うん。待ってて。今、そこから出すから。助けるから」
 刀の柄に手をかける。その様子をかがり火はじっと見て。
「黒漆仕上げの鞘。縞皮菱巻。繁打ち下げ緒。鐔(つば)は鉄地菊・蜻蛉文透鐔か」
 愛し気に言った。
「カッコええなあ、お前」
 納の全身を悪寒が駆け抜けた。
「かがり火、待って。助ける。必ず助けるから」
 かがり火は穏やかに告げる。
「もうあかん。首から下全部喰われてるんや。わかるやろ」
 納は黙って刀を振り上げた。
 糸を切る。切る。斬る。
 ねばねばとした糸が刀に貼りつく。
 刃の切れ味が鈍くなっていく。
 もう鉄の棒で巣を叩き壊しているに等しい。
 それでも斬る。斬る。斬り続ける。
「七竈、もうやめてや」
「だめ。助ける。助ける。助けるのッ!」
 叫ぶ。否。哭(な)く。
「お話よ、な」
 刀に絡みついた糸が、納の体にも絡みつく。
 それをかき分けるように、かがり火の首にしがみつく。
「土御門の一族はな、たまにこういう子供が生まれるんや。土蜘蛛(つちぐも)の餌になるために生まれる子が。土蜘蛛は知ってるか? 平安の世、京を襲った妖(あやかし)や。土御門の一族総出で殺した。せやけど殺しきれなんだ。代々一族の誰かの体内に住まい、育ったころに食い殺す。そして力を得ればまた次の土御門を探す。今回は俺やった」
 刀を落とす。ねばついた糸は落下をゆっくりにする。
「最近まで知らんかったよ。俺だけやのうて、誰も。今も俺以外知らん。お前しか知らん。唯一知っとったお父んは亡(の)うなったしな」
「かがり火、かがり火、やめて」
 細い毛がびっしり生えた脚。頬をやさしく撫でる。
「覚悟はできてたはずやったんや。けどな。今から死ぬてわかったら、一人で死ぬんが怖(こわ)なってな」
 スマートホンが落ちて砕け散る。
「お前に逢いたくてたまらんようになった」
 ななかまど、と脚が頭に移動する。初めて会ったときのように。優しく頭を撫でてくれる。
 納は眼帯に手をかける。
 ぱさり、とプラスチックの白を落とす。
「かがり火」
 毛むくじゃらの脚は大事に触れる。むき出しの左の瞼(まぶた)に。大きく醜い傷痕に。
「痛い?」
「もう痛くないよ」
「これ、もう見えへんの?」
「眼球が潰れてる。瞼も開かないんだ」
 納の手がかがり火の頬に触れる。
 冷たい。
「治せへんかったん?」
「刺されてすぐなら治った。でも、僕が治さないでってメフィストに頼んだんだ」
 声が震えた。
「治るまでは、メフィストがそばにいてくれるって思って。僕はバカだよ。かしこくなれない。一生片目で生きなきゃいけなくなるのに、ほんの数日メフィストがそばにいてくれるのを選んだんだ」
 馬鹿なんだ。だから恥ずかしいんだ。見られたくないんだ。
「そうか……」
 唇が震えている。
「でも、もうひとりぼっちや、のうなったんやろ」
 泣く。哭く。喉も裂けんと泣き叫ぶ。
「やだ! ひとりじゃなくても、誰が隣にいても、かがり火がいなきゃやだ!」
 赤子のような泣き方。
 かがり火は目をぱちくりさせる。
「結婚してくれるって言ったもん! 約束したのになんで死んじゃうの! 置いてかないで! 死なないでえッ!」
 頬を両手でつかむ。すがる。なく。
「ごめんな。結婚できへんよ。七竈、恋もしてない相手と結婚したらあかん」
 かがり火の首がぐらりと傾ぐ。
 蜘蛛の胴から離れ、腕の中に落ちてくる。
 抱き留めた首は
「七竈、また約束してくれへん?」
 笑っていた。
「うれしいときに、うれしいときは、笑って」
 抱えた首を抱きしめる。納の足が床に崩れる。
「約束する……」
 糸から落ちた水滴が、気づけば土砂降りに変わっていた。
 かがり火の目が閉じられていく。
「よかった……」
 最期の息。
「最期にひとつ、助けられた……」
 冷たい雨が打ち据える。土蜘蛛の世界が納を排斥し始める。
 土御門篝火という男に、心残りはないのだろうか。
 奈落の花は、緋(ひ)に染まる。

 

 白紙

 


水無月11

「56、57、58、59、50、51」
「戻っておるぞ」
 ハっと気付く。
 体の下には汗の水たまりができている。
 納は顔を上げる。
「先生」
 鏑木一刀斎は納を見下ろす。
 七竈納は逆立ちと片手腕立て伏せを同時にしている。垂直のまま見上げる姿勢である。
「今日はもう帰れ」
「でも」
「儂の言う通りにせよと何度言わせる」
 納は渋々床に下りる。
 足に括り付けた鉄板を外す。20キロの鉄がごとりと鳴る。
「おい」
「はい」
 一刀斎はまだ見下ろしている。
「髪を切ってこい」
「……髪?」
「視界が悪い」
 腕を組んだまま、不器用な調子で言う。
「敵ができたな」
「はい」
 納は肯定する。
 一刀斎先生は背を向ける。

 

 ユキ・クリコワはハサミの音を聞く。
 じょきん、じょきん、じょきん。
「お前、癖が多いね」
「そう?」
「わりと。はい、おしまい」
 妙高蛍はバスタオルを剥がす。
「ありがとう」
「どーも」
 長身を見送る。
「蛍、髪切るの上手いデスネ」
「お上手ですこと」
「私も今度切ってくだサイ」
「お前は美容院行け」
「女の子だかラ?」
「女の子だから」
「でも、あの美容院はもう行かないデス」
 ユキには愛想よくしていた美容院。
 嫌がる納を連れて行ったら、「養護学校の子?」と。
「確かにあの頃は表情もなかったし、喋り方も棒読みみたいだっタ」
 怒らないで、ユキ。しょうがないんだよ。僕みたいなのはいちゃダメなところがいっぱいあるんだよ。
「確かに私たちはあの美容院がきっかけで、メフィストを問い詰めタ。でも、ゆるさない」
 白い髪も少しだけ伸びた。
「潰れるいいです」
 蛍は無言で、バスタオルをゴミ袋に放り込んだ。

 

 

 その奇妙な二人を尾けたのは、完全なる偶然であった。
 しかし、野々原傑の人生は、たったそれだけで大きく転換する。
 見つけたのはJR奈良駅バス停。市内循環から降りたとき。
 和服の男が二人、ベンチに座っていた。手元の何かをのぞき込んでいる。
 最初に思ったのは、きれいな男たちだという感想。
 三十路半ばほどの男の方は、髪を腰まで伸ばしており、それが日に透けて金色と錯覚させる。青い着物。袴姿だ。紅葉を散らした薄いショールをしている。声をきかねば女と間違える。
 連れは男というより少年である。校則通りのような黒髪。しかし、癖があり量も多い。道着姿。その下の筋肉質な体が見てとれる。眼鏡の下、左目に医療用眼帯。
 次の感情は不快感。
 学校をサボらせるなら、もっと目立たない恰好をすればよいのに。平日の昼間からぶらぶらしている大人と、そんな人間と付き合いがある高校生。
 ろくなものではない。
 道行く人もたびたび振り返っている。
 ふいにスマホが鳴る。
 発信者「奈良教育大学学生課」
 急ぎではないと無視する。留守電に用件が入る。やはり急ぎではない。
「お前、えらく静かじゃな」
 慌てて顔を上げる。話しかけられたのは自分ではなかった。ベンチの少年の方だ。
「いつもうるさいですか?」
「うむ」
「黙った方がいいですか?」
「今、黙れと言っているわけではない」
 二人の手元にあるのが路線図だと気付く。
 不快感が消える。
 外国人観光客か。どこの国かはわからないが、少年の方の言葉遣いが幼すぎる。なんだ。それなら文句はない。
 この段階では野々原に尾行の意思はなかった。
 しかし、乗る電車は同じだった。
 普通 和歌山行き。2両しかない。古い車体。いまだに窓が開けられる車体。
 がらがらにもかかわらず、二人は立っている。
 男は少年に路線図を見せる。
「京阪(けいはん)で京橋まで乗って、京橋(きょうばし)で乗り換えて鶴橋(つるはし)から近鉄(きんてつ)に乗った」
「はい」
 この二人の関係が気になりだした。男の口調は教え諭すようであり、甘やかすようでもあった。
「学園前(がくえんまえ)という駅は覚えているか?」
「はい」
「そこから近鉄奈良駅で降りて、三条通りを歩いて、今は三輪駅(みわえき)に向かっている」
「はい」
「お前が生まれたのはそのあたりのどこかじゃ」
 空気がぶるりと震えた。
「なんで……わかるんですか?」
 先生。そういわれて男は視線を窓の外に移した。
「生まれた土地と、ガキのころ共に暮らした者。それらの訛りはなかなか消えぬ」
 少年は黙っている。
「アクセントは関西。だが、ゆるゆるとした速度で話す。語尾を若干伸ばす癖がある。しかし、発音ははっきりしている。その訛りはそのあたりのもの」
 少年も窓の外を見る。
「お前は確かに生まれた。誰も覚えていなくとも、お前は生まれた。今日までずっと生きてきた」
 少年はぎゅっと”先生”の手を握った。
 その右手は握り返された。
「お前は確かにやかましい。だが、その言葉は悪くない」
 三輪駅、三輪駅、とアナウンスが流れた。
 二人を追って電車を降りる。偶然からくる衝動的行動。
「少し歩くか」
「はい」
 少年は”先生”の後を、とことこついていく。
 ”先生”の背中しか見ないで歩いている。
 商店街の人はまばらである。
 ”先生”は店の前で止まる。
「お前、甘いものが好きじゃったな」
「あ、はい、でも、先生は」
 きらい、という終いまで聞かず、”先生”は店に入る。「みむろ最中」ののれん。「自動ドア故障中」の貼り紙。わずかにドアを開ける。
 中年増の店員が最中を2つ渡している。
「お父さん?」
 少年は”先生”の方を見る。
「だったら良かったか?」
 少年の大きな呼吸。
 しかし、返答の前に”先生”は後ろのベンチに座ってしまう。
「食え」
「いただきます」
 少年は両手で大事そうに最中をかじっている。
 ”先生”はかっかっと二口で飲み込んでしまう。
「そう悪くもないの」
 もぐもぐと頬張ったまま、少年は頷く。
 どちらも奪われまいという食べ方をしているように見えた。
 少年がやっと食べ終える。
 二人は大神神社(おおみわじんじゃ)の方へ歩いていく。
 野々原はずるずるついていく。
 三輪山(みわやま)が近づく。大神神社のご神体はこの三輪山である。
 鳥居をくぐる直前、少年は「先生、ざわざわする」と言った。
「ならぬ」
 ”先生”は少年の手をぐいと引き、鳥居をくぐる。
 参道の真ん中を歩いていく。野鳥が甲高い声を立てる。何羽も何羽も。参拝客はそこそいるのに、鳥の声だけがやたら大きい。
 あちこちの社(やしろ)に酒が供えてある。老人がそのうちの1つに大きく礼をする。
 少年は怯えた様子で何度も立ち止まろうとする。そのたび、”先生”は無言でぐいと手を引く。
 磐座(いわくら)の前にきたとき、少年はとうとう「先生」と泣き声に近い声を上げる。
 しかし、振り返った”先生”は、厳しく告げる。
「ならぬ」
 三輪山が近づいてくる。
 あの狭井神社(さいじんじゃ)向こうはもう三輪山だ。
「先生、こわい、いやだよぅ」
 少年は懇願する。
「ならぬ。お前は」
 その先を聞いた瞬間、野々原は走り出した。
 逃げ出した。
 走って走って逃げて逃げて、どこをどう来たのかわからぬまま、自宅の玄関につっぷしていた。
「傑! どうしたん!」
 母親の声。
 驚いた顔でこちらを見ている。
 野々原はその丸々した腕にすがりついた。
「俺、もう教員なんかならへん。やめる。できへん」
「どうしたん急に、なあ、どうしたん」
 感情のまま泣き叫ぶ。
「人にものを教えるいうんが、どういうことかわかったんや。あんなんできへん。俺は子供の重みなんか知らんかったんや」
 先生は告げたのだ。
「お前は――」

