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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

近田珠の出逢い1

 近田珠はチョイ役である。
 彼女なりに人生の主役を張っているつもりだが、歴史の中では常にその他大勢としか表現されない少女である。
 そして、この物語でもやっぱりチョイ役である。
 物語の冒頭で主人公と出会い、そして以降の物語で一切出番が無い。
 ただの、チョイ役である。
 こんだ たま 分類 高校生

 

 イケメン。
 若者言葉で容姿端麗な男性を表す。
 壁ドン。
 若者言葉で、男性が他の人間の顔の横に手をついて、その人間の背中を壁に密着させ、圧迫感を与える行為を表す。
 通学電車でイケメンに壁ドンされた。
 珠ではなく、痴漢が。

 

「おじさん。女の人の体を勝手に触るのはよくないよ」
 珠のお尻を触っていたサラリーマンは、小さく縮こまっている。
 壁ドンの正しい用途を使っている男を、珠は隣で硬直しながら見つめている。
 男は、よく見ると同年代の少年であった。
 だが、185はありそうな長身、服の上からでも厚みが感じられる胸板、しかも、眼鏡の下の左目には医療用の眼帯。おじさんたぶんすごいこわい。
 真夏だというのに、黒のスーツを着込み、白いワイシャツを第二ボタンまでかっちり閉め、赤錆色のネクタイも緩んでいない、クールビズへの反乱の服装。おじさんたぶん超こわい。
 黒のくせのある毛の下の顔は、整ってはいるものの無表情。人形めいているのでなく、怒っているけど、怒りを露わにするまで表情が動くのが遅いだけ、という感じ。声にもあんまり抑揚がない。おじさんたぶんハイパーこわい。
 正しい。実に正しい壁ドンだ。女の子を口説く時ではなく、相手を威圧する時に使用する為の行動である、壁ドンとは。
 少年の声は決して大きくないが、車内は静まり返っている。痴漢は助けを求めるように周囲を見渡すが、誰もが目をそらす。
 少年はそれっきり何も言わない。ただ、痴漢に壁ドンし続けている。
 だが、痴漢にとっては幸運であり、痴漢の身体の危険という意味では不運な展開が起きた。
 少年が痴漢を抑え付けていたのは、正確には壁ではなく扉だったのである。
 駅に到着すると同時に、扉は開き、おっさんは後ろのホームに仰向けに倒れ。
「あ」
 少年を押しのけて、通勤中の乗客は雪崩のようにホームに降りて行った。
 会社を遅刻する方が問題なのだ。地面に転んだままのおっさんを踏みまくるより。
 踏まれ蹴られ、どんどん痴漢はぞうきんのようになっていく。骨折くらいはしていそうだ。助ける気は起きないが、目の前で人が怪我をして気分がいいというほど、珠は暴力に慣れていない。
 すぐに扉は閉まり、電車は発車した。
 そして、空いた車内で、珠は少年と顔を見合わせた。
 少年はほとんど表情を動かさなかった。
 ただ、まっすぐ珠の目を見て
「ごめんね」
 いきなり謝ってきた。
「え、え、何がですか!?」
 少年は相変わらず抑揚なく言った。
「いや……逃がしちゃったから……」
 逃がしたというか、自動リンチに遭わせたというか。
 珠はとにかく慌てた。
「なッ何言ってるんですか! 助かったっていうか、助けてくれて、あの、えっと、ありがとうございます!」
「こういうのは警察に対応して貰った方がいいかなと思ったんだけど」
「いやッ、もうあのおっさん半殺しみたいになりましたし! あ、あの、えっと」
 とにかく慌てた。
「お礼にマックとか奢らせてくださいッ!」
「お礼は嬉しいけど、当たり前の事をしただけだよ」
「いやッその当たり前の事ができない人がほとんどっていうか! 初めて会ったんです! レアなんです!」
「そうか……。僕にはよくわからないな。痴漢を見て、何もできないっていう感覚は」
 珠は不思議な感覚に陥った。
 この少年には、本当に理解できないのだと直感したからだ。
 目の前で犯罪を見た時に、怖くて関わり合いになりたくないという感覚が理解できないのだと。
 見栄ではなく、真実そう言っているのだと。
「……学校……大丈夫なの?」
「へ?」
「奢ってくれるって言ったから」
「え? あ、ああ、うん、はい、部活サボります大丈夫です。マック行きましょう!」
 この、当たり前の事を言っているのに、ずれているような印象は何なのだろう。

 

 ハンバーガーショップで、百円のハンバーガー一個などいう注文をしようとした少年に、流石に遠慮してるでしょ! と叫び、珠は強制的に一番大きいハンバーガーとポテトの一番大きいサイズをのセットを注文した。
 その筋肉で、ハンバーガー一個で足りる訳無いだろうし、お礼に百円奢るで済ませるにはかなり重要な助けられ方だ。
「いただきます」
 きっちり言ってからハンバーガーを頬張る少年を見る。
 カッコいい、はともかく、それを通り越してロボットのような表情だ。
 正直、ああいう局面でああいう出会い方をしていなければ、関わり合いにならない。
 コミュニケーションが取りづらい。
「あ、私、近田珠って言います」
「僕は、七竈納といいます」
「ななかまど?」
「名字。植物の名前」
「あ、ああ……。この辺の高校なんですか?」
「高校には通っていないんだ。春まで通っていたけど」
 なんでもない事のように言われた。珠にとっては、大事なのに。
「……ごめんなさい」
 この少年の印象として、何か悪事を働いて退学になったとは思えなかった。事情があってだろう。
 その思いやりが、切りこまれた。
「謝るのはそれはそれで失礼だよ、根底に高校に通っているのが当たり前だという思想があるから」
 珠はあ、と呟いた。思いやるふりをしていた自分に気付かされた。実質は、憐れんでいる。いや、それも自分を良く思っている。本当の真実は馬鹿にしているに等しいのだと、たった一言で気づかされたのだ。
 怒っているかな、とちらりと顔を見た。
 納は言った。
「そのブレスレッド」
 慌てて珠は話題を変えた。
「あ、変わってるでしょ、悪魔よけのパワーストーンがついてるんです」
 ベージュの紐に小さな石がついている、シンプルなデザインだ。
「似合ってるけど、電車に乗る時はもっとごてごてした派手なアクセサリーをつけた方がいいよ」
「え、これぐらいにしとかないと、あんまり真面目に見えないし……」
「痴漢が狙うのは、真面目そうで、地味な子だよ。いかにも派手でけばけばしい子は対象から外れやすい。スカートがすごく短いとか、胸を大きく開けてるとか、金髪だとか、化粧が濃いとか、そういう子はあんまり狙わない。反撃されそうだからね。まあ、100%じゃないけれど。アクセサリーなら学校に着いたらカバンに隠してしまえばいいし」
「下宿のおばさんと全然逆の事言う……」
「下宿のおばさん?」
「あ、はい。私が中学まで住んでたとこ、すっごい田舎でイノシシとかナチュラルに出るところで、高校に通うのが不可能な立地だから下宿してるんですよ。でも、アパートとかじゃなくて。高校に相談に行ったら卒業生のお母さんに、ご主人をなくした上娘さんが家を出ちゃって広い家を持て余してる人がいるって紹介して貰ったんです。だから、そのおばさんと二人暮らししてるんですよ。すごくあたしの事を心配してくれる人で、ちょっと露出が多い服とか買うと「そんな恰好したら痴漢にあうんじゃないの」ってうろたえちゃったり」
「ふうん。露出が多い、いかにも強気そうな女性の方が避けられるんだけどね」
「まあ、このブレスレッドの効果も、ある程度あるんで」
「効果?」
 は、と珠は気付いた。しかし、どうせ行きずりだとも思った。
「七竈さん、悪魔って信じますか?」
 納は相変わらず、表情をほとんど動かさずに言った。
「僕はだいたい悪魔にかかわる仕事をしている」
 珠はあっと声をあげた。
 言われた言葉が、自分の求めている存在を指すからだ。
「私の下宿! 悪魔に憑かれてるんです!」
 言ってからしまったと思った。
 おかしな人間だと思われるかもしれない。
 だがもう限界だった。
 あの”声”に悩まされるのは限界だった。
 悪魔なんて誰も信じないのが、わかっているから、誰にも言えず。
 毎夜現れる悪魔が、心をすり減らし。
 だから、珠は縋ってしまった。
 初対面の少年に縋ってしまった。
 疲弊していた。
 疲れ切っていた。
 納は言った。相変わらず、こちらの目を真っ直ぐ見て。
「悪魔を殺してほしいの?」
 祓う、でもなく、退治する、でもなく、殺す、と言った。
「悪魔を……殺せるんですか?」
 頷かれる。
「人間だって、動物だって、星だって、悪魔だって、死なないものはこの世にいない。死ぬものは必ず殺せる。手間暇と能力の問題だよ。虫を殺すのと馬を殺すのじゃ、全然違うだろう? ただ、それだけ」
 そして、初めて表情を出した。
「僕はいずれ神を殺すつもりだよ。憎いという、たったそれだけの理由で」
 冗談にしては、怒りという表情が真実だった。
「神様を……殺す?」
「あんな奴が生きているなんて許せないからね。話を戻そう。悪魔を殺してほしいの?」
 吐き捨てるような口調だったが、話は戻った。
 言った。
「……悪魔を……退治してほしいです」
 殺すという表現を、珠は使えない。
「君の下宿に行く事になるよ。泊まる事になるかもしれない。大丈夫とは確信できない」
「そんなに……強い悪魔なんですか」
「いや、そういうことじゃなくて、道徳的な問題。見知らぬ男が女性しかいない家に泊まるという」
「あ」
 殺す殺すと話をした後で。
 こんな一般論の話を。
 どういう思考をしてるんだろう、この人。
 しかし、それは本当だ。あのおばさんが初対面の男の子を泊めるなんて、珠が不良になったと思うだろう。それはいけない。
「せめて女の人が一緒なら……説得できるんだけどなあ」
「ああ、そうなんだ」
 納はスマートホンを取り出した。
「僕の上司は女の人だ。何より、僕一人泊まるんであっても、外泊は連絡しないといけないから、ちょっと連絡してみよう」
 30分後。
「おー、なんやって。悪魔がおるんやって」
 黒いゴシック調のドレスを着てシルクハットを被った黒髪のドイツ人が、関西弁でにこやかに話しかけてきた。
「いやあ、納と話しててびっくりしたやろ。こいつ、性格歪んでるから。あ、私はまだ名乗るのはやめとくわ。ちょっと有名人やよってにな」
 インパクトのレベルが上がっていくなあ。

 


近田珠の出逢い2

 悪魔を退治する人を連れて来たら、喜ばれると思っていた。
 だけど、おばさんは嫌そうな顔をした。
「別にうちは悪魔にそれほど困っている訳じゃありませんし」
 珠は思わず言った。
「無理しないでおばさん。毎晩、悪魔に向かって一人で戦ってくれてるの、おばさんじゃない!」
 おばさんはぐっと詰まった。
 それを、ゴシックドレスのお姉さんは感心したように言った。
「おや、素人さんやのに、悪魔と戦ってはるんですか」
 お姉さんは二十代後半くらいで、身長は高いのに、体はとてつもなくスレンダーな人だ。
 羨ましい、と珠は思う。彼女はデブとまではいかないと自負しているが、ぽっちゃりしているのは否めない。合唱部でみんなで一列に並ぶの時、なるべく端っこにいきたいと願う。
「それはえらい事ですな。めったにできる事やないですわ。我々プロが悪魔を殺せるのは当然ですが、素人さんなんて逆です。殺されて当然ってなもんです。それを戦えるとは」
 明るい調子に褒められて、おばさんの警戒が少し薄らぐ。
「こちらとしても、今後の仕事に役立てたいんでお聞きしますが。悪魔とどんなふうに戦ってはるんですか?」
 お姉さんはにこにこと明るく、時折身振り手振りを加えて話す。一方、納は表情を出さずにずっと黙ったままだ。
 おばさんはぼそぼそと話し始めた。
「夕方くらいになると……いつも悪魔の声が聞こえるんです……。私はそれに対して、ずっと出て行けとか黙れとか怒鳴ってるだけで……でも、出て行く様子はないんですけど」
「おばさんが悪魔の声を聞くと、一階の……ほら、あのリビングの横の部屋、あそこからガタガタ物音がするんです。物をひっくり返してるような音が」
 お姉さんは納得したようにおばさんに問う。
「悪魔はどれくらいの時間、話しています?」
「30分くらいのこともあれば、朝まで話し続けることもあります」
「内容としては?」
「主に……私の悪口を……後、この家に災いを起こしてやる、という内容の事も」
「それと戦い続けているんだから、さぞ大変でしょう」
 そして、お姉さんは珠に向き直った。
「物音と、悪魔の声が聞こえだすのはどっちが先?」
「悪魔の声が先だと思いますけど……私には霊感が無くて聞こえないんです。でも、物音ははっきり聞こえます」
「その物音がする部屋に入った事は?」
「危険だからと止められています。私も、もし悪魔がもっと何かしてきたら、と思うと……怖くて……」
 お姉さんはふむ、と軽く口角を釣り上げた。
「今夜中に片がつくかもしれませんな。空いている部屋がもしあらへんねやったら、待機させてもろてよろしですやろか? 悪魔の声が聞こえるまで」
「主人の部屋が空いております。埃っぽいですけど、お使いになってください」
「それはおおきに。ご主人は怒らはらしませんか?」
 おばさんはいつもの暗い顔で言った。彼女は体が弱く、よく昼間から寝ている。
「ずっと前に、家を出て行ってしまいました」
 お姉さんは深く頭を下げた。
「それは失礼しました。娘さんも出ていかはったそうですのに、気遣いが足らへんで」
「娘は……悪魔のせいで」
「え?」
 その「え?」はお姉さんがわざと発したものに聞こえた。おばさんは答えなかった。

 

 夕方4時頃、私はカレーライスを二皿お盆に抱えて、二人がいる部屋にいった。二階に上がり扉を開けると、納は文庫本を読んでいて、お姉さんはスマートホンを弄っていた。
 二人でいるのに、会話とかしてないんだな、と思う。
「おや、ごはん持ってきてくれたん? ありがとうー」
「ありがとう」
 明るい調子のお姉さんと、何を考えているのか分からない納。
 文庫本には、「桜の園・三人姉妹 チェーホフ」とある。
「いつもこの時間なん? 晩ごはん」
「早い、ですよね。でも、このくらいに食べとかないと悪魔の声が聞こえだすのは夕方くらいからなんで……」
 納が文庫本をスーツのポケットにしまった。
「今日はもう聞こえているらしい」
「え? 何も聞こえないですよ?」
 そう言った瞬間だった。
「なんでそんな事ばっかりするの! お前なんかどっかにいっちまえ!」
 おばさんの怒声が聞こえた。
 納は言った。
「ちょっと音に敏感なんだ。下に下りよう」
 そして、私に囁いた。
「あっさり上げて貰った僕らが言うのもなんだけど、人間はほとんどが悪い人間なんだから今後は気を付けて」
 階段を駆け下りた。
 カレーライスに手もつけず、おばさんはリビングで怒鳴っていた。
「出て行け! お前なんか出て行け!」
 私達に気付かないようだった。
 ガターン!
 すごい音がした。
 リビング横のあの部屋からした。
 納がその扉を開けようとした。
「駄目! まだ駄目!」
 おばさんがようやく私達に気付いて絶叫した。
 お姉さんが言った。
「現実をブチ込んでやれ」
 扉が開いた。
 中から、何かが飛び出してきた。
 何が飛び出してきたか見えた。
 毛むくじゃらの体、顔の真ん中に20センチくらいの口があり、他はのっぺらぼう。
「食人鬼(グール)だ」
 お姉さんが言った。
 おばさんに向けて言った。
「貴様が、召喚したのだろう」
 口調が標準語だった。
 おばさんは魂が抜けたように笑った。
「そうよ。ほら、悪魔はいたでしょ。私は病気なんかじゃないでしょ」
 病気、何を言っている?
 珠は棒立ちになった食人鬼から、一瞬目を離した。
 出てきた部屋の中を見た。
 ざあっと血の気が引いた。
 部屋の中に、どす黒い飛沫がいっぱいかかっていた。
 あれは……まさか……血痕!
「いいや。貴様は病気だ。精神を病んでいる。幻聴が聞こえている」
 おばさんはへらへら笑いながら言った。
「あの子やお父さんと同じ事を言うのね。そこに悪魔がいるんだから、それが確たる証拠じゃないの」
 お姉さんは言った。宣告した。
「順序が逆だ。悪魔の声が聞こえだしてから、貴様は悪魔を召喚したんだ。そこに居る悪魔は存在する。だから、貴様が怒鳴り出すと同時に、部屋の中でモノを実際に引っ繰り返していた。実在するから、モノに触れられる」
 食人鬼の口が開いた。
「その女は危険だ。俺の敵う相手じゃない」
 酷くしわがれた声だった。
 悪魔の、声が珠にも聞こえた。
「実在するものが声を発して、聞こえない訳がない。実在するものが目視できる大きさで、目に見えない訳がない。なのに、貴様にしか悪魔の声は聞こえなかった。当たり前だ。誰も声など発していないからだ。声など実在していないからだ。食人鬼は一言も喋っていないからだ。全て貴様の幻聴だ」
 おばさんは突然絶叫した。
「なんで私を病人扱いするのッ! あの子もお父さんも同じ事を言った! 私を病院に連れて行こうとしたッ! 私は病人なんかじゃないッ! 精神病の患者なんて、人間のクズじゃないのッ!」
「精神病とは関係なく、お前はクズだ」
 その言葉を発したのは、納だった。
「僕は、生まれつきの障碍者だよ。精神のね」
 あの、神を殺すと言った時に似た、怒りに満ちた声だった。
「病人がクズなんじゃない。自分は病気じゃないと駄々をこねて、現実と向き合わないで」
 右目しかない瞳が鋭くなる。
「家族を食人鬼に食わせるヤツがクズなんだ」
 え? え?
 おばさんは、幻聴が聞こえて。
 それを家族に病気だと言われて。
 だから、悪魔の存在を本当にする為に、悪魔を召喚して。
「だって! 悪魔を実際に見たのに! あの子言ったもの!」
 おばさんも怒りに満ちた声をあげる。
「「こんなことをしてまで、逃げたいなんて、お母さんの弱虫」って言ったもの!」
 食人鬼も絶叫した。
「この女はッ! 最上級悪魔『鉄の女王』メフェスト・フェレスだッ!」
 お姉さんは、メフィストは言った。
「納」
 人差し指を向けて。
「殺してしまえ」
 納の手の中に、突然刀が出現する。
 白々とした日本刀だ。
「鏑木流抜刀術 推参」
 そう呟いた瞬間、刀は閃き。
「エイーッ」
 気合い一声、今までとは別人のような大声。
「こいつ、呪い持ちだッ! 俺を助けろ!」
 食人鬼の悲鳴と同時に。
 納は刀で、食人鬼の左わき腹から、斜めに、肩まで、真っ二つに。
 斬り上げた。
 どうっと音を立てて、食人鬼体が、リビングに落下する。
「メフィスト、鞘。後、紙」
 べっとりとタールのような血に濡れた刀を持ったまま、納は振り返った。
 その全身は、やっぱりタールのようなものでべとべとだ。
「納」
「どうせ死ぬよ」
 そのやり取りをした直後、おばさんが納に飛びかかった。
 黒くなったワイシャツに手をかけ、力任せに引っ張る。
「何もかもおしまいだろうがッ! せっかく次の餌を見つけられたのにッ!」
 スーツの釦が飛び、ワイシャツが引き裂かれた。
 彼の左胸、心臓の真上には。
「666」の刻印があった。
 おばさんはそのまま泣き崩れた。
「あんただって患者なら分かるでしょぉ……精神病だって言われるのが、どんだけ恥ずかしくて、情けないことか……」
 納は、告げた。いつもの、抑揚のない口調で。そうだ。きっと、彼は、障碍の為に抑揚がつけられないんだ。
「分かるよ。でも、それが乗り越えられないのは分からない」
 おばさんは唖然とした。
「恥ずかしい、情けない、辛い、だから認めないなんて理解できない。心が折れるのは分かっても折れたまま立ち直れないのは理解できない。一生治らない病気でも、それと向き合えないのは理解できない。頑張って、自分自身と向き合えばいい」
 くっくっく。
 メフェイストは笑い声を上げる。。
「人格が歪んでるんだよ、こいつは」
 とても皮肉な笑い。
「生まれた時から出来損ないで、ドブみたいな母親に生き別れ、ゴミみたいな父親と生活し、出会う人間はクズばかり。努力と苦労は違う。達成感が残るのが努力、恨みが残るのが苦労。人間を成長させるのが努力、人間を歪ませるのが苦労。子どものうちは努力は盛大にやったらいいが、苦労はしちゃあいけない。こいつは苦労ばかりの人生だった。苦労に苦労を重ねた結果、納には弱者の気持ちが一切分からなくなった。立場が弱いとかじゃなく、心が弱い人間の気持ちが、一切分からなくなった。ただただ強い、どんな状況でも歯を食い縛ってでも這いつくばってでも先へ進む、そういう人間だからこそ、行き倒れてしまう人間の気持ちが一切分からなくなってしまった。人格が歪んでしまった」
 納は笑いもせずに返す。
「そうだね、僕はこの人が今から死ぬ事に、一切同情できない」
「死ぬ!?」
 珠に向かって、メフィストは関西弁に戻る。
「悪魔と契約したものを”呪い持ち”と呼ぶ。呪い持ちが死んでも悪魔は死なへんけど、悪魔が死んだら呪い持ちは死ぬ。それが、悪魔の契約や」
 珠は、おばさん泣き崩れるおばさんの前にしゃがんだ。
「おばさん、私を悪魔の餌にするつもりだったの?」
 泣きながら、おばさんは答えた。
「最初はそのつもりだったの……」
 でも
「でも……今度は私の事、信じてくれるんだって思ったら……」
 手を握る。おばさんの手は、灰のように崩れてきた。
「おばさん、おばさんの娘さんも、おばさんの事を信じてたんだよ。いつか現実を認めてくれるって信じてたんだよ。だから、弱虫って怒ったんだ。それまで信じてたから、怒ったんだ。病気のお母さんでも、嫌いじゃなかったんだよ。嫌いだったら、お父さんと一緒に出て行っちゃえば良かったんだもの。ずっと待ってたんだよ、お母さんが好きだからずっと信じて待ってたんだよ」
 ぎゅっと手が握り返される。そこに、ぽたぽた雫が落ちる。
「信じて……くれてたんだ……私自身を……信じてくれてたんだ……」
 おばさんは、今度はへらへらとではなく、しっかり微笑んだ。
「赦してくれないだろうけど、分かってるけど、あの子たちに謝ってくるね……」
 ぱあん。
 元はおばさんだった灰が弾けた。
 桜吹雪のように舞って、消えた。