 

 日記には記載されていないこと。
「僕は先生を殺したかった」

 


 

2018/5/30

水無月12

「儂の言う通りにせよ」
 七竈納は理解する。泣きそうに歪んでいた顔が、すっと静かになる。同時、彼は腕を伸ばす。
 空間にひび割れが生ずる。
 鏑木一刀斎の手元にも同じひび割れが生まれる。
 このひび割れは時の狭間(はざま)だと、メフィストは言っていた。廃棄された武器を狭間から引き出すのだと。
 つまり、一度は存在し、さらに廃棄されねば引き出せへんのや。
 まるで僕らみたいだ、と納は思う。先生も廃棄されたのだろうか、とも思う。
 思うだけで思考はしない。
 一刀斎先生から学んだことだ。
 己を一振りの鋼とせよ。
 相手がお前の敵だと解すれば、ブチ殺す以外のことを考えるな。
 脳みそは如何(いか)にすれば殺せるかという、それのみに使え。
 お前は生涯一番槍(やり)だ。将も策もお前の器ではない。
 なれど、まっしぐらに敵に突っ込んでいくことただそれだけが、お前ほど向いている者はいない。
「人は払うたぞ」
 人だけではない。
 周囲の風景がまるで違う。
 円形の空白に二人は対峙(たいじ)している。
 半径約三メートル。
 地面は乾いた土。
 木々がぐるりと二人を閉じ込める。
 木だけが元の三輪山と同じ木だ。
 ぞわぞわ、ぞわぞわ、騒いでいる。
「これは先生が作ったのですか?」
 一刀斎は口角をつり上げる。
「然様(さよう)。メフィストの呪い持ちは、皆(みな)このように業(わざ)を持つ。儂はこのように何重もの結界(けつかい)を張れる。泣こうがわめこうが出してやらん」
 納は理解したことを確認する。
「僕は先生を殺さなくちゃだめなのですね」
「然様」
 ひび割れから、同時に刀を引っ張り出す。
納の黒漆仕上げの鞘。縞皮菱巻。繁打の下緒。
一刀斎の青漆氷砕文石目地塗の鞘。燻皮菱巻。水色組糸の下緒。
 鉄地・菊・蜻蛉文透鐔。
 鉄地桔梗文鐔。
 雲切丸。
 備前長船清光。
 なぜ殺さねばならないか。納は考えない。ただ、一刀斎先生の素振りから、何か腹をくくったことは勘づいていた。
 かがり火の死を、一刀斎に伝えたその日から。
 なぜ殺さねばならないか。納は考えない。
 名乗りを上げる。一刀斎も同時に上げる。
「鏑木流抜刀術」
 なぜ殺さねばならないかは、考えない。ただ、大事な人がまた死ぬのは悲しいと思う。
「推参」
 思いも消える。
 2を、正しく0に。
 あってはならない数字を0に。
 納の世界は0と1だ。2があってはならない。正しく0に。正しく。正しく。
 最初に目玉を抉(えぐ)り潰す。
 短刀を抜き、まっしぐらに目玉に向かう。
 鋼の音。
 一刀斎は刀身で払い上げる。
 男なら金的を蹴り潰す。
 片足を上げた瞬間。
「そして足払いをかける」
 軸足に衝撃。無様なる転倒。背中に痛み。
 上から覗きこむ一刀斎。
「相手が倒れたら、上から刺す」 
 悲鳴。自分が上げたもの。腹部に突き刺さった師の刃。
 これを回されれば血管に空気が入り、死ぬ。
 左手で刃を掴む。裂ける皮膚。肉。
 骨に到達する前に、刃を腹部から抜く。
 そのまま、這うように走る。
 間合いから逃れる。
 荒い息。己のもののみ。
 左手、使用不可能化。
「殺しにこんか!」
 一刀斎の怒声。
「お前が本気で殺しにくれば、こんな程度で臆するものか!」
 殺しにいかねばならない。
 一刀斎先生が大好きだからといって。

 

 お前には怒りが足りん。侮辱を受ければ拳(こぶし)を振るえ。慰みものとなるなら追剥(おいはぎ)となれ。お前の魂をいたぶるものはことごとく、怒れ、殴れ、殺せ。誰でも殺せ。一兵卒の銃剣よ。女王の振るう弾丸よ。殺せと解せばすぐに斬れ。お前の魂はお前のものだ。

 

 殺さねばならないと言われれば、殺さねばならない。そうしないと、死ぬ。
「まだ、本気にならんか。まさか、殺さずして生きて帰れるつもりではあるまい」
 諭す言葉。直後。
 剣気!
 一刀斎は納刀する。
 あれは……!
「儂にしかできんこと」と一度だけ見せてもらった……。
 居合抜きの構え。
 抜刀。
 記憶及び意識の消失。
 光。太陽光。目を開く。激痛。全身から滴る血。
 あまりに疾(はや)く。
 あまりにたくさんのことをするため。
 脳が処理しきれなくなる!
 脳が動いたときには、既に倒れている。伏した地に、思い出したように血が噴き出す。
 一刀斎は元の姿勢に戻っている。
 前のときと同じ。自然な姿勢で。
「気絶もせんか」
 見下ろす男。
「憐(あわ)れなヤツじゃ」
 ぐらぐらと起き上がる。
 痛い。痛い。痛い。
「先生」
 納は、一刀斎の瞳を見る。
 よく見ると、少し青が入っているように見える。青色……瑠璃色(るりいろ)? メフィストの瞳の破片みたいだ。
 そうだ。呼吸(ひとごろし)をしなくちゃ、生きられない。
「もう一度、お願いします」
 青が濃くなる。
「これは稽古ではない」
「わかっています」
「もう一度喰らえば死ぬぞ」
 納の真っ黒い瞳。ぶれない。
「生きます」
 一刀斎の表情が変わる。
 挑発が消え、嘲笑が消え、訓導が消え。
「ならば」
 再びの構え。
「儂はお前を叩っ斬る」
 疾。
 裏鬼門、乱菊、夕霞、露霞、龍門、十字路、弱筋、大門、朝霞、星、鬼門、禁穴、八葉、五輪月影、五輪稲妻、左谷、右谷。
 計十七か所の急所が再び斬られる。
 地面のざらざらとした感触。
 呼吸すら激痛。
なんだか膝がぬめぬめする。
 自らの血でできた血溜(だ)まりと気づく。
 打刀の鞘を杖がわりにしようとしたが、なぜか握れない。そういえば左手はもう使えないのだった。肉の下、骨も覗いている。
 もうどこが痛いのかわからないほどに痛いのだ。
 肉体が叫ぶ、もうやめてくれ!
 精神が訴える。
「せんせ……え……もう……いっか……い」
 一刀斎は返事をしない。
「せん……せえ……」
 右手の刀を地面に突き刺し、震えながら立ち上がる。
 立ち上がった瞬間、大きく血を吐く。
 まずいや。
 やっとおいしく作れるようになった味噌汁を思い出す。
 血はまずい。
「生きたいか」
 頷く。その仕草だけでまた血を吐く。
 一刀斎も頷く。
 それだけで充分。
 鯉口が切られる。
裏鬼門、乱菊、夕霞、露霞、龍門、十字路、弱筋、大門、朝霞、星、鬼門。
 停止。
「納……」
 一刀斎が微笑む。
「お前、どうやった?」
 呼吸が苦しい。
「見てた……ので、覚えました」
 腹部に刃が突き刺さっている。
 先生の腹部に、短刀を突き刺している。
「貫け。お前は儂を殺さねばならん」
 そうだ。殺さねばならない。
 納は先生の瞳を見る。
 瑠璃色がチカチカ点滅している。
 納に思考が戻りつつある。
 僕はなぜ先生を殺すのですか?
 先生はいつも乱暴で、女たらしで、ぎゅうってしても怒らなくて、でもすぐ「黙っとれ」って面倒になって、僕に怒れって言ってくれて。
「せんせえ、だいすきなのに」
「それがどうした」
 パリンと結界が砕けた。
 森森森。
 森ばかりの場所に変わる。
【それ】は森を見下ろし、さらに師弟を見下ろした。
 巨大な白蛇。
 おそろしいもの。
 白蛇は繰り返す。
「それがどうした」
 納は白蛇を見つめる。目を大きく見開き、まばたきもせず。問う。
「あなたは……三輪山?」
 白蛇は答える。
「いかにも吾(あ)は三輪山。すなわち神なり。古き神なり。屈せよ」
 三輪山。近づくにつれて怖くなった。今、わかった。三輪山の山そのものが神様だったんだ。
 短刀から血が滴る。
「僕は……先生を殺したくない……」
「ならぬ!」
 三輪山が猛(たけ)る。
「知ってるよ! でも、先生まで亡くしたくない!」
「汝(なれ)の心などわれわれは知らぬ! 汝が殺さねばならぬと解せば、われわれは降りられるのだ。汝は人間ではない。われわれが降りるためのものだ。われわれのものだ」
 納は懇願する。
「やめて……やめてよ……」
 三輪山が入ってくる。
 納の体は容れ物らしくなる。
 肌が硬く強(こわ)張り。白き鱗となる。びっしりと鱗に覆われる。落ちた髪が銀に光る。
 異形。おそろしい。化け物の姿。
 叫。
「殺すのなら僕が殺すの! お願い、やめてえッ!」
 切っ先から光が破裂する。
 一刀斎もろとも、周囲一体を爆砕する。
 ふふふ。
 ははは。
 あちこちから笑い声が響く。
 憑代(よりしろ)が、起きよったぞ。
 三輪山よ、流石々々。
 我らはこれで降りられようぞ。
 ふふふ。
 ははは。
 神下(かみお)ろしじゃ。
「先生……このこと……知ってて……」
 鱗まみれの化け物に、先生は微笑む。
 肩から上しか残っていない先生。
 それでも、微笑む。
「儂を誰だと思っておる」
 その頬に触れる。
「このために、先生は殺されたの……?」
 微笑(ほほえ)みがいつもの粗暴な笑みに変わる。
「やかましい。どっかに行っとれ」
「だって!」
 一喝。
「阿呆! カッコよく死なせろ!」
 はっとする。
 先生を大事に寝かせる。
「ありがとうございました」
 涙を飲み込む。
「先生、さよなら」
 化け物は、憑代は、異形は、怪物は、七竈納は、森に入っていく。
 ぱらぱらと鱗が落ちていく。
 ふふふ。
 ははは。
 神々の笑い声が響く。
 絶叫。
「笑うなッ!」
 吠える。
「お前たちなんか大嫌いだ! 卑怯(ひきょう)なことをしてやる、利用してやる、利用し尽くして殺してやるッ!」
 納は哭く。
 神々は笑う。

 

 結界が壊れていく。
「時よ止まれ」
 黒いドレスの悪魔が現れる。
「残念だったな、メフィスト。せっかく裏切り者を殺しに来たのにのう」
 メフィスト・フェレスは嘆息する。
「本当に残念だよ、鏑木一刀斎」

 

(白紙)

 

 


 

2018/5/30 初稿

水無月13

大神神社行き前夜。
ジョーイ・ラスボーンは祇園の一室であぐらをかいていた。
「どうしたんだい? 酒も女もなしなんて。出家でもした?」
鏑木一刀斎は正座している。その目がきかとジョーイを見る。
「おぬし、ラバウルにいたな?」
ジョーイは、はは、と口に出す。
「えらく昔の話をするね。南方前線はあっちこっち移動したからなあ。ラバウルねえ、いたって言うほどいたとは」
無言で一刀斎はジョーイを見つめ続ける。脅しの中に悲痛を感じ、ジョーイもしばし沈黙する。
「わかった。本当の話をする」
無言。
「君の弟子たちを殺したのは、僕だ」