 

 タクシーの運転手にメフィストは行先を告げる。
「十三番街へ」
 運転手は露骨に嫌な顔をする。
「結構遠いですよ」
「かまへん。連れが今、電車に乗れる状態やないんや」
 隣の納はそわそわとした様子、と分かる程度だが、実質は疲労と予定としていた目的地が急にキャンセルになった事で、パニックを起こしているのが分かる。
 精神の障碍の特性だ。予定が変更されると情緒不安定になる。本来の彼は、メフィストに同行してある取引のボディガードをして一日を終えるはずだった。それが大いに狂った。結果、情緒不安定・パニックを起こしている。彼の本心は、ここで叫んで暴れたいところだろう。
 だけど、彼は我慢する。脳内で濁流の渦巻きのようになっている、記憶や思考を我慢する。じっと我慢する。
 悪いこと、嫌なことで溢れ返っている思考。それを我慢する。
「だって、十三番街がなんて言われてるか知ってますか? 悪の巣窟ですよ」
 メフェストはひょいっと、一万円札を運転手の脇に置く。運転手は黙ってタクシーを発車させる。
「よう頑張ったやないか、納」
 メフェイストは言う。返事は帰ったらだ。そして返事は分かっている。
「こっちの勝手な都合に巻き込んでごめん。助けてくれてありがとう」
 そういう当たり前の返事が、花火のように銃声が鳴る町であるだろう。
「花火か。あんな長い夏休み、学生さんはええなあ」
 納は無言で氾濫する思考に耐えている。
「そんなにボロボロになって、なんであの子を助けたんや」
 納は必死にパニックを押し殺した口調で言った。
「目の前で困っている人を、できる範囲で助けるのは当たり前の事だから」
 メフェイストはふうん、と言った。
「なんでそない思えるん? 別に君は助けて貰うのが当たり前の人生やなかったやん」
「うん。だからさ、助けて貰えない苦しさもよく知ってるし」
 記憶の氾濫の中、それも思い出したのだろう。彼は、”忘れる”ことができない特性も持っている。写真に写したように、人生の全てが脳にごちゃごちゃに突っ込まれている。たくさんの悪いことも。
「助けて貰った時の嬉しさもよく知ってるよ」
 ちょっぴりの良い事も。
 彼はメフィストの目を見て
「ありがとう、メフィスト」
 メフェイストは軽く目を閉じた。
「私が死んだら君も死ぬ。利用してんねや。そない正面からプラスの感情をぶつけてこんといて」
「ごめん」
「……本気で謝らんといて。こっちこそ、悪かったな」

 


七竈納の出逢い1

 近田珠と七竃納が出逢う数か月前。
 四月。
 七竈納は死に瀕していた。
 そして、それが常態であった。
 ガリガリに痩せこけて、身長だけがひょろ長く伸びた高校二年生。この頃は眼鏡をかけていたが、両目が機能していた。
 彼が悪魔に出逢ったのは、完全なる偶然であり、完全なる必需事項であった。

 

「ナマポでアスぺでさあ、なんで生きてんの?」
 ナマポ=生活保護受給者。納の父親は働いていない。何年も何年も、酒を呑む以外何も(特筆すべきことは)していない。納が小学校二年生の時に離婚。統合失調症になった母を、「家事をしない」という理由で父親が離婚した。納は父親と東京都で二人暮らしをしている。
 アスぺ=アスペルガー症候群、広汎性発達障害、高機能自閉症など、発達障害にあたる障碍者。納の診断名は広汎性発達障害、成長中に何度か同じ障害の呼び名が変わったらしいが、納が小学一年生の時、そう診断されてから。両親は一度も納を受診させていない。障碍者であることを、認めもしない。
 桐岡遊子に問われて、納は答えた。
「生きたいから」
 それだけだった。
 納には、生きたい以外に何も無いから。
 柚子の傍の男子生徒が言った。
「生きてちゃダメじゃん」
「何でだ?」
 納は問い返す。
「ナマポなんてさあ、自分で働かずに生きてる社会のダニじゃん。しかもアスぺとかさ、コミュニケーション取れないってことでしょ? 空気読めないってことでしょ? 人の気持ちわからないってことでしょ? クズじゃん。生きてて何の役にも立たないじゃん。そんなヤツ生きてちゃダメダメー」
 もう一人の男子が言った。
 クラスのほとんどがどっと笑った。
 一部は気まずそうに眼をそらした。
 その通りなのだろう。
 僕の存在が間違っているのだろう。
 納はそう思う。
 ずっと言われ続けたことだから、納得する。
 この世の役に立たない人間が生きている意味はない。至極納得する言葉だ。
 それならば、
僕は何で生まれてきたんだ?
 一生役に立たない。誰からも必要とされない。そう宿命づけられた人間は、そもそも何で生まれてきたんだ?
「死んだらいいのに」
「死にたくない」
 死んだら、いいのだろう。だけど、何故か死にたくない。死にたいと思ったことは何度もあった。だけど、その度納は、生き残ってきた。
 なんで生き残っているのかもわからない。
 だけど、死ねない。
 結局それは、”死ななければいけないという道徳観への反抗心”だ。
 そんな反抗心は抱くべきではない。
 べきではないことをしてしまう地点でダメだ。
 人間はするべきことはすべてして、するべきでないことはすべてしないものなのだ。
 三十過ぎの担任教師は言った。女だった。
「もう授業を始めるわよ」
 納は暴力を振るわれたりは、高校に入ってからはしていない。
 大学受験という問題。内申点という問題。それらが、彼らの暴力を押しとどめる。
「女性知事が、相撲の土俵に入ってはいけないって話が昔出たけど、そういうのって女性差別だと先生は思うんだよね」
 教師の視線には、納の教科書への「死ね! アスぺ!」というラクガキが目に入っている。
 担任には感謝している。
 クラスの誰もいなくなると、必ず生徒たちの真意を教えてくれる。
「みんな、あなたが社会でやっていけなくならないようにと思って言ってるのよ。働かなくちゃ本当は暮らしていけないの。あなたの人生は間違っていることが多かったから、分からないのも仕方ないけれど。いつかあなたが社会の役に立てるように、みんな心の底では願ってるわ」
 授業は続く。
 意識が暗くなる。
 貧血だ。
 それ以前に空腹だ。
 納は夕食以外の食事を摂っていない。
 小学校と中学校は給食があったから、昼食も食べられたが、高校は無い。
 食費は父親が酒に使い込む。
 あ、倒れる。
 そう思った時には、もう床に倒れていた。
 担任の声が聞こえた。
「ヘタに動かすと危ないから、とりあえずそのまま置いておいて」
 意識が途切れる。
 気が付くと放課後だった。
 教室には誰もいなかった。
 雨が降っていた。
 帰ろうとすると傘が無かった。
 職員室に行く途中、担任に会った。
「すみません、傘が無くなっていて……」
 納が担任に言うと、担任は困ったように言った。
「だからビニール傘は間違えられやすいから、やめなさいと言ったでしょ」
「紺の布傘にしました。コンビニで売っているような――」
「そういう傘は間違えられるのよ。学校の前のコンビニで新しいの買いなさい。特別に寄り道許してあげるから」
 納は一円も持っていなかったので、濡れて帰ることにした。
 四月だというのに土砂降りだ。
 春の嵐というものだろう、ゲルトルート。
 叩きつけるような水に一瞬怯むが、駆けだす。
 その瞬間。
 雨粒が止まった。
「?」
 Sah ein Knabein Roslein stehn,Roslein auf der Heiden,
 ゲーテの野ばらの歌だ。
 それがどこから聞こえてくるのか、周囲を見渡した納は目を見張った。
 war so jung und morgenschon,lief er schnell, es nah zu sehn,sahspan's mit vielen Freuden.
 周囲の人間が、全て動きを停止していた。
 否、人間だけではない。車も、信号も、烏も。すべての動きが、映像を一時停止したかのように止まっていた。
 Roslein, Roslein, Roslein rot,
 動いている者が一人だけいた。歌声の主。
 Roslein auf der Heiden.
 黒いゴシック調のドレスにシルクハット。シルクハットの飾りに赤い薔薇。細身の体の肌は白く、化粧を施された顔は西洋のもの。黒髪をボブスタイルにして。
 瞳が瑠璃色の女だ。
「留まれ、いかにもお前は美しい」
 同じくゲーテ、ファウストのセリフだ。
 ゲーテに黒く染まった女は言った。
「さあ、帰り、時が止まっている内に」
 関西訛りだった。
「あなたは……」
「あなたなんて言わんでもええわ。雨が降ってるのに傘を盗まれた子がいるから、時を止めただけのこと」
「時を……止めた?」
「まあ、もっと色々できるで。私と契約すれば」
 女はうっすら笑みを見せた。
「私は最上級悪魔”鉄の女王”メフィスト・フェレス。私と契約すれば、私は君の下僕(しもべ)となり、君は私の下僕なる。ま、あんまりおススメはできへんな。悪魔の契約は契約した地点で、色々歯車が狂うから」
 歯車は……僕にはあるのか。
「メフィストさん」
「メフィストでええて」
「メフィスト」
「なんや? 納」
「僕はこんな事をして貰っても、何も返せないよ」
 メフェイストは言った。
「それを気にするような子やから、私は時を止めたんや。自己満足も相手を選ばななあ」
 さ、早よ帰り。
 そう言われて、納は家路に歩き出した。
「私と契約したくなったら、私の名を呼ぶといい。私達には縁ができた。そういうことも可能や。まあ、おススメはやっぱりせえへん。縁というのは切ってナンボなところもあるからな」
 続けて言った。
「あんまり他人を信用せえへんことや。君が間違ってるとは限らない。世界が間違っていることもある」

 


七竈納の出逢い2

 帰宅。
 チャーハンを作る。
 納はチャーハン以外作れない。
 父親は何も作らない。
 父親は外出している。
 書き置きも何もない。どこに行っているのか分からない。
 たぶん、サウナに行って酒を飲んでいる。
 父親はギャンブルをしない事を誇りにしている。
 空腹。
 チャーハンは食べられない。
 納には、二人分作ったチャーハンをどのくらいの量、自分が食べていいか分からないから、父親が帰ってきて先に食べたいだけ食べるまで食べられない。
 どのくらいなら先に食べていて良いのか聞いた時、父親は怒り狂った。
「マトモなヤツはそんな事自分でわかるんだ! お前は普通なんだから、ちゃんとわかれ!」
 わからない。
 わからないから、夜八時現在、何も食べられない。
 止まった時を思い出す。
 メフェイスト・フェレス。
「時を止めたくはないよ……」
 停止していたくない。
 停止したいほど、現状は幸福じゃない。
 戻りたい時代も無い。
 進みたい時代も無い。
「あれが……悪魔……」
 ぽつりと呟く。
「嫌な感じはしなかったけどな」
 郵便受けを見やる。
 手紙が多数落ちている。
 六畳のワンルームマンション。
 手紙は全部父親あてだ。
 某政党支援者友の会。某男女差別撤廃の会。某国籍差別撤廃の会。某地域差別撤廃の会。
 すべて、父親が該当者という訳では無い。
 しかし、父親はこれらの反差別を掲げる団体の活動員である。
 唯一無いものは、発達障碍者支援の会。
 活動費は生活保護から出ている。
 だから納は、夕食にチャーハンを食べる以外、何も食べられない。
 思考を紛らわせる為に、外を散歩する事にした。
 また倒れるかもしれなかった。
 別に、道に倒れて誰が助ける訳じゃなし。
 何より、あのメフィストという女が、外にいないか気になった。
 扉を開ける。
 メフェイストはいなかった。
 当たり前だ。
 いてもメリットがある訳じゃなし。
 外を歩きだす。
 月光。
 四月の桜は散っている。
 学ランの前をきつく締める。
 気が付くと隣町に来ていた。
 見知らぬマンションの下で、納は呟いた。
「帰るか」
 その瞬間、金切り声が聞こえた。
「ママのバカ! あたしもう死んでやる!」
 見上げた五階のベランダ。
 女がベランダに足をかけていた。
「うるさい! どうせ死にもしないくせに!」
 母親らしき女の金切り声が聞こえた。
「ホントに死ぬもん! 死んでやる!」
 ベランダの縁に跨って、女は叫び返す。
 親子喧嘩か。
 あれは死ぬ気なんてない。
 父親もよく死んでやると騒ぐが、死ぬ気なんてない。
 しかし、普通に危ないな。
 納が見上げていると、女の体がぐらりと傾いだ。
 バランスを崩した!
 納ははっと女の下の地面に走った。
 落ちかけた女は叫んだ。
「たすけてっ」
 五階。受け止められない。女が死ぬ。死ぬ気も無いのに。
『私と契約したくなったら、私の名を呼ぶといい』
 無駄かもしれないけど、無理かもしれないけど。
 しなくて後悔するよりマシだ!
「メフィストっ!」
 納の声に、昼間の声が呼応した。
「時よ止まれ」
 落下している女の体が、地面から一メートルのところで停止した。
 背後にゴシックドレスの女が立っていた。
「メフィスト……」
 メフェイストは肩を竦めた。
「呼んでしもたか」
 納は息を吐いた。
「ありがとう……助けてくれて」
「助けたのは君や」
 メフェイストはため息を吐いた。
「契約が、成り立ってしもたからな」
「え?」
「心臓の上を見てみい」
 納は慌てて上着をはだけた、浮いた肋骨の上、心臓の真上に。
 666の刻印があった。
「これで、私は君の下僕(しもべ)となり、君は私の下僕となった。私が死んだら、君も死ぬようになってしまった。そして、君は今後、齢を取れない。悪魔と契約した”呪い持ち”は契約した年齢の儘、死ぬまで過ごす。もう、マトモな生活は望めまい」
 納は返答した。
「僕が今後マトモな生活を送るために、誰かを見殺しにしたら、それは正しい事じゃないと思う」
 動揺していた。
 今後の人生はどうなるのかと恐怖していた。
 しかし、納の中では。
『正しい事』の前では、納の心など些事だった。
「正しければ、何をやったってええんか君は」
「僕は、じゃない。それが人間というものだろう」
 メフェイストの表情が悲しげに曇った。
「悲しい人生を送って来たんやなあ。誰一人、君の為にはほかの事なんてどうだっていいって言うてくれへんかったんやなあ」
「みんなそうじゃないか」
「みんなそうじゃない。まあ、議論はしまいや。時を動かす。その女の子を受け止めたげ」
 納は落下してきた女を抱きとめた。
「なんでこんなヤツの為に、この子が犠牲にならなあかんねや」
 メフェイストはそう言って姿を消した。
 落下してきていたのは、桐岡遊子だった。
 時が動き出した。
「ゆずちゃん!」
 母親の悲鳴が聞こえた。
 桐岡遊子は気を失っていた。
 納は大声をあげた。
「娘さんは無事です!」
 母親はベランダから納に抱きとめられた娘を見て、泣きながら下まで降りてきた。
「ありがとうございます! つまらない喧嘩をしたせいで……! あら……その制服……同じ学校……? あの、名前を……!」
 納は桐岡遊子を母親に渡しながら返答した。
「七竈納です」
 母親は重みでよろけ、それでも娘を抱きしめて泣いた。
「なんてお礼を言ったらいいか……! 明日娘にもお礼を言いに行かせます。ありがとうございます。ありがとうございます」
 その場を立ち去る時、何とも言えぬ喜びと、何とも言えぬ苦い気持ちがあった。
 帰宅すると、父親は酒臭いいびきをかいて寝ていた。
 納はチャーハンを食べた。

 

 翌日登校し、教室に入る。
 その瞬間、男子の大声が響いた。
「殺人未遂が来たぞ!」
 クラス中が、楽しげにニヤニヤ笑っていた。
 その中で、桐岡遊子が俯いて、無理やり作ったような笑みを浮かべていた。
「七竈、桐岡さんを五階から突き落としたんだって?」
 もう一人の男子も笑いながら言った。
 殺人未遂! 殺人未遂!
 歓喜の声が響いた。
 何を言っているのか分からなかった。
「桐岡さんのお母さんがさあ、七竈に五階から落ちたところを助けて貰ったって、職員室に来てたんだよ」
 説明が始められる。
「でもさ、桐岡さんが本当の事をクラスで教えてくれたんだよな、本当は七竈が五階から突き落としたんだよな!」
 桐岡遊子は曖昧に頷いた。
「ほらー、殺人未遂だよ! やっぱりクズはやる事が違うな! 犯罪じゃん!」
 担任教師が入ってきた。
 納は担任教師に問うた。
「先生、先生は、僕が桐岡さんを突き落としたって聞いたんですか?」
 担任教師は動揺した表情をしたが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「みんな、静かにしなさい。七竃君は確かに間違いをしましたが、間違いは誰にでもある事です」
 納は怒鳴った。
「なんで嘘をつくんですか! 桐岡も、なんで嘘をつくんだ!」
 担任教師は言った。
「嘘なんてついてないわ。だけど、別に罪に問われることもないんだから、いいじゃない。さあ、みんな、この話はこれでおしまい」
 これは、正しくない。
 僕は、間違っていない。
 ならば。
 正さねばならない。
 納は傍の机に出しっぱなしだった携帯電話をひったくった。
「何するのよ!」
 素早く110番を押す。
『はい、緊急でしょうか?』
 納は電話口で言った。
「うちのクラスの七竈納君が、同じクラスの桐岡遊子さんをマンションの五階から突き落としたそうです。学校の名前は――」
 すらすらと学校名を告げる納に、クラスは唖然として見ていた。
 納は宣告した。
「これで警察が、真実を調べてくれるよ」

 