 

当時はまだ歩兵だった。
「補給のためのキャンプを作る任務だった。そこには日本兵が1人だけ突っ立っていた。撃ち殺してから尉官だと知った。僕らは彼の部下を探した。見つからなかった。妙だと思いながらテントを張ったその夜だ。見張りがすべて殺された」
……これは斬り傷だ!
あの尉官の部下か?
本部に連絡!
返答ありました! キャンプを捨てるなとのことです!
「それから僕らは狩りを始めた。自分たちの周囲のどこかに潜んでいる、日本兵狩りだ」
また殺された!
おかしいぞ、また斬り傷しかない。
銃はどうしたんだ?
レニーの方は撃ってる。
わかってる! ジャップの銃に決まってんだろクソッタレ!
「つらい狩りだった。僕らの方は少しずつ数を減らしていった。昼夜を問わず、ほんのわずか少人数になった時間、仲間が死体になって見つかった」
斬り傷だ! 斬り傷しかない!
あいつらはどこにいる? 何人いる?
 そもそもあいつらの補給はどこからだ?
 なぜ一斉襲撃がない?
『全員で4人だ』
 本当かニガー?
 4人? たった4人?
 何をしているんだ? そいつらは?
 いいじゃないか。これは希望の導だ。
「僕だけが知っていた。彼らがなぜ、このキャンプ地にこだわるのか」
『相手は人間だ。生きていれば生活の痕跡が残る』
 足跡。
 果物の食べかす。
 捨てられたマッチ。
『ここが彼らの水場だ』
 待ち伏せろ。
 待ち伏せろ。
 待ち伏せろ! 全員で待ち伏せろ! 化け物どもをブチ殺せ!
「彼らの方が先に来ていたんだ、あの土地は。僕らが気づかずテントを張ってしまった真下に、その箱は埋まってた」
 来た。
 来たぞ。ほんとに4人だ。たった4人だ。
 撃てェエエエエエエ!
「箱というより空き缶だな。ただの空き缶。大事に封がされていただけの」
「……中には? ……その中には?」
「彼らの本当の名前と年齢。そして、「センセエ、サヤナラ」の一文の書かれた紙。エの部分を×で決してイに書き直していた。きっとラバウルに来るまでに、生きて帰れないことを知ったんだろう。そして、彼らにはさ、一刀斎。あなたしか別れを告げる相手がいなかったんだ」
「その紙をどうした?」
「燃やした。知ってて殺したとなれば僕らが困った。殺さなければ僕らは死んでいた。怖かったよ、あんたの弟子たちは」
 一刀斎の力が抜けた。
「阿呆どもが……。せっかく見張りがおらんようになったんじゃ……。泳いで逃げればよかろうが……。どこまでも、どこまでも、遠くへ行けば、生きられようが……」
 静まった空気に、三味のべん、という音が響いた。
 べん。
「なぜ、少年兵を?」
 べん。
「飢えて死ぬと決まっているのなら、戦に出た方がよい。そちらの方が死ぬ率が減る。あの頃の軍隊はそういうガキがしょっちゅうきた。志願兵の名を借りて、歳を偽って、ひもじいガキどもが」
 べん。
「あんたもそうだった?」
「いいや。儂はそれより先に喧嘩を覚えた。殴ることを、奪うことを覚えた。気付けば死刑囚になっていた」

 

 軍令陸第三號 劍術教範
 第一 劍術ノ目的ハ白兵ノ使用ニ習熟セシメ――。
「便所紙にでも使え。こんなん」
 一行目の途中でもう教範を投げ捨てる。黒く小さい手帳型のそれは、床でページがばらばらに散る。
「貴様ァ! 恐れ多くも」
「儂に恐ろしいものなどないわ」
 はん、と吐き捨る。目の前の軍人の青筋が増える。
「こんな男が国の役に立つか! 監獄へ戻せ! いや、今すぐ処刑しろ!」
「なら、これが最期の一服じゃな」
 軍人の表情が青ざめる。慌ててポケットをさぐる。ない。
「いい煙草吸っておるな」
 スった「ひかり」を咥えようとし、気づく。
「マッチもよこせ」
「き、きさ、きさ」
 怒りすぎて単語すら言えない軍人をとくと眺める。こいつは軍人に向いていない。百姓の方が向いている。喧嘩が下手すぎる。
「おぬし、白兵戦をわかっているか?」
 やっと単語になる。
「国のための勇士として! 銃大砲もものともせず! たとえ敵と合い討とうとも!」
「合い討てるか。アホ」
 もう立っているのも面倒だと、勝手に椅子に座る。
「銃だの大砲だのに刀が勝てるか。間合いが狭すぎる。切っ先が届く前に撃たれて死ぬ」
 軍人は口だけをしばらく動かし、やっと言葉にする。
「貴様は……貴様はやったではないか。銃に刀で勝ったではないかッ!」
 しまいには口の端に泡が溜まっている。心底、喧嘩が下手な男だ。
「そんなもん、儂だからできただけに決まっておろうが」
「貴様にできることが大和男児にできんわけがあるか!」
「あるな」
 ぐうっと唸る。直後、どんっと拳を机に振り下ろす。
「少佐の地位を用意している……!」
「佐官か」
 ふむ。ならば話は別である。チャンバラ教えるだけで少佐なら悪い話ではない。いや、いい話だ。定職についたことがない男は、出世と贅沢が大好きなのだ。
「よし。そんならその教官とかいうのをやってやろう。どいつを教えればよい?」
「人選も貴様に任せるとのことだ! いいか、必ず銃を必要としない兵士を作れ! 以上!」

 

「金が欲しかったし、命も惜しかっただけのはずだったのじゃがな……」

 

 おい、あいつと、あいつと、それからあいつ、うむ、あと、あいつを連れてこい。
 少佐殿……その……恐れながらあいつらは……。
 知っとる知っとる。ガキの方が伸びしろがデカい。とっとと連れてこい。嫌がったら首根っこ捕まえて引きずってこい。

 

「どいつもこいつも、人生というものを、明日の夜までしか考えられんヤツらじゃった」
 そういう子供はいつの時代もどこにでもいる。今、弟子にしているガキもそうだ。
 明日の夜まで生きていられるならなんでもする。しかし、明日の夜以降、生きているかどうかは思考の外。死にやすい連中だ。

 

 これが銀シャリっちゅうもんか……。
 先生、これ、どっから盗ってきたんですか?
 バカ、先生は強いから軍が向こうからくれたんだ。
 先生、すげえや。きっと日本一強ぇんだ。

 

「まあ、銃大砲相手に勝てるわけがない。だが、訓練中ならくいっぱぐれることはない」

 

 貴様ら、どこへやった! 儂の弟子たちをどこへやった!
 もうラバウルに向かっている。
 これ以上の訓練は必要ない。少佐。次を育成しろ。
 まだ早い! 生き残れるものか! 死ぬぞ! 必ず死ぬ! かえせ、かえせええええッ!

 

「儂は別じゃがな」

 

 本当に気がふれているのか? 気がふれた男1人に二個小隊が殺せるのか?
 じゃあ貴様が行ってみろ。見ろ、証拠がばたばた転がってるだろうが。
 いつまで立てこもる気だ……。もう正気でもいかれでもいい。出てきてくれ……。こっちまでおかしくなる……。
 前回の捕縛のようなわけにはいかない。あれも人間だ。必ず餓えている。

 

「まあ、暴れるだけ暴れてやったわ」

 

 おじさん。差し入れ。
 女は女でもこんなガキではなあ……、もっとデカくて器量がいいの連れてこいと言え。
 ……あたしのお父さん、あそこに転がってる人だよ。わかる? あんたが昨日殺したあの人だ。
 ああ、わかったわかった。おぬし、親父似じゃな。

 

「女のために死ぬのなら、男冥利に尽きる。まあ、これでもよいか、と妥協して」
 毒と気づいたか?
 まさか。いくらなんでも。
 扉が開いたッ! い、生きてやがるんだあああああッ。
 バカ、勝手に撃つヤツが……。
 間違えよったな……ッ! この儂と、あんな弱弱しいメスガキとを、よくも、よくも間違えよったなあああッ!

 

「いまわの際、あの女が現れた」
 メフィスト……? 化け物か? なんでもよい。助けてくれ。なんでもする。
 自ら隷属を望む者を、私は人間と認めない。

 

「いい女だと思った」
 御託はいいからさっさと助けろ! あいつら鏖(みなごろし)にしてやる! 早くしろクソアマ!
 よろしい。契約を結んでやろう。君は私の下僕(しもべ)であり、私は君の下僕だ。

 

 いつの間にか三味はやんでいた。
「おや、トンボじゃないか」
「珍しいの。シオカラトンボか。久しぶりに見る。ほれ、どこなと行くがよい」
 開いた窓から夜風が入った。
「一刀斎さん、あんたの本当の名前は」
 彼の瞳に瑠璃が覗いた。
「売女(ばいた)が下ろし損ねた合いの子」
 青い翅は、月に向かって飛んで行く。

 

(白紙)

 


 

2018/5/26 初稿

水無月14

 指が灰になり始めた。ほろほろほろほろ、指から腕に。桜が散るように。
「悔しかろうなあ。あれを起こすな、儂も死ぬな。お前の命令は全部反故じゃ。え? 鉄の女王よ。裏切者が憎らしいと言ってみよ」
 メフィストは静かに問う。瑠璃色の瞳に怒りはない。
「君は最期に何を言いたい」
「何を?」
 一刀斎の嘲笑は自嘲めいている。
「何を言い残すことがあると言う?」
 静かさは変わらない。
「なんでもいいよ。言いたいことを言いたまえ。私は聞く。そして忘れない」
 ぱすん、と自嘲が消える。
「――――」
 訛りが強すぎて文字に起こせないが――。
「それが、君の本当の名前か」
 一刀斎と名乗っていた男は頷く。
「納は死なんな?」
 メフィストは地面に座る。
 彼の頭を膝に乗せる。
「死なないさ。君がここまでやったんだ」
 彼は山の向こうを見る。遠い遠い海を見る。
「百年生きて、身に付いたことは喧嘩だけじゃ」
 海の向こうには南洋がある。
「あいつらに逢いたい」
 もう灰でない部分が半分もない。
「君は、それでこの道を選んだのか?」
 彼は目を瞑る。
「疲れた。儂の可愛子(かわいご)が死ぬのに、もう疲れた」
 灰が散る。神の腹に命が散っていく。
「何十年もの付き合いだったのに、弱音を吐くのは初めてだな」
 メフィストはやさしい女の声音で言う。
「ほんとに君は、可愛(かい)らしなあ」

 

 喪服を仕事着に着替える。
 黒一色の着流し。
 染め抜かれた五芒星。
 またの名を、晴明桔梗。
「陽炎……」
 着崩れた喪服を着替えもせず、母が部屋から出てくる。
「しゃあないんや」
 陽炎は足を速める。
 その首筋に母がすがりつく。
「行かんといて!」
「お母(か)ん……あんな……」
 血を吐くような絶叫。
「わかってる!」
 首筋の指が震えている。ひどく弱弱しい指だ。
「わかってんねん……。せやけど……あんたまで亡うなったら厭(いや)や……」
 土御門陽炎は足を止める。
 そのまま二人は動かない。

 