七竈納の出逢い3

「ふ、ふざけてただけじゃん……。なんでマジになるの……?」
 クラスの一人が言った。
 納は返答した。
「なら、警察にふざけていただけだと証言すればいい」
 双眸が周囲を睨み据えた。
「ふざけて、他人を犯罪者扱いしたと証言すればいい」
 ざわり。
 クラスの中に寒気が走った。
 全員が、納を怪物を見るような目で見た。
 担任教師が言った。
「ねえ……今ならさ」
 中年女独特のローズの口紅を歪めて。
「今なら、七竈君一人が死ねば、いじめなんてなかった事にできるよ……?」
「えっ……」
 クラスがまたざわついた。
「七竈君をさ、窓から突き落としちゃおうよ。全員でやれば簡単だよ……。こんなヤツの為にさあ、みんな人生棒にふりたくないでしょ? いじめがばれたら、大学にも行けなくなっちゃうし、大学に行けなかったら人生終わりだよ? ……そんなの嫌でしょ? 今なら、嘘の通報をした七竈君が、本当に警察が来るというショックで自殺したことにできるよ……」
 納は怒鳴った。
「先生! 今まで僕は気にし過ぎるだけで、みんなに悪意は無いって! 僕が間違ってるんだって言ったじゃないか!」
 担任教師も怒鳴り返した。
「悪意がないなんて信じる地点でアンタは駄目なの! みんなと同じにできないヤツなんて生まれて来なけりゃ良かったのよ! アンタの存在が間違いなのよ!」
 納は衝撃を抑えようと口を抑えた。
 教師はまた怒鳴った。
「早くしなさい! 警察が来ちゃうでしょ! 時間が無いの! みんなの人生が台無しになってもいいの!?」
 生徒の一人が、ふらふらと納の腕を掴んだ。
「みんな……やろうよ……」
 もう一人がもう片方の腕を掴んだ。
「俺、大学でやりたいこといっぱいあるんだ……」
 クラスの人間がわらわらと集い始めた。
「あたしのスポーツ推薦取り消しになっちゃう……」
「みんながやるんだ……俺は悪くないんだ……みんながやったからやるんだ……」
「放せッ! 放せッ!」
 納は逃れようともがく。
 しかし、クラス四十人が一丸となって窓まで引きずって行くのに、華奢な体が逃れられる訳がない。
「先生ッ! こんな事が正しいと思っているのか!」
 納の声に、教師はヒステリックに怒鳴り返した。教壇に立ったまま。
「うるさいッ! ちょっとはあたしの事も考えてよッ! あんたが死ぬせいで二年くらい休職しないといけないのよッ! 精神科で診断書書いてもらうのも大変なんだからッ!」
 こんな人間を信じていたのか。
 こんな人間を善良だと思っていたのか。
『お父さんのことは辛いと思うけど、耐えていればいつか幸せが来るから』
『就職したら、ごはんも三食食べられるよ。捨て鉢にならないで』
 こんな人間の為に。
「ごめんなさい……」
 桐岡遊子が一人だけ加わらず、涙をこぼしながら言った。
「あたし、ほんとは七竈君のこと、ずっと好きだったの! でも、クラスのみんなに馬鹿にされるのが嫌で、それで、ごめんなさい、あたしを赦して!」
 納は言った。濃暗の目を怒らせて。
「赦すものか」
 叫んだ。
「メフィストッ!」
 窓から、ゴシックドレスの女が飛び込んで来た。
 囁いた。
「時よ止まれ」
 その手にあるのは、軽機関銃、通称スコーピオン。
 停止する時、身動きできない生徒たち。
 それを。
 メフェイストは撃ち殺していった。
 弾丸だけが動く。
 皮膚にめりこむ。
 脳髄を砕く。
 しかし、血は未だ噴出さない。
「納。私の呪い持ちは、過去に廃棄された武器を時の狭間から呼び戻せる」
 メフェイストは問う。
「君は人を殺せるか?」
 納は答える。
「当たり前のことだ。それが当たり前のことなんだ」
 納の手の中に呼び戻される、黒塗りの短刀。
「人を殺すのは、当たり前のことなんだ。人を殺して生きるのは、呼吸をするのに等しいことだ。僕はようやく行き着いた」
「そうか。行き着いてしまったか」
 メフェイストは言った。
「吻合せよ、時」
 その瞬間、撃たれた生徒たちの体から、一斉に血が噴き出した。
 短刀を握った納の手から、一類に死骸が放れて逝った。
「きゃああああああッ!」
 唯一残った桐岡遊子と、担任教師の悲鳴が響いた。
 桐岡遊子は言った。
「ちがう……あたし……本当に七竈君が好きなの……」
 納は短刀を抜いた。
「本当に好きなら、相手の嫌がる事なんかできるもんか!」
 そのまま、突進し、桐岡遊子の胸に短刀を突き立てた。
 血の飛沫で納は真っ赤であった。
 彼女は、血のあぶくを吐いた。
 刃を納は回した。
 ギャッと声を立て、彼女は倒れた。
 担任教師は教壇の下にへたりこんでいた。
 そして震え声を発した。
「あたしが間違っていたわ……七竈君……。もっとあなたを尊重すべきだった……。い、いじめを注意すれば良かったのよね。今度はいい先生になるから……だから……殺さないで……」
 納は告げた。
「教師は、正しいことを人に教える存在なんだ」
 生一本な瞳で、告げた。
「たかが命を失う程度で、”正しいこと”を変えるんじゃない! 死ぬまで僕が間違っていたと吠えてこそ教師だッ!」
 血塗れた短刀で、教師の上から腹を突いた。
 即死はしなかった。
 即座に引き抜き、喉に刃を突き立てた。
 教師は絶命した。

 

 納は血塗れた顔をメフィストに向けた。
「勇気が出たよ」
 メフェイストは微笑んだ。
「何の?」
 納は笑いもしないで言った。
「父さんに、働くように言ってみる」
「よろしい。まずは悪魔の手際を見せよう」
 その瞬間、血塗れた死体たちから、傷がひとつ残らず無くなった。
「悪魔が殺した人間は、すべて自然死に見える。これが私たちが心置きなく跋扈できる理由や」
 そして、と続ける。
「呪い持ちは死体が残らない。君はもう死んでも死体すら残らず。その体は灰となる」
「灰は灰に、か」
「クリスチャンやったんか?」
「いいや。聖書くらいは常識として読んでおくものだよ」
「ははっ。高尚な常識やなあ。私の街の連中なんか、クリスチャンでも読んでへんわ」

 


七竈納の出逢い4

 この家は停滞している。
 納のアパートに着いたメフェイストは
「じゃ、私はゲヘナに潜るわな」
とあっさり言った。
「ゲヘナ? 聖書に出てくるあれか?」
 メフェイストは、目を丸くする。
「わあ、物知りやなあ。あれとはちょっと違う。悪魔が世界で身を潜めるために作る異空間みたいなものやな」
「なるほど。普段はそこに潜っている訳か」
「そう。せやから。普段から人間に干渉する悪魔はほとんどおらへん」
「?」
 首を傾げる納に、メフィストは人差し指を立てる。
「姿も見せずに干渉なんてできるかいな。この世に干渉するためには、必ず物理的にこの世に存在することが必要なんや。せやから、ゲヘナに潜ったまんまやったら、人間には声一つかけられへん」
「教室に現れたのは、そのゲヘナから出てきたのか?」
「せや」
「じゃあ、悪いんだけど、今回も父さんと話し合っている間は出てきてくれないでくれるかな。何があっても」
「まあ、そうやわな。それにしてもなんでこない散らかってるんや?」
 周囲をくるりと見渡す。
「父さんがいる場所から、部屋は散らかって行くんだ。片付けろと言っても、片付けは女の仕事だと言う。うちに女性はいない。勝手に片づけると」
「怒るんか?」
「気付かない。そして一日で元の状態に戻す。繰り返し。繰り返し」
「辛い?」
「散らかっているのは見ていて辛いよ」
「ふうん、視界的にストレスを覚えるということか」
「まあ、そうだね」
「お父さんは病気してるん?」
「病気ということになっているよ。肝硬変だ。アルコールが原因のね」
 はあ、とメフェイストはため息を吐き、ほなね、と言って部屋の中に、暗い狭間を作り出した。
 否、突然部屋に狭間ができた、と納には見えた。
 そこにメフェイストが体を躍らせると、姿が消える。狭間も消える。
 納は本棚の引き出しを開ける。
 何年も何年も開かれていないそこには、原稿用紙が詰まっている。
 今までは、いつか父が小説家になるのだと思っていた。
 ほこりの溜まった原稿用紙。
 パソコンはない。
 ガチャリ、と玄関の扉が開く。
「おかえり、父さん」
 父親は黄疸の浮き出た顔をしばたたかせ、部屋に入ってくる。
「今日は飯はいらん。会の連中と食ってきた。日本国憲法のために意義ある話し合いをしてきたんだ。平和国家として重要な話だ」
 納はその黄色くなった目を正面から見た。
「なんだ。お前のその癖は相変わらず気持ち悪い」
「父さん、そういう活動は働いている人間にのみ許される娯楽だ。そんな事をしている暇があったら、働いたらどうなんだ」
 父の顔がすっと蒼ざめた。
 怒りのために引きつった。
「娯楽ってなんだ! そんな意識の低い事だから、憲法が改悪されるんだッ!」
 納の表情は変わらなかった。
「自分自身の事もきちんとできない人間が、国家をきちんとできる訳がないだろう」
「俺はちゃんとしてる! 差別や戦争と戦ってるんだ!」
「働きもせず、家事もせず、体調管理もせず、いったい何をちゃんとしてるのか言ってみろ」
「家事は女がやるもんだ!」
「その理論を振りかざすためには、家事をする女性を全面的に養っていく経済力と、それを稼ぐ労働が必要だろう。家事以外一切何もやらなくていいという環境で満足できる女性がいない事には話にならない。要するに、家事を職業とする女性だ。家政婦を雇える男性だけが言える言葉だよ、それは」
 父親のこめかみがぴくぴくと震えた。
 納の表情にも、怒りが浮かび始めた。
「俺はいずれ名作を発表するんだ! その為には働いてる暇なんてないんだ!」
「暇しかない今だって、一文字も書いていないんだから、働こうが働くまいが一生名作なんて書けないよ。くだらない事ばかり言ってないで、ハローワークに行ったらどうなんだ」
「体調が悪いんだよ!」
「酒をやめれば治る。意思の強さが足りないだけだ」
 父親の声に涙が混じり始めた。
「人間はなあ、誰しも弱いところを持っているものなんだよ。酒に逃げなきゃ死んじゃうんだ。でも、そんな事言われるんなら、俺はもう死ぬ。死んでやる」
「父さん。今まで、そう言って死んでやるって言う父さんを止めてきたのが僕の間違いだったんだ」
 納は父親の胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
「酒に逃げないと死んでしまうんなら死ね! そこまで弱い人間は生きている必要が無い!」
 父親はぶつぶつと、じゃあ、もう死ぬ。死ぬ。と呟いていたが、ぴくりとも動かなかった。
 そして、涙声で言った。
「なあ、納、お前は働く事がどれだけ辛い事か知らないだろう?」
 納はきっぱりと返した。
「辛い事をやらない人間が、家庭を持つ資格は無い。家庭を持った地点で、辛いからやらないという選択肢は消える。辛いことをやりたくないなら、家庭なんて最初から持つな。自分で家庭を持つ事を選んだんだから、責任を取れ」
 父親は絶叫した。
 顔を殴りつけられて眼鏡が落ちる。
 しかし、手は放さない。
「こんな冷たいヤツを作ったのが間違いだった!」
 納に胸倉を掴まれながら、シンクの上の果物ナイフを握る。
 まずい。
「明るい家庭がほしかったんだ俺はッ!」
 そのまま、ナイフを振りかぶり、突きだした。
 よけられなかった。
 納の左目に、ナイフが突き立てられた。
「ひいッ」
 父親の方が情けない悲鳴を上げた。
「血、血が、違う、カっとなっただけで……」
 納は床に蹲り。
「グウッ」
 声を上げてナイフを引き抜いた。
 そして左目から血を流しながら、立ち上がった。
 咆哮した。
「明るい家庭が欲しいならッ! 自分で努力しろッ!」
 ナイフを投げ捨てて、父親の顔面を殴りつけた。
「働け」
 左目から激痛が走った。
「働け」
 それでも父親を殴る手を止めなかった」
「働け働け働け働け働け働けえッ!」
「うわあああッ」
 父親は、拳から逃げ出した。
 そのままアパートを飛び出していった。
 逆にメフェイストが、弾けるように飛び出してきた。
「納! 今すぐ傷を治すから!」
 納は冷や汗をかきながら手で制した。
「いい」
「いいやあらへんわ! その傷はほっといたら失明すんで!」
 納は床に座り込みながらまだ制した。
「いいんだ。父さんが、救急車を呼んでくれるはずだから」
「そんなん……ッ」
 納は荒い息を発した。
「流石に呼んでくれるよ。親子だもの」
 メフェイストは何も言えなくなったように、タオルを取ってきて流れる血に当てた。
 納の唇がありがとうと動いた。
 夜は更けて行った。
 納はいつの間にか失神した。
 そして、時折覚醒した。
 最後の覚醒の時、父親が残した携帯電話が鳴った。
 夜が明けているのを、ヤニで黄色くなったカーテン越しに確認した。
 這いつくばって携帯電話を取ろうとするのを、メフィストは慌てて取ってやった。
 通話ボタンを押した。
「七竈さんのご親族ですか?」
 納は答えた。
「息子です」
 聞いたことのない男性の声は、一瞬止まった。
「お母さんはいないかな? いや、君以外の誰か大人は」
 メフェイストは手を出そうとした。
 納は答えた。
「誰もいません」
 電話先の男性は、なるべく感情を抑えようとしている声で言った。
「いいね。落ち着いて聞くんだよ。お父さんは、昨夜電車に飛び込んで亡くなった。誰か保護者の方に言うんだよ。遺体は――」