 納には妙な癖がある。
 寝息を立てずに眠っていると、起こさないように近づき、呼吸をしているか確認する。
 なぜ知っているかというと、眠っていないが目は閉じているという場合でもするからだ。本人は眠っていると信じているので指摘しないが。
 その妙な癖の後、気配は遠ざかり、やがて小さなガチャリという音がした。
「いったんだな」
 蛍は起き上がり、さっさと私服に着替える。
 ああ、腹が立つ。
「お前が死ぬせいだ、クソ」
 ドラッグパックを引っ張り出す。狙撃銃、スコープ、弾丸を再確認。不備なし。
「死んじゃったら、納の一番はずっとお前じゃん」
 壁をノック。隣室からの返答のノック。
「ぶっ殺してやる、土御門篝火」
 ドアを開ける。
「ウー。蛍、怖い顔だネ。メイク落とさず寝たせいデス?」
 ユキが既に立っている。軽口をやめる。
「メフィストに報告しますか?」
「どうするかな……」
 スマホの振動音。
 液晶に浮かぶ文字。
 発信者:ジョーイ・ラスボーン
「もう知ってるな、こりゃ」
「ですね」
「なんでバレないと思ったんだか」
「相変わらずトロちゃんだねー」
 パシン。ユキが蛍の肩を叩く。
「一人で戦わせたりしません。納の大事な友達は、私たちにも大事な人間です!」
 マンションを降下。
 駐車場へ直行。
 黒のステラに乗り込む。
「いつもよりご機嫌ななめだね、蛍ちゃん」
「あんたと無駄口叩く趣味はねえよ」
 ジョーイは後部座席の二人に「聞いた?」というジェスチャーをする。
 ユキが答える前に、マリュースクが「早く出してください」と切り捨てる。
「僕の人間関係が冷たい」
 出発。
「納を着けて行く?」
「いや、先回りする。行き先は決まってるからね」
「土蜘蛛を先に殺しますか?」
「いいアイデアだマリュースク。だけど無理だな。たぶん、僕らは土蜘蛛のゲヘナに入れない」
「なぜ納は入れるのですか?」
「土御門篝火の肉体が、土蜘蛛の一部なんだろ? そして死ぬ前に土御門篝火はあのサムライ少年をゲヘナに入れた。そのゲヘナに入れたいという意思ごと土蜘蛛が食べちゃったからだろうな」
「だから、納は積極的にゲヘナに入れるのですか?」
「ああ。自分の巣に往来自由なヤツなんて蟲(むし)にとっちゃ最大の脅威だ。殺しておかなきゃおちおち眠れない。向こうも毎晩スタンバイしてたろうさ。七竈ちゃんはいずれ来るって。それが今夜だったって話。ラジオつけていい?」
 カーラジオから明るいDJの声が流れる。
『さあ、積極的に夜更かしのリスナーさんたち、致し方なしに夜更かしのリスナーさんたち、寝落ちしてる人もいるかなー? ここらでテンション高い曲いっときましょう。陰陽座で「愛する人よ 死に候え」』

 

「……遅いですね」
 ユキが呟く。ジョーイが肯定する。
「ああ。ところで君たち、何食べてるの」
「そばぼうろと生八つ橋ですが」
「おいしいデスネこれ。っていうかなんでマリュースク、京都来てるの教えてくれなかったデスカ。薄情ダネー」
「私は勉強が嫌いですので」
「ウー! それじゃ私だけ数学だの歴史だの勉強してたデスカ! ずるいヨ! この抹茶バームクーヘン食べていいデス?」
「大人の特権です。後、それはスポンジがパサパサでハズレでした。……食べないのですか? ジョーイ、蛍」
「君、京都満喫してるな。僕はいいよ、三人で食べて」
「俺甘いモン嫌いなんだよね」
「初めて聞いたんだけど……蛍ちゃん……この一か月以上先生やって、初めて君のプライベート聞いたんだけど」
 傷ついているようだ。無視。
 駐車地点は晴明神社から堀川を挟んで反対側。戻り橋の真横。今はコンクリート製となった橋は、暗闇に溶けている。
「井戸は?」
「変わらずあります」
「誰も到達しません」
「そしてなんで肉眼でわかるの。後、到達は微妙に使い方が違うよ、マリュースク」
「矮小な違いにこだわるなどルーデルクラスです。……迷子にでもなっているのでは?」
「いや……この状況で迷子って……」
 逆方向に振り返ったマリュースクが突如息をひそめる。
「蜂蜜盗んできたヒグマが近づいてきます」
「なに突然メルヘンなことを……禁酒しなよ」
 同じく振り返ったユキの顔も引き締まる。
「蜂蜜じゃないですよ。あれガソリン盗んできてます」
「え、なに、どうしたのロシア組?」
 暗視スコープを覗く。
 車の後方から、黒い影が近づいてくるのが見える。
 どくんと心臓が跳ねる。
 あれは……。
「ヒグマじゃねえ! 闘牛用ホルスタインだ!」
「えっ納ですか!?」
 人影と、何か巨大な円柱。
 七竈納がドラム缶を引きずって近づいてくる。
 納は蛍たちには気づいていない。
 そのまま真横を通っていく。
 真っ黒いどろどろした影が通っていく。
 ざり、ざり、とアスファルトの音。
 知らず、冷や汗が流れる。
 納の表情は見えない。ただ、ひたすらの 威圧。殺気。背筋が凍る。薔薇菩薩村の儀式に突っ込んできたより酷い。怪物!
 円柱に見えたのはドラム缶であった。
 ざり、ざり、中身がたっぷり詰まったドラム缶を引きずり、そのまま晴明神社の方へ向かう。
 慌てた声。車内に戻る意識。
「え、う、嘘だろ?」
「ジョーイ! 早くドア開けろ!」
「開かないんだよ! 七竈ちゃんが近づいたとたん……スマートキーが誤作動で開かない!」
「そんな……バカ言え……自動車があいつにビビッて壊れたってのか……」
 納は井戸の前にたどり着く。
 よいしょとでも言ったような気がした。
 ぐっと体に力を入れ。
 トン単位の重量のドラム缶を持ち上げ。
 井戸の中に放り込んだ。
「待て待て待てえ!」
 こちらの制止も届かず(届いたとしてもやめないだろうが)。さらにライターを点け、それを井戸に。
「中津さん! やって! 早く!」
 ジョーイの絶叫が爆音で描き消える。
 爆発。
 縹色の縮緬が爆風になびく。
 井戸から轟音と火柱が上がる。
 晴明神社の鳥居が燃え盛る。
『時間停止(タイム・アウト)』
 インカムから中津の声。
 周囲一帯の時間停止。
『気の毒だが鳥居は諦めるしかねえなあ。二キロ先からでも火柱が見えたぜ』
 音声共有魔導インカムから、半分笑っているような声が聞こえる。
 火陰から覗く納の姿。赤い炎をものともせず、井戸の前でぎらぎら光る隻眼。
 井戸消失。
「なるほど。ああすればよかったのか。存外頭が良いようですね」
「マリュースク、よくない。よくないから。鳥居がね、ほら」
「あーもう、なかなか開きませんッね!」
「ドアアアアアア!」
 ユキが力づくでドアを外す。ジョーイがもうやだこの蛮族ども……とうめく。蛍は暗視スコープをこらす。
 人が井戸があった場所から這い出てくる。
「土御門?」
「いや、土蜘蛛だ」
 土御門篝火の姿をしたそれは、煤にまみれて糸を吐く。
「俺の巣をどうしてくれる」
 納はじいっとそれを見る。
 全身あちこちが焼けただれている。しかし。
 右手を動かす。空間にひび割れ。引き出される刀。雲切丸。
「元気そう」
 ぎらぎらした隻眼が動く。
 咆哮。次の瞬間、刃が土蜘蛛の左目をえぐる。
 土蜘蛛はギャッと鳴く。
「貴様……この姿へのためらいはないのか……?」
 ぎらぎらとした瞳は変わらない。
「容姿にこだわるのは男らしくない」
「道理」
 土蜘蛛は自ら右目をえぐる。
 その眼窩に蜘蛛の複眼が生える。
「殺しておかねばならぬな、貴様」
「違う。僕がお前を殺すんだ」
 ニィ、と土蜘蛛の口角が上がる。
 その口から白い糸が噴き出す。
 しゅうううと伸びた糸は、鉄製のベンチをからめとり。その鉄製のベンチを土蜘蛛の口元に運ぶ。
「あむ」
 大口を開けて、二人掛けのベンチを丸のみする。
「まずい」
 唾を吐く。喉から腹にかけてベンチの形に変形する。すぐに凹む。
『出てきたようだな』
「メフィスト!」
 インカムからの指示。
『予定通りだ。散開しろ』
 蛍は問い返す。
「ホントに土蜘蛛を納に任せて大丈夫なんだろうな!?」
 落ち着いたアルト。
『すまない。こちらも立て込んでいてな。その件ならまったく問題ない。君たちは予定通り、頭部が蜘蛛の頭になっている人間を探せ。まあ、周囲一帯時間停止しいるのだから、動ける者という判断で構わない』
 命令。
『叩き潰せ!』
 車から一斉に飛び出す。
 直後、車体に糸が絡みつく。
 糸の主の土蜘蛛は笑う。納の頭上に車を振り下ろす。
 バンパーから垂直にひしゃげる車。
「納!」
 ゆっくりと車がバランスを崩して倒れていく。
 その向こうに血濡れた道着の七竈納が立っている。
 首の縮緬を解く。
 腕にぐるぐるに巻いて止血する。
 刃を構え直す。
 そこまで見て、蛍は移動する。
 周囲を見渡せる高所。
 西陣織会館の屋根。
 でこぼこしたタイルに足を引っかけ外壁をよじのぼる。
 ああ、クソ、ドラックパックが重い!
 息を切らせて屋根に登頂。
 すぐに三脚を取り出し、狙撃銃を固定。
「やっぱ邪魔! クソ重てえ思いして損した!」
 三脚を放棄。狙撃銃を自身の肩と腕で固定。
 スコープを見つめる。
 納が土蜘蛛の糸にとらわれ、引き寄せられる。
 引き寄せられた際、土蜘蛛の皮膚の焼けただれた個所を刀でえぐっている。
「えげつねえ……」
 白い糸がますます納を締め上げる。
 脚を折り曲げて砕く気だな。
 想像通り、納の両足がへし折れ、堀川の中へ投げ出される。
 スナイパーは索敵する。どこだ?
 土蜘蛛が嘲る。
「人の形は不便なものだな。脚が二本しかない。もう立ち上がれん。メフィスト・フェレスの呪い持ちよ。なぜ俺が土御門の一族について回れると思う?」
 勝利を確信している。
 チャンス。
 猟師が獲物をとらえた瞬間、猟犬は意識の外となる。それが土蜘蛛とて変わりはない。
「どこだ」
 メフィストの命令。
 土蜘蛛が土御門篝火を喰らうのが早すぎる。今までは餌に子孫ができてからだった。早く姿を現して忠誠を示し、かつ足りない魔力を補ってもらえる後ろ盾が存在する。
 逃げるモノがその後ろ盾への伝令を兼ねているなら、確実に伝えるように逃走ルートがある。
 メフィストからの情報では、平安時代から土蜘蛛は土御門の一族に出現している。
 長命は経験値の高さを現す。この碁盤状のみやこのどこが良いルートか程度は指示しているはずだ。それだけの知能がなければここまで生き延びられない。
「痛みを感じないことが疑問のようだな。俺のこの体はほとんどが消化前の食糧なのだ。ゲロと同じだ。胃袋の中身が土御門篝火の姿をしているようなものだ」
 連続しての銃声、ユキ。やったか?
 砲声。今のはマリュースクだ。これは二人ともダミーに引っかかったな。
 あの二人の一撃で死なないほどのモノなら、自分への加勢に使う。
 どこにいる?
「ならば俺の体とは何か?」
 どこだ? 土蜘蛛の後ろ盾。上級悪魔【蠅の王】ベルゼブブへの伝令!
「そもそも論だが、確実に無惨に妖(あやかし)の餌になって死ぬ者が出るとわかっているのに、なぜ子孫を残す?」
 まずい。話が終わりかけている。
 納が立ち上がろうともがいている。
 その手が刀をかたかたと動く。刀を握り直す
「確かに土御門は安倍晴明を祖とする一族。だが、一族を絶やさぬためならば血の縁は必要ない。そもそも始まりの段階で祖の弟子の子孫の一族なのだ。陰陽師として優秀な一族を残したいなら、同じように優秀な弟子に継がせればよい。その方が確実だ」
 しかと刃を地面に突き立てる。
「なぜ、それができない? 性欲は三大欲求の中で唯一抑えても生きていける欲求だぞ? ただ、理性を働かせれば俺はとっくに消滅している。なぜだと思う? 簡単なことだ。俺のほんとうの体はわずかな遺伝子なのだ」
 蛍は観点を変える。伝令に土蜘蛛の意思が作用していなかったらどうだ? そう、猟犬ではなくただの放たれたウサギだとしたら。食事とセックス以外の思考がほとんどない程度の知力だとしたら。そこらを走り回っていれば、いずれベルゼブブの手下に発見される。それだけで土蜘蛛が生きているとわかる。なるほど。これならば知恵は必要ない。本能のみで動けばいい。故に、的確な逃走ルートなどない。ただおっかないところを避けてめちゃくちゃに動く。
「子孫を残すという欲を抑えきれない。そういう劣等な人間にする遺伝子こそが、俺の本体だ。この体を喰らえば、また次の土御門の者に――」
 土蜘蛛本体の隣にいては無意味。晴明神社は炎を恐れて避ける。土御門の家も避ける。代々陰陽師として生きてきた一族なら、対抗手段が何かある。上からは見えない……屋根の下だからだ。施錠されていては侵入音を俺たちに気付かれる――。
 理解! インカムに怒鳴る。
「ジョーイ! 戻り橋のそばのコンビニ店員! 見える!?」
 返答。
「ああ、あの帽子のかい?」
「そいつは時が止まったふりをしてるだけだ! 帽子の下は蜘蛛の頭のはずだ!」
「やるね。照準は?」
「援護を頼む」
「オーケイ」
 ボルトアクションライフル【プロメテウス(仮)】
 あまりの扱いづらさに弾薬開発すら成功せず、作成中止。
 だが、妙高蛍にとっては一番”マシな”狙撃銃。
 スコープを覗く。
 照準を合わせる。
 距離約93メートル。
 店員の心臓を狙う。
 引き金を引く。
 ショット!
 店員がのけぞるのが見える。
 外れた! 帽子の下にあまたの複眼。
 直後、銃声。ジョーイのもの。
 銃弾に追い立てられ、背中がこちらに向く。
 二発目をショット。
 噴き出す黄色い液体。倒れる蜘蛛の伝令。
 醜い毛むくじゃらの脚があらわになる。
 無事灰化。
「二発撃てばいいんだったよな」
 大きく息を吐く。
 次の瞬間、インカムから大声。
『全員撤退!』
 思わずインカムを外しそうになる。
「どうしたんだよマリュースク」
『わかりません』
「は? わからないって――」
『わかりませんが、危険のにおいがします。撤退です』
「待てよ、納は」
 蛍はスコープを堀川に向ける。
 ぞわ、と悪寒が走る。
 先ほど完全におかしな方向に両足がへし折れていたのに。
 七竈納が立ち上がっている。

 

≪空六六六ぷらす!

 

今回のぷらすはケモ耳幼児姿の16歳組をお楽しみください。

 

メフィスト「新しいおともだち、うしのおさむや。仲良くしてな」
ゆき(シロクマ)「やったー! ごちそうダー!」
おさむ(うし)(びくッ)
メフィスト「話聞いてた!?」
ほたる(山猫)「もー、いじめるんじゃないよ」
ゆき「いじめてナイ! ごはんいじめナイ!」
メフィスト「……しばらく柵作っとこ」

 

おさむ(葉っぱもぐもぐ)
ゆき「おいしいデスカ? 新緑っていうデスヨ」
おさむ「おいしい。ゆき、こわい子かと思ってごめんね」
ゆき「そうですヨー。今のおさむはちっちゃいですからネ。大きく育ってネー」
おさむ「うん!」
ゆき「今、ちょっとだけお肉とっても、おさむの体はいっぱい減っちゃいますもんネ!」
おさむ「……う?」(首傾げ)
ゆき「だから、今は食べナイ。ちっちゃい体からお肉とったらいっぱい減ル」
おさむ「うん」
ゆき「でも、おっきくなったら同じ量とっても減る比率少なくなル」
おさむ「……うん?」
ゆき「もうちょっとしたらリンゴできる。でも、おさむ、うしだから木登りできナイ。でも、私採ってきてあげますヨ」
おさむ「ほんと?」
ゆき「ホントホント。だから、おっきく育ったらちょっぴり食べてもいいデスカ?」
おさむ「……うーん」(考え込んでいる)
ゆき「おっきく育ったら食べられるとこほんのちょっぴりになル! おっきくなれるようにリンゴ毎日あげるヨ!」
おさむ「うーん……それならいいのかなぁ……?」
ほたる「よくねえよ」

 


 

2018/5/26 初稿

水無月15

 千年生きた。
 その間に土蜘蛛の感情面は擦り切れ、もはや悦楽以外ほとんど残っていない。
 目の前の小僧と会話する気になってしまったのは、そのせいだ。
 己以外に目を向けている存在を、己しか見えないようにする悦楽。
「貴様、なぜ土御門に俺がこだわると思う?」
 脚がへし折れたくせに、刀を持ち直している。その眼(まなこ)が初めて、土蜘蛛以外見なくなる。
 初めて?
 わずかな違和感。
 こいつは俺以外の何を見ていたのだ?
 しかし、今は土蜘蛛以外見ていない。よって悦楽の前に違和感は排除される。
「優秀な一族だからだ。平安の世においては貴族であり、幾たびの戦乱に日の本が揺れようと陰陽寮を統べ続け、維新の動乱が起きれば新政府の隠し玉となり、太平洋戦争が終われば気象庁の星読みとなる。まあ、この体の男の兄のように暗殺陰陽師となる脱落者もいないこともないが……。おおむね、このおおむねは全てに近いおおむねだ、優秀な人間として生まれる血筋なのだ」
 くっくと喉を鳴らす。
「痛快であろう。そのような優秀な血筋に、劣等な遺伝子が紛れ込むのだ。繁殖欲を抑えられぬなど、獣(けだもの)以下。え? たとえ我が子が俺の餌となる可能性がなくてもだ。繁殖欲性欲はただの欲だぞ? 不都合があれば止めるものだ。理性で性欲を止められぬなど、腹が減ったら他人の菜を奪って喰らうに等しい。俺は今の世でいう平等にしてやっているのだよ。優秀な血筋など不公平だ。貴様のようなものなら理解できるはずだ。不公平を平等に。素晴らしいことではないか。なあ?」
 小僧はもう片方の手に、ひび割れから短刀を引き出す。
 それを抜かずにつっかえ棒にして体を起こす。
 土蜘蛛はその顔を見て意外に思う。
「貴様、なんだそのツラは!」
 驚き、きょとんとした顔。土蜘蛛の悦楽を寄越さない顔。
「だって、もっと賢いと思ってたんだ」
「は、理解できなかっただけか。予想以上に愚劣だな貴様」
「うん、そうだけど」
 短刀に力をこめて姿勢を維持。
「お前だってバカだよ」
 カッと土蜘蛛の頭に血がのぼる。折って殺すなど手ぬるかった。四肢をもぎ、生きた内臓(はらわた)を喰らってやらねば。そうせねば。身の程を理解できぬ。
 この哀れな虫けらを理解できぬ!
「恵まれた環境に産まれることはある。だけど」
 いいや、口だ。口を糸で塞ぎ、哀訴を封じてから――。
「人格と技術は遺伝しない。優秀な血筋なんてない。優秀な人間が羨ましいなら、相手を貶(おとし)めるより自分を鍛えればいい。その人だって優秀になるためになにかしらしてる。鍛える時間や量はその人より多いかもしれないけれど、ひがんで何もしないなら永遠に自分は0だ」
 まっすぐに土蜘蛛を見つめる。
「八つ当たりは悪いことだ。僕もかがり火にしちゃったから、ずっと後悔してた。やっちゃだめなことなんだよ」
 土蜘蛛は全身から糸(いかり)を噴き出す。
「愚者愚者愚者愚者愚者アアアアッ! もう全部やめだ! 今すぐ死ねえッ!」
 納は右手に刀、左手に短刀を構える。

 

 糸が来る。
 はっきりと見据える。
 正面からくる。
 かがり火の体はもう見えない。
 糸しか見えない。
 でも
「殺してやる」
 報復しなければ、怒りは決して鎮まらない。
 両足がやっと感覚を取り戻し、痛みを訴える。
 しかし、いかなる苦痛も快楽も等しく前進を止める理由にならない。
「殺してやる」
 瞬間、目の前が光で遮られる。
 光、いや、星、五芒星。
「この時代ではお前のようなものをなんと呼ぶのだったか」
 五芒星のさらに上空。
 狩衣に烏帽子の男が立っている。
 釣りあがった目と口角。白い顔。
「鬼、妖(あやかし)、物(もの)の怪(け)、いやいや、違う」
 ぴんと人差し指を立てる。
「怪物。うむ。そうだ。かいぶつだ。のう、かいぶつ。我々をいくら脅しても無駄だ。神というのはな、どいつもこいつもみぃんな脅すのに慣れているのだ。我々をその身に下ろしたくば、気に入られるようにふるまうことだ」
「ふざけるな! 俺を見ろ! 安倍晴明!」
 土蜘蛛が怒鳴る。
 この狩衣の男が安倍晴明か、と納は見上げる。晴明神社に祭られている神。安倍晴明。
「俺を見ろ安倍晴明! お前の一族を千年呪ったのはこの俺だ! お前の愛し子を殺し続けたのはこの土蜘蛛だ!」
 土蜘蛛が怒鳴り続けている。まるで寂しい人みたいだ、と思う。
 面倒気に安倍晴明は振り返る。
「ああ、うむ、それそれ。千年も一族を渡り歩いていたな、お前」
 あっさりと言う。
「ゆえにもう飽きた。どうでもいい。それよりこのかいぶつ、な。呪い持ち……まあこれも見飽きた。面白いのはな、お前の精神が完全に非人間であることだ。のう、怪物、お前が土御門篝火と遊んでおったころ、我はずっと見ておったぞ。あのような育ちで、どうやってそんな「正しさ」を保てる? ふふふ、ふふふ」
 広い袖で口元を隠す。
「お前が悪魔と契約しようとしていなかろうと、肉体が人の子であろうとなかろうと、お前はかいぶつなのだ。正しく、かいぶつなのだよ」
 ふふ、ふふふ。
「我々が憎いか? 神が憎いか?」
 納は即答する。
「憎いよ。僕を勝手にこの世に生み出して、勝手に見捨てて、僕の力で先生を殺すのを邪魔した」
 ふふふははははは。
「おもしろい! 憎め、憎め! それでもお前は神から離れられぬ! お前は神が力を振るうために必要なのだ! 憑代よ! かいぶつよ! 我は貴様に下りよう! さあ、振るえ正義を! 正義とはことごとく暴力である!」

 