 

 父親の葬式には誰も来なかった。
 父親の携帯電話には何十人も登録されていて、納は一人一人に父親の死を伝えたが、お悔やみの言葉を言う者はいても、葬式には誰もこなかった。
 正確にはきちんと葬式はしていない。
 焼き場で焼いて、骨を持って帰って来ただけだ。
 それでも、誰も来なかった。
 骨壺に収められた段階になって、父の伯母だという姉妹が来た。
 二人は納の左目を見て言った。
「その目、どうしたの?」
 医療用ガーゼに覆われた左目。
 納は答えた。
「見えなくなりました」
 二人の老女は、ああ、ああ、と言った。
「身よりも失くした上に、めくらだなんて、こんな可哀想な」
 別の返答をした。
「遺骨の事、よろしくお願いします」
「分かっているわ。うちのお墓に入れますからね。それじゃあね。元気でね」
 10分にも満たない来訪だった。
 ゲヘナから、メフィストが姿を現した。
「その目、元通りに見えるようにできるんやで? ほんまにええの?」
 納は片目だけで正面から見た。
「いいんだ。これは信じるべきでないものを信じた証だから。僕の間違いの証だから。こうして刻み込んでおく」
 はー、とメフェイストはまたため息を吐いた。
 まったくこの子は、と呟いて頭を掻く。
 そしてそのまま台所に向かった。
「うわ、トースターもあらへんやん」
 立ったままの納にウインクして。
「ちょっとまっとり。こっち見たらあかんで」
 軽い卵を割る音、かき混ぜる音、こうばしい香り。
「はい、お待たせー」
 目の前に置かれたのは、フレンチトーストが二枚。ウインナーと目玉焼き。思わず腹がきゅうと鳴る。
「食べてもいいの?」
「ええよ、遅い朝ごはん。君はもっと肉つけなー。どんどん食べ。食べさせるために買うてきたんやから」
「いただきます……」
 納はフレンチトーストにかぶりついた。
「おいしい……」
 ウインナーと目玉焼きをつぎつぎたいらげる。
 フレンチトーストの優しい甘さ。
 ウインナーの歯ごたえ。
 目玉焼のカリッとした焦げ目。
 ふいに、ぽろり、と涙が零れた。
 メフェイストが顔を上げた。
「どうしたん」
「初めてなんだ……朝ごはんを食べるの……」
 メフェイストがにっこり笑う。ぐりぐりと頭をなでくり回す。
「朝は朝ごはんから始まるもんや。朝がやってきたんやで、納」

七竈納の出逢い結

 精神病院に来るのは二度目だ。
 最初は、小学生の頃。
 広汎性発達障害の診断に、父親は二度と病院に連れて来なくなり。
「お前は普通の子だ」が口癖になった。
 白とベージュで固められた病棟を歩く。
「なあ、メフィスト」
 納は問いかける。
「僕ら、前に逢った事がないかな?」
 返事は無い。メフィストはゲヘナに潜ったっきりだ。
 ゲヘナから現世には、声をかける程度の干渉すらできない。
 納は学ランの前を軽くひっぱる。
 相変わらず、第一ホックまできっちり締められている。
 面会室の透明なドアから、患者たちの写真が見える。
 ひなまつりの写真。
 折り紙でお雛様を折る患者の写真。
 どれが母親なのかは――。
 わからなかった。
 透明な扉の向こう。
 小さな女が見えた。
 誰かはわからなかった。
 ただ、看護師が乱れた服を懸命に整えていた。
 表情は欠けている女だ。
 扉が開いて、それが母だとわかった。
 看護師が優しく告げた。
「面会を終えられたら、こちらに声をかけてください。何かあったら何でもいいので、ナースコールを押してくださいね。ほら、座って、関さん」
 彼女は目の前に座った。
 精神に疾患があるもの特有の、荒い息遣いをしていた。
 ひどく、耳障りにそのブフー、ブフー、という息が聞こえた。
 記憶にある母とは、まるで違っていた。
 記憶にある母は、常に幻聴に怒鳴り散らしているか、父親に怒鳴られて小さくなっているかだったからだ。
 目の前の女性は、ただ、荒い息を吐き散らしているだけで、何も喋ろうとしなかった。
 納は言った。
「七竈納です」
 母はオウムのように返答した。
「関真耶子(せきまやこ)です」
 ただの名前の確認をするように。薬を飲む時の看護師との点検のように。
「僕は、あなたの息子です」
 納は息を止めるように切り出した。
 真耶子は、初めて表情を見せた。
 へらり、と笑って。
「知らん。忘れた」
 納は本当に息を止めた。
 しかし、それでも続けた。
「僕の父は、死にました。自殺でした」
「ふうん」
 真耶子は椅子から下りると、フローリングに床にごろりと寝そべった。
 こちらには、尻を向けて。
「今は大事な話をしてるんです」
 ぐうたらと寝そべったまま、真耶子は言った。
「なんでもな、憑き物が全部したんや」
 真耶子の関西なまりを聞いて、彼女の出身を思い出した。
「憑き物が全部するんや。あいつらは無茶苦茶しよるんや」
 納はナースコールを押した。

 

 医師は初老の男性だった。
 白いものが混じった髪を丁寧に整えている。
「お母さんの、説明をして大丈夫ですか?」
 固い声を無理やり柔らかくしたような口調だった。
「大丈夫です」
「ええと、まず……」
 医師はカルテを見た。
「お母さんの病名は統合失調症です。それから、ごく重要なことをお伝えします」
 す、と納を見た。
「お母さんは、常にあなたのことを忘れている訳ではありません。ただ、時折、考えられなくなってしまうんです。あなたの記憶を、考えられなくなってしまうんです」
 納は俯いて問うた。
「母は、ずっとああなんですか?」
 医師は一瞬黙った。
 逆に問い返した。
「お母さんの症状はいつからだか、ご存じですか?」
 納は医師と目を合わせた。
「僕の記憶にある限りでは、ずっと怒鳴ったり泣いたりしていました。何もない空間に向かって。七歳の時、夜中に突然家からいなくなりました。警察が来て、翌朝、父が言いました。「お母さんは、「今からあなたは死になさい」って声を聞いて出て行ったんだ。警察が見つけてくれて、今は病院にいる」と。それから会っていません。ただ、父が「家事をやらない」と離婚したのは覚えています」
 医師は納得したように頷いた。
「お母さんが病院にかかったのは、去年からです」
 納は思わず大声を出した。
「なぜですか! あんなに悪かったのに、なんでずっと病院に行っていないんです!」
 そして、口を噤んだ。
「……すみません」
 医師は「気にすることないよ」と少し砕けた口調になった。
 そして口調を戻した。
「あなたには少し難しい話かもしれませんが、病人の中には、自分が病気であることを認めたくない人もいます。特に、精神科の方は多いです」
「僕にはわかりません」
 納は言った。
「認めなければ、病気と闘えないじゃありませんか」
 医師は頷いた。
「あなたは、そうなのです。あなたは、闘える人なのです。逆境も、ハンディも、非人情な世界も、乗り越えるために闘える人なのです。あなたは強い人です。剛毅と言っていい。だけど、世界中が剛毅な人という訳ではないのです」
 医師は一笑した。
「強くおありなさい。若く、幼く、美しいあなた。たくさんのものと闘いなさい。そして、いつかここに来る気になったら、いつでもおいでなさい。ここは弱い人ばかりです。いつでもおいでなさい」
 納は、深々と一礼した。
「ありがとうございます」
 去り際に、医師はそっと言った。
「あなたにできるアドバイスはこの程度です。私も大した人間じゃないから。ただ、これだけは私の経験からの絶対の法則としてお伝えします」
「何ですか?」
「宗教だけは信じてはいけませんよ。あれは決して人を救いません。麻薬です」