 ユキは戻り橋の上に跳ね上がったモノを再度確認する。
「あれは納ですか……?」
 マリュースクはその首根っこを引っ張る。
「なんであろうと。頭を引っ込めなさい」
 伝令は完全に灰化し、今は制服しか残っていない。元の制服の持ち主は血だまりしか残っていない。
 ユキとマリュースクはコンビニのレジ下に潜り込んでいる。
『マリュースク、君はあれが何なのか知ってるのかい?』
 インカムからジョーイの声。
『知りません。ただ、危険のにおいがしているだけです』
『実は僕も感じ始めた。今、近づいたら死にそうな気がする。カンってヤツだ』
 納の口で知らない男が喋る。
「我は魑魅魍魎の類が好きなのだ」
 直後、納の声に変わる。
「僕が何であろうと、今はどうでもいい。土蜘蛛を殺すんだ」
 土蜘蛛――。土御門篝火の姿をしているのに、一切のためらいがない。
 ならば
 あの戻り橋の上にいるモノは
 白い狩衣から大きな白い狐尾を伸ばし、白い髪の中には狐の耳が生え、眼鏡も眼帯もなく、左目を潰された痕がはっきり見え。その両目の上下に細い金色の目があり。六つの眦(まなじり)に朱を引いた、あの生き物は。
「納ですね」
 七竈納以外ありえない。
 両足が折れていたはずなのに、今はすっくと立ちあがり。
 正面に雲切丸を現し。
 右手は柄に左手は鞘に。
 刀身が姿を見せる。
 抜かれた刀を振りかぶり。
「鏑木流抜刀術、推参」
 振り下ろす。
 五芒星が強く光る。
「流星……?」
 流星。またの名をアマキツネ。空を疾(はし)る星。
 星が、降る!
 光と熱の塊が、雲間から、土蜘蛛めがけて降り注ぐ。
 炸裂音か風切音かあるいは土蜘蛛の悲鳴か、すべての大音量がごじゃまぜになって無音に変わり。視界は光でくらむ。
 視力を取り戻したとき、土御門篝火の肉体はどこにもなかった。
 堀川から吹き飛ばされ、川沿いの公園で焼き潰されたのだろう。
 クレーターの傍らに、ベンチだったらしき破片が散らばっていた。
 納の体から、納ではないものの言葉が発せられた。
「神下ろし 陰陽(おんみょう)ノ理(ことわり)」
 とたん、ふいっと白い髪や尾や狩衣が抜けていった。
 元の血みどろの道着姿に戻る。そのまま納は倒れていく。
「納!」
 ユキはコンビニを飛び出す。反対側から蛍が走ってくるのが見える。
「納! 生きてる!?」
 殺気はいまだに満ちている。
「うん。僕は生きてる。……あれ? ユキと蛍がなんでいるんだろう。……後でいいや。土蜘蛛は死んだよね?」
「死にました! それより、今のは」
 ぱすん、と殺気が消える。
 かってベンチがあったらしきところに、ころんと転がり。
「眠くなった。寝る。おやすみ」
 安らかに寝息を立て始めた。
「ちょっと、今のは? 今のは!?」
「っていうか、こんなデカい図体担いで帰るのやダヨ!? 起きてヨー!」
 シェルターに入らず、こちらの声にも気づかず。
 七竈納という怪物は、くうくうくうくう眠ってしまった。

 

 メフィスト・フェレスは電話をかける。かってから使い慣れたラテン語で。
「ご機嫌よう、法王。ローマの天気はどうだね」
 相手の狼狽が少し治まるのを待つ。少しでいい。あえて少しだ。
「はは、こちらの用件をよくお察しだ。ありがたいよ。そう、ベルゼブブがとうとう動き出したわけだが……。私と友好的関係を築く気持ちはまだ湧かないか? ふむ。そうか。いやいや、怒ってなどいない。では」
 ぐるりと周囲を見渡す。
 死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。生存者。
 わずかに呼吸するのが精いっぱいの生存者の胸倉をつかみ、強制的に立たせる。
「気の毒だが……ヴァチカンは再度の交渉をお望みだ」
 銃口を向ける。生存者が両手を胸の前で組む。メフィストの口角が釣りあがり、犬歯が覗く。
「殉教したまえ。Amen.」

 

(一度何かを書きかけたが消しゴムで消した痕。その上に「何も書かない」とだけ書かれている)

 

 

≪空六六六ぷらす! ≫
納「ちがうよぅ。あのガソリン盗んでないもん。もらったのだもん」
ユキ「通りすがりの石油王でもいたト?」
納「ううん。ちゃんとガソリンスタンド行ってー、ドラム缶いっぱいあるとこから店員さんがいるとこまで運んでー、いくらですかって聞いたら「金はいらん! 助けてくれ!」って言ってくれたから、もらった」
ユキ「晴明神社着く途中で?」
納「うん。セルフじゃないとこがあったから。でもやっぱり高いものもらったから、ちゃんとお礼言いに行こうと思う」
ユキ「あの時助けていただいた闘牛用ホルスタインですっテ?」

 


 

2018/5/30初稿

水無月16

「先生、聞いてください、あのねぇ、メフィストが先生のおうちのもの、なんでも持って帰っていいって。でもねぇ、探したけどほしいのなかったのです。きれいな着物とか彫刻した道具とかあったけど、僕にはいらないのです。だからねぇ、代わりに埋めておくことにしたのです」
 一刀斎の文机に向かって言う。文机だが、何か書き物をしているところは見たことがない。置いてあるのはだいたい酒瓶や携帯や短刀や手裏剣であった。その背中にのしかかるようにして話すのが納の常で、聞くのが面倒になると一刀斎は片手で納を床に転がし、しっしと犬を払うように追い払った。
「やっぱりただの独り言だ」
 死んだ人間は消滅する。この梅雨の京都で、大事な人が二人消滅した。
 カッパのぬいぐるみを右手に、歯車さんを左手に庭に下りる。
 かなり激しく草ぼうぼうである。縁側にカッパを置き、園芸用スコップで庭を掘る。長いことほったらかしだったスコップは錆び切っていて、納のネクタイと同じ色になっている。
 納は黒一色のスーツ姿である。もう学ランは小さいし、道着も「ひどい」らしい。ちょっと体をきゅっと締める服じゃないと落ち着かないと言ったら、メフィストが目を輝かせて仕立て屋さんを呼んだのだ。
 「近頃はスリムな仕立てが流行です」と仕立て屋さんの見本を試着したら、メフィストが顔をしかめた上、「少しセクシーすぎますね」と仕立て屋さんまで却下したのは少し傷ついた。ユキに「胸とお尻が大きいからぴっちぴちですネ」とストレートに言われたのはかなり傷ついた。「容姿にこだわるのは男らしくないんじゃなかったデスカ?」「だってそれ女の人の体型だもん! 男らしくない体型だもん!」最近気づいたが、ユキはたまにいじめっこになる。蛍はいつも僕を甘やかしてる。「そんなに都合よく痩せねえよ。ま、それでも痩せたいんなら止めないけどさ。もうちょっとでレーズンクッキー焼けるけど、いらないんなら」「いるー! 絶対いるー!」
 ざっくざっく。 
 それなりに大きい穴ができた。
 そこに歯車さんを入れる。
 土をかける。
 歯車さんが見えなくなったとき、ちょっと掘り返したくなる。でも、土をかけ続ける。
「こういうのも納骨っていうのかなぁ」
 父親を焼いた火葬場の風景が蘇る。
 納の熱はまだ下がらず、メフィストが隣で姿勢よく立っていた。
 死体が炎に入っていくとき、知らない老婆が納に言った。
「最後に、お父さーんって呼んであげなさい」
 何も知らない老婆を憎らしいと思った。
 その瞬間、メフィストがはねつけた。
「一緒に焼却炉に放り込まれたくなくば、疾(と)く失せろ」
 信じられないという顔をして、老婆は逃げていった。
 納がメフィストの刃となる根拠は、その一言で充分である。
 歯車さんはすっかり埋まってしまう。
「かがり火、先生、さよなら」
 室内に戻ろうとしたとき、家の前で車が停まる音がした。
 また女の人だろうか、と玄関に向かう。
 予想外に男の人だった。かなりおじさんだった。
「君が七竈納君?」
「はい。おじさんは先生のお知り合いですか?」
「うん。昔お世話になったんだ。お線香をあげてもいいかな?」
「お線香はないのです。でも、おあがりください」
「お線香はないか。やっぱり一刀斎さんは一刀斎さんだなあ」
 おじさんはそう言って難儀そうに車から降りようとする。
 納は肩を貸す。杖の片方を持つ。柔らかいおなかが当たる。
「ありがとう。しかし、君、ずいぶんと泥んこだねえ」

 

「粗茶ですが」
 おじさんの前にお茶を置く。湯呑みには事欠かない。夫婦茶碗の婦の方だけないのがいっぱいある。
 おじさんは床の間の手前を見る。
「そのカッパは君の?」
 納はちょっと慌てる。
「違うのです。ぬいぐるみだけど、女の子やちっちゃい子のぬいぐるみじゃないのです。コレクションなのです。……それしかないけど」
「そうなんだ。男前のカッパだと思って」
 嬉しくなる。
「あの、おひるごはん食べますか?」
「え、いや、いきなりきてそんな……」
「そうですか……」
「……。君、おなかすいてるの?」
「そうなのです」
「ごめんね。いただくよ。実はおじさんも昼ご飯を食いっぱぐれててね」
 おにぎりを食べながら、おじさんは納の頭から足元まで見る。
「おいしいおにぎりだね」
「ありがとうございます。卵とお味噌があれば、卵焼きとお味噌汁も作れるのですが……」
「一刀斎さんが教えた?」
「そうなのです」
「あの人、それしか作れないかったよねぇ」
「そうなのです。それも作り方を蛍に教えてもらったのに変えても、ぜんぜん気づかないのです」
「馬鹿舌だったよねえ。蛍って?」
「一緒に住んでる同い年の男です。すごいのです。なんでもできるのです。卵焼きも菜箸とフライパンだけで作れるのです。お味噌汁も野菜を皮ごと切って、ことこと弱火で煮たら野菜の出汁が出るから味付けは味噌だけでいいって教えてくれたのです。すごいのです」
「それはすごいな」
「はい。ユキもすごいのです。すごく賢いのです。一か月とちょっとで中学生くらいまで勉強することを全部わかるようになったのです。あと、絵もうまいのです。それからお友達もたくさんいて、オフ会にも3回行ったのです。賢いのです」
「そうかあ……。それが聞けたらおじさんの用事はほとんど済んじゃったな」
「おじさんのご用はなんですか?」
 おじさんはにこにこのまま暫く黙った。
「一刀斎さん、剣客みたいなことしてただろ?」
「してたのです」
「おじさん、昔、仲間と悪いことしててね。でも、するのがあんまり悪いことだから怖くなっちゃって、仲間から抜け出したかったんだ」
「はい」
「それで、一刀斎さんにこう、なんというのかな……そこまでたいへんなことにならないけど、歩くのは不自由になるような斬り方で、うまく片足を斬ってもらって、やっと抜けられてね。そのとき、一刀斎さんの言うことならなんでも聞く約束をさせられたんだ」
「……」
 今度は納が黙る。じいっと話に聞き入る。
「それでおじさんは田舎に帰ってね。在宅の仕事をしてるんだ。だけどね、6月の……いつだったかはっきり思い出せないな……一刀斎さんに呼び出しを受けてね。なんだろうと思って駆け付けたら、君のことを頼めないかって、頭を下げられたんだよ」
 驚く。
「先生が!」
「うん。俺もびっくりした。あの一刀斎さんが頭を下げるんだからね。刀を突きつけられて脅された方がびっくりしなかった。でも、一刀斎さんが頭を下げられるようになったんだから、引き受けなきゃなって」
 日の光が大きい。もう夏。
「君も齢をとらない?」
「え、えと、あの」
「いや、詳しくは聞かないよ。一刀斎さんと初めて会ってから四十年経ってるからね。よくわからないけど、そういうこともあるんだろう。
一刀斎さんが薬品で君の顔を手足の皮膚を焼けって言ったから、そうなんだろうなって。
家事でひどい火傷を負って、そのせいで心も病んでしまった子を引き取った。それなら話も通りやすい」
「……おじさんはどこに住んでいるんですか?」
「うーん、地名を言っても知らないだろうなあ。山奥の過疎の村の一番不便なところに住んでる」
 またじっと聞く。
「こういう体だと、田舎はある意味住みやすい。一人前の人間と見られないから、しがらみのためだけにやる仕事や付き合いをやらなくていい。僕は仲間どころか、誰とも一緒にいない日が一番好きなんだ」
「先生が言ったことと反対のこと……」
「ガッカリした? そうなんだよ。僕もびっくりした。一刀斎さんは見下されるのが一番嫌いだし、見下されるのを我慢する人間も大嫌いな人だったから。
でも、なんとなくだけど、誰にもないしょで君に戦わない道を作ってあげたかったんろうなって」
 驚く。
「なんで……なんで知ってるの?」
「いやあ、そりゃあおじさんも悪いことしてた時期があるし、なによりあの一刀斎さんの弟子だろ? 命がけで戦ってるに決まってるよ。これはたぶん、じゃない」
「……おじさんは僕を迎えに来たの?」
「半分くらいそうだったかな。亡くなる前の日にいきなり電話がかかってきて。「あの頼みは取りやめにしろ。いいな?」ってだけ言って切れたから、ああ、あの人死ぬんだ、ってわかったし」
 納の頭を脂肪で柔らかい手が撫でる。
「死んだんだから、君本人の希望があれば連れて帰ってもいいかなって思ってたけど、やめた」
 一刀斎先生の頭をかき回すのとは違うし、メフィストの甘えるなでなでとも違う。ただの太った親切な人が優しくしてくれている。
「友だちと別れるのはさみしいもんな」
 納はぽつりと言った。
「友だちは……いないのです」
「ええ?」
 おじさんは納にもびっくりする。
「友だちは死んじゃったのです。友だちはその子だけだけど、死んじゃったのでもういないのです」
 おじさんは首を傾げる。
「ほたる……っていう人とゆきっていう人は友だちじゃないの?」
「じゃないのです。優しくしてくれるだけなのです。優しくしてくれる人でも、友だちになってもらえそうになったら、なぜだか急に僕が嫌いになるのです。いつもそうなのです」
 おじさんは納の顔をのぞき込む。
「そっか。納君はその人たちが大好きだから、嫌われたくないんだね」
「そうなのです」
「向こうもそうだよ」
「なんでわかるんですか?」
「おじさん、あの一刀斎さんとの付き合いが長い大人だから。気難し屋にも怒りん坊にも慣れてるもの。君は案外嫌われ者じゃない」
 納またじーっと黙って考える。
「先生が言っていたのです。僕は敵に突っ込んで行くのに向いているって」
「うん」
「お友達が言っていたのです。ひとりぼっちや、のうなったんやろって」
「うん」
「なので、蛍とユキに聞いてみます」
「うん。今から?」
「今からでもいいですか?」
「うん、俺はお暇するよ」
「なんのお構いもできませんで」
「気にしないで」
 おじさんは頭を撫でてくれた。
「元気でね」

 

 荷造りがほぼ終わったマンション。飛び込む。まっしぐらに。
 蛍が口紅を塗り直している、その脇でユキがアイスをかじっている。
「ただいま!」
「おかえ……お前(ま)っ。スーツもう泥っ」
「おかえりデスヨー。冷凍庫の最中アイス食べていいデ……」
 息せき切って問う。
「蛍! ユキ! お友達になってくれる!?」
「……」
 無言。
 二人があぜんとする。
 もう嫌いになっちゃったのだろうか。
 数十秒の無言の後、蛍が驚いてるのか怒ってるのか両方かの顔で大声を出す。
「お前……今までただの他人にあんだけベタベタしてたのかよ!?」
 蛍の言っている意味がよくわからない。
 その間に、ユキが腕を組み、にやりと笑う
「ふっ……、気づいてしまったのデスネ……」
 名探偵が犯人を指さすポーズをとる。
「実は納、あなたは私たちのペットだったのデース!」
「えっ知らなかった」
 こちらもあぜん。
「知らないのも無理はありまセン……。安心しなサイ。ペットの自覚が出たところで待遇に変化ナド……」
「いい加減にしろ」
 ぺしんと蛍がユキの頭をはたく。
「モー、だって今じゃなきゃこのネタいつ使うデスカ」
「一生使わなきゃいいんだよ」
 あの、えと、と納が狼狽する。自分でも意味がないとわかる身振り手振りをする。
 蛍がボソッと言う。
「なりたきゃ勝手になれよ」
「え?」
「友達でもなんでもなりたきゃ勝手になればいいじゃん」
 ぶっきらぼうに言い放ち、口紅を塗る作業に戻る。
「ウー、蛍はツンデレだネー。でも、納もおバカちゃんダネ!」
 げらげらおなかをおさえながら、ユキはさっきのポーズを繰り返す。
「なんと! 私たちは既に友達だったのデース!」
 納はぽかんとする。言葉を理解しようと考える。
 理解。
 直後、蛍に抱き着く。
「ありがとうー! 蛍、ユキ、大好き!」
「ウー! 蛍ばっかりずるいヨ! 私にもカモンダイブ!」
「ユキは女の人だから勝手に触っちゃだめ」
「なんと! ならばこちらから首を極めてあげるヨ!」
 メフィスト・フェレスは少し驚く。
 何千年もの歳月を生きた悪魔でありながら、こんな子供に驚かされる。
 帰宅しただけなのに、三人とも笑っている光景に遭遇するとは!

 

 七月十五日
 いろんなことがいっぱいあったので、眠くないときに書く。

 

≪空六六六ぷらす!≫

 

ユキ「そういえば、納が一刀斎にずっと敬語なの意外だったヨ。あんまり敬語使ってるトコ見たことナイ」
納「むぅ……僕だってちゃんと敬語使えるもん。もう16歳だもん」
蛍「ちゃんと敬語……?」
だいたい「のです」「なのです」って語尾なだけだよな?

 

2018/6/1初稿

 


水無月17

「ほーう、これはこれは」
 ウィルヘルミナはしみじみと七竈納を眺める。
 ベッドの上にぺたんと正座を崩して座り、腕にはブサイクなカッパのぬいぐるみを抱きしめている。
「ナイスなグラドルポーズだ、スイート」
「ちがう! 正座したら足がしびれるでしょ! いつでも戦いに移れるように座りやすい座り方をするの! 一刀斎先生に習ったの!」
「へえ。じゃあ、その座り方をその一刀斎先生もしていたのかい?」
「先生はいつもあぐら」
「だろうなあ」
 むぅむぅと反論を考えているが、思いつかなかったらしい。箱の中のチョコレートに手を伸ばす。
 京都から彼が帰って数日。この地下室書斎城にひょっこり顔を出してきた。土産を持ってきたのかと思ったら、そのブサイクなカッパを自慢しにきただけだった。しかしながら、わざわざ見せびらかしにきたブサイクをブサイクと単純に表現するのは作家の名折れである。「実にブサイク」と表現した。むくれた。
「でね、先生に質問があるの」
 おっと、先走った。もう一つ用事があったらしい。
「なんだい? 神羅万象分け隔てなく隠しごとのないこの俺だ。存分に胸襟を開きたまえ」
 こいつを信じて大丈夫か? という顔をしたな、とウィルヘルミナは観察する。お察しの通り大丈夫ではない。ネタにする気満々である。
「先生は小説家なんだよね?」
「いかにも」
「恋愛小説も書く?」
「書くともさ」
「恋愛についてくわしい?」
「さて、どうだろう。無知の知という言葉もある。逆にユリイカという言葉もある。だが、あえて言うならば。経験したことしか書けない小説家は少数派だ」
 意味を考え込んでいる。いい加減なことを言った身としては心が躍る。
「んー、あのね、先生」
「なんだい、生徒」
「恋ってなあに?」
 ほほう、と言って腕を組む。できれば脚も組みたいところだが、ベッドは取られてしまっているので諦める。
「衝動だよ、七竈ちゃん」
 納ちゃんと呼んでいたが、今後は七竈ちゃんと呼ぼう。
「衝動?」
「イエス。その人を見ると、花束をあげたり、跪いたり、一緒にコーヒーを飲んだりしたくなる。あるいは服を引き裂いたり、ぐつぐつ煮込んで食べちゃったり、二度と会わないと失踪したりしたくなる。そういういろんな衝動さ」
 カッパを抱きしめたままじーっと考えている。考えている。考えている。
「それはやっちゃだめなことも入ってない?」
「入ってるよ。その衝動を押しとどめて、その人が喜んでくれそうな行動をとる。そのコントロール作業が愛っていうもの」
 またじーっと考えている。
 ぺこりとおじぎ。
「ありがとうございました」
「ははは、よろしい。敬いたまえ!」
 七竈納は三つ目のチョコレートをかじりだす。カカオでできたマリア像は、頭からぽきっと食べられてしまう。
「芥川龍之介を読んだことは?」
「地獄変の短編集一冊だけ」
「集英社文庫?」
「うん」
「巻末の著者略歴思い出せる?」
「うん」
 紅茶の最後の一滴を舐める。
「芥川龍之介はカッパを愛し、追い詰められたときは歯車がつきまとった……」
 カッパを指ではじく。
「親なし子っていうのは好みも似るのかな?」
 七竈納は無言になる。
「いたたた、いたい、いたいって」
 そしてぼすんぼすんウィルヘルミナを枕で殴る。慌てて逃げだしたウィルヘルミナに枕を投げつける。
「ウィルヘルミナ先生きらい!」
 カッパをひっつかみ出ていく。ドアの音が反響する。
「きらい……きらいねえ」
 にやにやしながらノートパソコンを開く。
 一行目。
 彼は殺人ドールから成長した。
「ウィルヘルミナ」
 ぬっとノートパソコンから女が現れる。いや、正確にはノートパソコンを中心とする空間の裂け目。ゲヘナと呼ばれる異空間の出入り口を、今日はそこに開いたというだけだが。
「メフィストさん、今から大事なとこ入るんだけど」
「数分で済むから待ちなさい」
 ゴシック調ドレスの女性が完全に姿を見せる。見かけだけは華奢。見かけだけは三十路に入りかけ。心身ともに最上級悪魔【鉄の女王】メフィスト・フェレス。
 関西弁でないということは、まじめな話なんだろうなあ。とウィルヘルミナは面倒がる。
「おや、おねえさん、新しいブローチでございますな。よくお似合いでげすよ。鏡はお持ちで――」
「芥川龍之介は孤児ではない。生後すぐに母が発狂しただけだ」
 肩をすくめる。
「おやおや、いじめっこに抗議しにママが出てくるのかい? 七竈ちゃんはいくつだい?」
「あの子の話だけではない」
 頬杖をわざとつく。
「発狂した母は親に数えない。父はまず親として数えるという発想がない。子供らしからぬ発想だ。もうちょっと甘っちょろいきれいごとを言う年齢だよ、君は。本来なら」
 瑠璃色の瞳から目をそらす。
「経験者しか出てこない発想だ」
 芝居がけてため息を吐く。
「メフィストさん、感情や感性は鈍化しえるんだよ。元に戻すのが手間なだけでね。それでもこの街は執筆を可能とする刺激がある。別に悪かぁないじゃないか」
 瑠璃色のは目をそらさない。
「麻酔は傷を癒さない。無駄に傷つけるのはやめたまえ」
「いやだと言ったら?」
 メフィストもため息をつく。
「いやだと言えなくするのが戦争だ。私は二千年戦場を渡り歩いている。二千年、いやだをよろしゅうございますに変えさせてるんだよ。桁が違うぞ、歯向かうときは相手を選べ。話は終わりだ。許可する。君の命を綴れ」
 一行目変更。
 殺人ドールの次は、何に成長するや?
「なーんだろーねー?」
 ウィルヘルミナは手元の千里レンズを弄ぶ。一見するとただの魚眼レンズだが、悪魔の間ではポピュラーな玩具だ。精度の極端に悪い千里眼になるレンズ。メフィスト・フェレスの贈り物。
「やーさしーねー?」

 