 

 納が病院を出ると、門の前で待ち構えていたかのように、新興宗教の信者たちが祝詞まがいのものを唱えていた。
「ああ、こういうことか」
 納は吐き捨てるように言った。
「まったく、麻薬とはよう言うたもんや」
「メフィスト!」
 ひょいっとメフェイストが黒いゴシック調のドレス姿を現した。
「さあさあ、これからどないするかやな」
 にこにことしているメフィストに、納は言った。
「どうしようもないよ。母さんの着ている服、新品だっただろう? 病院服じゃなかっただろう?」
「せやな」
「つまり、母さんの世話をする誰かが存在しているけど、僕には関わりたくないってことだ。働くしかないんだよ。当たり前のことだ」
 メフェイストはにこにこからけらけらに変わった。
「歳を取らないその体で? マトモな仕事ができると?」
「マトモじゃない仕事をするしかない」
 その返答に、がばっとメフェイストは後ろから納を抱きしめた。
「な、何だよ」
「マトモじゃない仕事、あるでえ。住み込みで三食保証。ただし、命の保証はない」
 被っていたシルクハットを片手に持つ。
「日本の掃き溜め、十三番町にて、メフィスト・フェレスの使いとなる! 人間、人外を問わず、ありとあらゆるアウトサイダーと交流、商売、戦闘し、十三番街の支配者、鉄の女王たる悪魔、メフィスト・フェレスを守るべし!」
 納は暫し沈黙したが、すぐに問い返した。
「行くあてがあるってこと?」
「ポジティブに考えればそうやな」
「なんでそこまでしてくれるの?」
 メフェイストは大笑した。
「君がそれを聞くんか? 他人一人助けるために、人生を棒に振った君が? それよりは理由を明確に答えられるわ。契約を結んだから、君は私の下僕(しもべ)であり、私は君の下僕だからや!」

 


十三番街の驚き

「納、この街を回って気付いたことは?」
「ホームレスが多い。ゴミが多い。選挙ポスターがない。交番がない。それから」
「それから?」
「神社や寺が一つもない」
「パーフェクト。ここが私が元締めをやっている街や。まあ、全うな道から落っこちたり、わざと跳び下りたりした連中が集まってる」

 

 ぎらぎら光るネオン看板。
 十三番街、と猥雑に記されている。
 昼間の酒場は静かだ。
 昼間から酒を飲んでいる男達はいるが。
 彼らは静かに将棋を指しながら飲んでいる。
「メフィスト、何その子、うちで働かせるの?」
 ラテン系のスーツ姿男が言う。骨格がしっかりした美男子だ。
「綺麗な子だけどさ。それだけ身長があるならもっと肉がついてないとウケが悪いよ。お稚児趣味の客はもっと小さい子が好みだし」
「誰がそんなん言うた」
 戸惑う納の隣で、メフィストが怒りの口調で返す。
「違うの? せっかく綺麗な子だから、育てようと思えばイケるんだけど」
「えっと……どういう意味ですか……?」
 美男子がひらりと手を振る。
 メフェイストが仕方なさそうに答える。
「この男はコルメガ言うてな。シチリアマフィアの幹部や。この十三番街には、そんな連中が森の中の蜂ほどいる。で、こいつの専門は売春と違法アダルトビデオ、いうわけや」
「えっ」
 絶句する納に、コルメガは酒を口元に運びながら言う。
「売り物じゃないんなら何もしないよ。君が何もしなければ、と過程すれば」
 相手をしている男は、大きなサングラスにマフラー。恰幅のいい、映画にでも出て来そうな壮年のヤクザだ。
 銀をどこに動かそうかと思案しながら。
「メフィスト姐さんに若いツバメの趣味があるとは知らなかったねえ」
と軽口を叩く。
「違うわ!」
「なんだい。俺にはなも引っかけないからそういう趣味だと思ったんだが」
「あ、ああ、そこに置いちゃう? 少年、ちょっとこの状況を打開する案はないかな?」
「僕は将棋は知らないので……」
「ジャップのくせに。まあいいや。キリストの加護がありますよう、に!」
「ほい、王手」
「あー! 勘弁してよキリストさん!」
 頭を抱えるコルメガ。悠々と壮年の男は携帯電話を取り出し。
「やれ」
 と一言告げる。
 その瞬間。
 酒場の裏から銃声が響く。
 ぽかんとしている納を無視して、カウンターからバーテンが飛び出して来る。
「おどれら! また賭け将棋しよったな! 今度うちの店の前に死体転がしといたら、メタノールぐでんぐでんになるまで飲ませたる言うたやないけ!」
「安心しろキム、死体ならすぐに片づける。それより灰皿取り換えてくれ」
 煙草を咥え、火を点ける。
「姐さんもいるかね?」
「頼むわ」
 メフェイストもゲヘナに手を突っ込むと、中から煙管を取り出し、壮年のヤクザに差し出す。
 それにライターを近づけてやると、彼は問うた。
「びっくりしたかい、坊っちゃん」
「えっと……何をやってるんですか?」
 煙草の煙を吐き出す。
「うちのシマでね、勝手にしつこい客引きをしやがったポン引きがいてな。そいつを引っ立てて行ったら、このコルメガんところの三下だったんだよ」
「で、僕が勝ったら、生かして返して貰えるはずだっただけさ。まあ死んじゃったけどね」
「まあ、奇蹟の中の奇蹟は今回も起こらなかったって訳さ」
「そんなイプセンみたいなことを……」
「おや、イプセンを読んでんのか坊ちゃん。見どころがあるね。俺は中津礼二ってんだ。篠織会の組長付をやってる。まあ、ササオリカイっつっても知らねえわな。要するに、若いもんに面倒なことをやらせて自分はぶらぶらしてる結構な身分だよ。お前さんの名前は?」
 ようやく、名乗る。
「七竈納です」
「七竈、か。その実は赤く美しいも、鳥は忌避し、七回竈にくべても燃えない。いい苗字だな。下の名前はちと凡庸だが」
 納は
 この現実すらも、受け入れている。
「で、どうするんだね、こいつ」
「学ランなんて着ちゃってさ」
 にい、とメフェイストは笑う。
「鍛える」
「きたえるゥ?」
 メフェイストは煙管を高く上げる。
「こいつは強い。精神が強い。阿修羅のように、怪物のように、強い。だから、体も強くする。そして、私の荒事部門に置く」
 初めて、男達が唖然とする。
「不撓不屈のその魂、私のために使ってくれ、納」
 納は頷く。
「わかった、メフィスト」
 とん、と煙管の灰を灰皿に落とす。
「で、例の話や。中津」
「ああ」
 中津が驚きから帰ってくる。
 懐から写真を取り出す。
 デジカメプリントの写真の中に、ボロボロの野良着で田植えをする百姓が写っている。
「薔薇菩薩村。ここは確かに、昭和二十八年を繰り返している。現代のこの世で、この村だけが昭和二十八年だ」
 にたり、メフィストが笑う。
「よし、納。初仕事や。薔薇菩薩村に行くで」

 


妙高蛍の出逢い1

 蛍はカレンダーを見る。
 ガリ版刷りのそれは、昭和二十八年四月と誇らしげに示している。
 その前は昭和二十八年三月だった。その前は昭和二十八年二月だった。その前は昭和二十八年一月だった。その前は昭和二十七年十二月だった。
 この村には空襲はこなかったが、蛍は八歳の八月に玉音放送を聞いた。
 この春、村は祭りの支度にと紙の花作りに忙しい。
 なのに。
 掌の中の、小さな箱状のものは、こんな事を言う女の姿を映していた。
「新入社員が平成生まればかりになりましたが、昭和世代との意識の差はあるのか!? ここ、渋谷にてご意見を覗ってみました!」
「なに……これ……」
 蛍は口元に手をおし当てた。心臓がばくばくと鳴った。吐き気がこみ上げてきた。
 土間から駆け出し、田んぼの端で吐いた。
「意味わかんねえ……」
 野良着の五十がらみの男が慌てて駆け寄ってくる。
「ホォたる様! どないしなさっただね!」
 この男は村では二人いる三郎であることと、蛍を呼ぶときにみょうに伸ばしてホォたる様と発音するので「ホォちゃん」と呼ばれている。
 野良着は擦り切れ、もう何年も買い換えていないことがわかる。
「ホォちゃん!」
 蛍はホォちゃんの胸元に縋るように掴む。
「俺にさ……隠してることない……?」
 ホォちゃんはにっこと笑った。
「蛍様もそんなお歳になったんだね」
「は……?」
 にこにことほたるの長く伸ばした髪を撫でる。
「もう十六だもの。大人のいう事なんか嘘ばっかりに思えるでね。おらもそうだったよ。なんつったかなー、しーしー、ああ、思春期っつたかなあ」
「思春期……?」
「誰でもそうなんだあ。気にするこたあねえ」
 のっぽのホォちゃんは、蛍の頭を二度撫でると、「ああ、福をもらった」と言って去って行った。

 

 北陸新幹線の中。
「次で乗り換えや」
 窓際の席のメフェイストは、膝に置いていたシルクハットをかぶった。
「随分と山の中だな」
「こっから更に山の中に電車で行って、それから更に山深くバスで行って、それからはたぶん歩く」
「わかった」
 納は手元の文庫本を閉じた。文庫の表紙には「蜜のあわれ 室生犀星」の表記。
「だけどメフィスト、地図に存在しない村、なんて存在できるのか?」
 メフェイストは細い指を顎にあてる。
「法律上は不可能。心理的には可能や」
「どういう意味?」
「たとえばな、あるところにA村とB村があって、それが合併してC町、という町ができたとする」
「うん」
「法律的には、もうA村もB村もあらへんわな」
「うん」
「だけど、住んでるもんが、C町の中で「お前さん、どこに行くねん」って聞かれた時、「ナカニシの家や」「どっちのナカニシや」「A村の郵便局の前の方のナカニシや」って言い方をするのは誰も止められへんわな。行政上も法律上もA村は存在せえへんが、人々の意識の中にはきっちりA村は存在する。これが心理的に存在するいうことや」
「なるほど。薔薇菩薩村もそういうことか」
「せや。市町村合併の際、A市の一部となっている」
「だけど、住んでいる人はずっと薔薇菩薩村に住んでいる、という心理で生活している訳か」
「せや。せやけど、奇妙なことに、昭和二十八年の合併以降、薔薇菩薩村は周囲の行政等とのかかわりを一切絶っている。電話、ガス、水道の配線も断り、電気も町長が村全体の分を月に一度、まとめて振り込みに来る」
「なるほど。奇妙だね」
「なおも奇妙なことがある。昭和二十八年以降、薔薇菩薩村で出生した人間はいないことになっている」
「……それだと、老人しかいないはずだ」
「ああ、だが、電気代を払いに来る町長はどう見ても五十代後半らしいわ」
「おかしい」
「出生しても届けを出してない。まあでも、村民の現金収入はどうしたかて生存している、とされている老人の年金にかかってくるわな」
「うん」
「そんなん、後三十年も経たへん内に死んでまう年齢やろ。しかし、昭和二十八年以降に生まれた人間は出生届が出てへん。現金収入どないする?」
 納は車内のアナウンスの中、答える。
「不正受給か」
「将来あると見込まれる多額の不正受給。これを阻止するために、お鉢が回ってきたわけや」
「メフィストは行政の仕事をしているのか?」
「うん? 行政っちゃ行政やけどな。政府の表ざたにできない仕事をやるのが基本や。悪魔殺しとかな」
「僕はそれを手伝えばいい?」
 メフェイストはぐっと身を乗り出し、納の顔を見つめた。
「手足となって、刃を振るえばいい」

 

 蛍は村長(むらおさ)の家に上がった。
 フランネルのシャツの裾をズボンに仕舞、正座する。
「なあ、村長様」
「なんじゃい。こんな夜中に」
「昔はこの村にも若い人がいっぱいいたんだよね?」
 後二年で還暦、が口癖の村長は目を細めた。
「戦争でなあ、みんな軍隊に行ってしもうてなあ……。蛍様は覚えとらんじゃろうなあ」
 ランプの灯がゆらゆら揺れた。
「じゃあさ、なんで女もいないの?」
「おんなじじゃ。若い娘も村を出て、工場へ働きに行かされてな。全員空襲で死んでもうた」
「子供は、子どもは一人もいないのはなんで?」
「今日の蛍様は知りたがりじゃのう。村の小学校にはな、弟妹を子守しながら通っとったんじゃが……。そこにだけ焼夷弾が落ちてな。全員亡うなってしもた。蛍様はお家にいたからの」
「じゃあ……じゃあさ……母さんは……なんで突然死んだの?」
「去年のことか」
 悲しげに村長は紙たばこを巻き始めた。
「突然じゃと思ったのは蛍様が幼かったからよ。いや、わしらも気づかんかったじゃがのう。母様は病にかかっちょったが、誰も気づかんかったんじゃよ。本人もな」
「じゃあさ……最後にさ」
「なんじゃあ」
「母さんが俺に言ったんだ……死ぬ前に。「あたし東京のギャルだったんだよね」って。あれ……どういう意味?」
 村長はかっと目を見開いた。
 しかし、すぐに元の悲しげな目に戻った。
「かわいそうに気付いてやれなんだわ」
「どういうこと?」
「病じゃ。病でうわ言を言うたんじゃ。母様は村の娘じゃ。神様の子を孕んだ……村の娘じゃ」
「ねえ……俺ってさ……」
 ランプの灯が揺らめいた。
「ホントに神様なの……?」
 灯りが消えた。
 村長はただ黙っていた。
 真っ暗闇だった。
「ごめん、俺、帰るね」
 一人で住む小さな家。
 壁土と床の隙間が少しだけ剥がれるようになっている。
 その隙間から取り出す。
「母さん……この……テレビっていうの……いったい何?」
 遠くからフクロウの声が聞こえた。

 


妙高蛍の出逢い2

 夜更け。
 眠れずに何度も寝返りを打つ。
 フクロウの声が土壁に反響する。
 布団の繕った痕を撫でる。
 お春婆さんが縫ってくれたんだったっけ……。
 優しく微笑む老婆の顔が浮かぶ。
 その時。
 ぎい……。
 扉が開く音。
 がさがさと紙のこすれる音。
 蛍は息を殺す。
 真っ暗な中、誰かが部屋に入って来ている。
 それは何か紙束をたたきに置いて。
 またそっと出て行こうとした。
「ちょっと!」
「えっ」
 声は低い。男だ。
 蛍は布団から飛び出すと、その誰かに向かってタックルをかます。
「うわっ」
 足を崩され、相手はあっさりと転倒する。
 その隙に、電球をつける。
 土間には、少年が尻もちをついていた。
 しかも頭までどこかにぶつけたらしく、痛そうに押さえている。
 詰襟を一番上まで閉めた、細身の少年だ。
 背は高い。天井に頭がつかえそうなくらい。
 眼鏡をかけている。その左目に、ガーゼの眼帯をしている。
 見たことがない少年だ。
 いや、蛍は。
 少年と云う者を見たことがない。
「え……ちょ……お前……」
 少年は気まずそうに顔を上げる。
「危害を加えるつもりはないんだ……届け物があっ」
「イッケメエン!」
「えっ……」
 蛍は少年の顔をがしっと掴み、自分に近づけてまくしたてた。
「え、なにこの目力つよっ! 完璧なアーモンド形の目な上に目、デカッ! 鼻、高ッ! 唇ぷるっぷるだし、肌すげえつやつやじゃん! しかも何これ、体のほとんど足じゃんお前、八頭身ってヤツ? イケメーン」
「あ、え、あ、あの、ええと」
 少年が顔を赤くする。
「僕は容姿が整っているほうじゃないよ……。むしろ君の方が、中性的で美しいと思う。目だって君の方が丸みが強くて好感を持てるよ」
「そんな返しをしてくる訳!? この状況で!? 完全に泥棒なのに!? お前……マジ……」
 冷静な真顔に返る。
「トロくね?」
 あっという顔に僅かに変化した少年に、つづけさまに言う。
「人を呼ばれたらとか考えなかったの? そもそも顔を見られた地点で割とアウトじゃね? 俺を褒め返してる場合じゃないでしょ? とっとと逃げる場合でしょ? 牛の一種かお前は」
「えっ、あっ、その……」
「今から大声出してもいいんだけど?」
「あ……ええと……それは困るなあ」
「何ぼけっとした返事してんだよ! どんくさい泥棒だなあ! 言っとくけど金なんてねえから! 村中どこにもねえから!」
「あ……いや……泥棒じゃないよ……」
「じゃあ何!?」
 少年はしばし思考した後。
「……何だろう?」
 笑いもせずに言った。
「トロすぎるだろ!」
 思わず枕を蹴っ飛ばす。
「自分が何者かもわかんないってどういうこと!? 何しに来たのお前!? 名前言え!」
「七竈……納です」
「ふうんヘンな名前、で、何しに来たんだよ!? つーか……」
 膝の力が抜ける。
「”外”ってどうなってんの……?」
 納は土間の紙束を集めた。
「よかった。知りたいと思っていてくれて」
「はあ?」
 集めた紙束を渡される。
「これを渡したかったんだ。村の外で発行されている新聞。読んだら焼き捨てて」
「新……聞……」
「それじゃあ」
 新聞に気を取られた隙をつかれた。
 納は抜け出し、小屋を走り出て行った。
「なんだよ……あいつ……」
 新聞をぐしゃりと握りしめる。
「なんで……写真に色がついてんだよ……」
 返答はなかった。フクロウの声だけが響いていた。

 

 八時間前。
 山を登ろうとしたメフィストと納は、鋭い叱責を浴びた。
「薔薇菩薩に近づいたらいかん!」
 朽ち果ててもう名ばかりとなった登山道の下、腰の曲がった老婆がいる。
 老婆は怒りに体を震わせて、もう一度「いかん!」と怒鳴る。
 メフェイストは登りかけた足をくるりと引き換えし、笑みを作る。
「おや、なんぞ危ないことでもあるんですか?」
 老婆はブツブツと何事か呟き続けたが、いきなりかっと目を開いた。
「あそこは畜生村じゃ!」
 メフェイストは営業用の笑顔を続ける。
「へえ、それは知らへんかったわ。すんませんけど、ようお話を聞かせて貰えますか? なんせ、ここに来てからというもの、誰もかれも知らん知らん言うばっかりでようわからんのですわ」
 笑顔ですたすたと老婆に近寄るのに、納も続く。
 老婆はまたブツブツと口の中で何かを呟いている。
「あそこはな……あそこはな……血の濃いものどうして子を作る事を、何百年もしておる……」
「ほう」
 メフェイストの笑みが深くなる。
「じゃから、不具や病人が多い、ごっそりおる。そいでな、村中そういうもんばっかりになってくるとな」
 向こうから女の声が聞こえた。どうやらこの老婆を探しているようだ。
「女を……孕んだ女を……」
 その先は口の中にのみこんでしまう。
「それは物騒やなあ。奥さん、どうやら奥さんのことを探してはるみたいですし。ゆっくり話を聞かせて貰えませんやろか」
 メフェイストはあくまでも笑っていた。
 これから語られるおぞましい村の話を予期しているように。