 その深夜。明け方に近い時刻。
「これ、ベルゼブブのせいにできへんかな」
 最上級悪魔にして【鉄の女王】たるメフィスト・フェレスは真面目に考えていた。
 手にはコンビニのおにぎりがある。ツナマヨばかり6つ、ビニール袋に入っている。
 時刻は数時前にさかのぼる。
 リビングのソファで晩酌第一便を行っていたあの時間だ。
 ユキの「あー、やっぱり凹みますネー」
 という一言から始まった。
 余談だが、メフィストは飲酒に関してはかなり寛容である。と、いうより未成年の飲酒が非合法になった感覚が薄い。喫煙に関しても実はそうである。単にたばこがおやつというのはあまりに貧しい食生活だと表立って許可しないだけだ。
 よって、晩酌第一便はだいたいユキと蛍もご相伴にあずかっている(この言い回しを日本語の間違いと思わない)。納は22時近くになると眠くなるし、酒は舐めた程度で卒倒するので不参加だ。
 蛍がつまみをこしらえるので、メフィストも少しありがたかったりする。「冷蔵庫にあるものでささっと」と。今日は冷ややっこにもずくとみょうがを乗せたものだ。
「そーねー。軽くねー」
 いつになく素直にシェフが同意する。同時に一升瓶が空になっているのに気付く。一刀斎が馬鹿舌を発揮した酒なので、味見をしたら料理酒にしてしまうはずだったのだが……。
 あえて肉体を劣化させないと、アルコールで酔わない悪魔の頑丈さが発揮されてしまったようだ。いや、日ごろから蛍もかなりいける口だし、ユキにいたっては鯨飲のたぐいなのは忘れる。今、みょうがを食べているから。民間信仰とは侮るものではない。
「納と仲良くなったと思ってたのニ―! 友だちとも思われてなかったデスヨー! だから私たちに黙って一人で行っちゃったんダー! 私たちのことなんて信頼してないんダー!」
「ほんっと! ほんっと! マジで! 土御門篝火殺す! てめえが死ぬから納が勝手に……マジ殺す!」
 あの笑顔の裏にこんな感情がある。こういうところも、人間が好きな理由だ。
 ふう、とメフィストは人差し指を立てる。
「君たち、何を保護者みたいなことを言っているのかね」
 二人が目をぱちくりさせる。
「確かに納は幼い部分が多い。だが、君たちと同じ16歳だ。覚えておけ。君たちも16歳だ。君たちは保護者ではない。保護者はこの私だよ」
 しばらく沈黙。
「……京都に行ってから毎日ごはん作ってくれるの蛍デスヨ?」
「うっ……。そこは共働き家庭と同じだ。家事分担は当然」
「……それ以外の家事、私と納でしてマスヨ? 蛍はそっちもしてマスヨ?」
「……いや……それはその……一番激務だから……しょうがないやん……蛍のお給料その分ちょっと高いし……」
「ユキ、叱られたからってそんな不貞腐れ方やめな。メフィストは忙しいんだからしょうがねえだろ」
 逆にクリティカル!
 逆にクリティカルだぞその流れは。家庭を顧みない親父がたまに早く帰ってきたと思ったら説教を始めたかのようではないか!
「ふっ、そ、そんなに私の手料理が食べたかったらそう言えばええのにー。いつでも作ったるのにー」
「えー、おいしくないじゃないデスカ」
「お前ね、せっかく作ってもらったもんにそういうこと言うんじゃないよ。おかずが一つできるためには、メフィストも含めいろんな人の力が必要なんだから」
 だから逆にクリティカル!
 ユキは素直に生きすぎだ! そしてなぜ素直になると攻撃力が上がるんだ蛍!
 しかし、今どきの子供にはピンとこないだろう。メフィスト・フェレスは貴族であることが。それも上流貴族として二千年生きてきたのだ。料理など料理人を雇うのが当然であったし、それ以外の家事など召使や女中や奴隷がすべて行っていた。そもそも悪魔に飲食は必要ないのであるから――。
「納だって蛍が台所に行くと味見しに行くデスヨ」
「あれは味見って言って口開ければ一口もらえるって覚えちゃっただけ。別に必要なことじゃないの!」
 待って待って、私、そんなんされたことない。
 このようなやりとりの結果。
「ふむ。ならば明日の朝食で、大人の本気を見せてやろう。さあ、もう寝なさい!」
 と宣言し、晩酌第二便第三便を一人行い。
 さて、と米櫃を覗けば虫がわいていた。
 これ以上の説明は不要であろう。
「……いや、あいつ蠅の王やしいけるんちゃう? いけるんちゃうかな、うん」
 と、結論を出し、そーっと引き戸を開ける。わずかなガラス音ですら忌ま忌ましい。誰だこんな扉にしたのは。自分だ。
 そのままそーっと玄関でヒールを脱ごうとして。
「うわっ」
 思わず声を上げてしまった。
 灯りひとつない真っ暗な玄関に、膝を抱えて座っているものがいる。
 不気味なその影は顔を上げ。
「……メフィスト?」
「ああ、納か。びっくりするやん。電気くらいつけぇや」
 ほっと安心した声がする。
「あ、いや、ちょっと目が覚めちゃっただけだから。びっくりさせてごめんね。おやすみ」
 悪魔には飲食も睡眠も必要ない。だが、心臓だけは存在する。
「私を待ってた?」
「ちがうよ。ほんとうにたまたまだよ」
 きっと、今の納は作り笑いをしているのだろう。不安を感じさせないように、心配させないように。
 死なないように。
「納!」
 行こうとする体を抱きしめる。
「本当のことを言ってごらん」
「僕は大丈夫だよ」
 正面を向かせる。悪魔の視力では瞳が見える。真っ黒い海底のような瞳が見える。
「私は君より大丈夫だよ」
 瞳を合わせる。
 瑠璃色と黒色がまっすぐ結ばれる。
 確かに納は幼い部分が多い。
 幼いがため、崩れなくてはいけないものが多い。
 今、ひとつ崩れた。
「一年生のころね、小学校のね、お母さんが夜中にどっか行っちゃったの。それきり帰ってこなかったの。朝になってお父さんだけ帰ってきて「お母さんはな、「今からあなたは死になさい」って声が聞こえて行ってしもたんや」って言ったの。それきりだったの。お父さんもよくいなくなったの。玄関で待ってることもあったし、探しに行くこともあったの。毎回酔っぱらってて、たまに死んじゃうとこで。メフィストと逢えてからはこんなことやってないよ。でも、かがり火も死んじゃって先生も死んじゃってユキと蛍は友だちになってくれて、いろんなことが頭をぐちゃぐちゃして、寝たいのに眠れなくて、それで、ごめんなさい」
 彼の心臓の上には、メフィストの刻んだ印がある。
 誰かに隷属することを望む者を、メフィストは人間と認めない。
「納、たとえばだけれど、私が君の下僕でなくなって、君だけが一方的に私の下僕になって――。それで、私の支配下におかれて、私から逃げ出すことも許されなくなって、私とずっと一緒に生きなきゃいけなくなったらどうする?」
「僕、そうなりたい。メフィストとずっと一緒にいたい」
「私の言うことをなんでも聞かないといけないよ」
「うん」
「私たちは対等でなくなるよ」
「うん」
「君は人間でなくなるよ」
「それでもいい」
 ぎゅうとしがみつく、アンバランスに大きくなった体。
「人間じゃなくてもいい。僕、メフィストと離れたくない」
 この子を人間とは認めない。
 メフィストはその小さな頭をぎゅうとする。
 心臓の音は聞こえているだろうか。
「じゃあ、今日はもう寝なさい。いろんなことがたくさんあったね。でも、大きくおなり。ゆっくりでもいい。私たちはずっと一緒だ」
 心臓の音が聞こえている。

 

 メフィストは紙片を指で弾く。彼女が普段絶対飲まない安酒をグラスに注ぐ。青い空のようなベチネアングラスが二つ。
 傍らのベッドでは納がぐっすり眠っている。これが使用されたのは初めてである。こんなものはインテリアにすぎない。びろうどのベッドカバーはあっても掛布団はない。そのベッドカバーで丸くなって、ぐっすり眠りこけている。
 次に紙片をつまみ上げる。
「悪魔に性欲は存在しない。そもそも私にそういう器官すらない。だがね、君の教え子は女の肌より母の腕(かいな)の方が良いようだよ」
 紙片を灰皿に入れ、マッチをする。
「ざまあないんじゃないか? え? 女ったらし」
 紙片はチラチラ燃えていく。一行の「マカセタ」という走り書きとともに、燃えて、燃えて、昇っていく。

 

 ええ、憎らしい。
 彼女は餅粉を練り続けている。
 水無月を作ろうとしているのだ。
 三角のういろうのような生地に、甘いあずきをのせた菓子。
 夏越の祓も終わったというのに、夏越の祓の菓子を作ろうとしているのだ。
 作ろうとしているが作り方は知らない。
 そもそも菓子作りなどほとんどしたことがない。
 それなのに水無月を作ろうとしている。
 怒(いか)っているのだ。
 彼女の怒りを受けて、餅粉は黒く焦げてしまう。
 それをゴミ箱に捨てる。
 彼女は胸の中で怨嗟を吐き散らす。
 ええ、憎らしい。
 私は「お父ちゃん」に怒っているのではない。
 土御門不知火という男に怒っているのだ。
 我が子が死ぬと知っていれば、誰がこんな家に嫁いでくるものか。
 しかもそれを私に教えず、勝手に死におって。
 憎らしい、憎らしい。地獄で焼かれよ。
 彼女は寝間着のままである。
 病人のように浴衣に裸足という姿である。
 上の息子が玄関に出ていく。
「お母(か)んは……ちょっとまだ体の調子がな」
「すごく悪い?」
「いや……大したことあらへん」
「そう……」
 ええ、憎らしい。
 あの子供が私の息子の首を抱えてきたのだ。
 哀れに思って情けをかけて、それでもおめおめ首を抱えてきたのだ。
 その後などどうでもよい。
 私は篝火の母なのだ。土御門の母ではない。
 あの子はもう骨壺で、頭蓋骨のかけらになっている。
「陽炎お兄ちゃん、あの……」
「七竈納」
 上の息子が土御門陽炎の言葉を使う。
「土御門に千年続いた因果。断ち切ったこと、感謝の極み。我ら土御門の一族は、最後の一人が絶えるまで、貴殿の命に従おう」
「……お兄ちゃん、僕はかがり火にもお兄ちゃんにもおばさんにも、たくさん助けてもらったんだよ。でも、かがり火を助けられなかったんだよ」
「それは別の話や。俺は土御門の火家当主。土御門陽炎やからな。なんかあったら言え。慣れてる」
「……うん」
「お母(か)んには言うなよ」
「うん」
 ええ、憎らしい。息子はそろって馬鹿息子。
 私がなんにも知らないと思っておる。
 誰の腹から生まれたつもりか。誰の腕で育ったつもりか。
 陽炎。お前が救われぬ子供を救うため、あまたの親を殺戮していることなど、知らぬふりをしているに決まっている。
 それのきっかけもお前だ七竈。
 陽炎が生きる道をそれと選んだのは、お前が消えたからなのだ。
 他のあまたの理由も知っている。けれど、みんなお前が悪いのだ。
 男というのはどいつもこいつも、女を置いて戦に夢中になるか、戦に出る前に死んでしまう。
 いつもいつもつまらぬ意地から、刃を振り回してそればかり。
「七竈、篝火の部屋にな、これ」
「歯車さん?」
「お前にやってくれってメモがあった」
「いいの?」
「ええんや」
 ええ、憎らしい。
 あの馬鹿息子。
 骨壺に入った馬鹿息子。
 お前が最期に助けを乞うたのが、この母であったなら、私はどれだけ救われただろう。
 憎い。憎い。憎い。みんなみんなみんな憎い。
「もう、帰るんか?」
「うん。11時代の新幹線」
「気ぃつけてな」
 刹那、彼女は木べらを放り出す。
 鍋が床に落っこちる。振り向きもせず裸足で走る。
「七竈ちゃん!」
 ぎゅうぎゅうとその体を抱きしめる。
 若武者の体になっている。
「七竈ちゃん! 死んだらあかんよ! 絶対死んだらあかんよ!」
 ええ、憎らしい。
 なぜあのとき私は勇気を振り絞って。
 少女のように小さいこの子を攫って閉じ込めて。
 三番目の息子にしてしまわなかったのだ。

 

「君たち、考え違いをしてはいけない。料理というのは料理人の本気。大人全般の本気とは財力だ」
「はいはい、言い訳どーも」
「めっちゃ落とした痕がありますケド、酔ってました?」
「ええいうるさい! ありがたがらんか!」
「おはよう……なんで朝から喧嘩してるの?」

 

 七月十六日
 いろんなことがあったからいっぱい書いたらノートがおしまいになった。明日とんぼのえんぴつと金色で6B50ってかいてあるノート買いに行く。おやすみ。

 

2018/6/1 初稿