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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

僕が先生と呼ぶ尊敬できない人

「ふうん、納ちゃん京都に行っちゃうんだあ」
 先生は缶コーヒーを灰皿代わりにしながら、にやにやと笑った。
 納は彼を先生と呼ぶ、先生は自分をウィルヘルミナと名乗る。偽名だ。ペンネームでもない。だから先生と呼ぶ。
「別に一時的に行くだけだよ。鍛えて貰うだけ。また帰ってくるよ」
「帰ってくるなんて宣誓するほど遠くないぜ。夜行バスを駆使すれば日帰りできる。よくやってる」
 納はため息を吐く。
「先生出席日数大丈夫なの? 卒業できる?」
 先生は二本目の煙草に火を点ける。
「ああ、最近迷ってるんだよ」
「大学行きたくなったの?」
「納ちゃんは次元の高い両親の元に育ったんだなあ。逆逆。高校卒業したら仕送りも終了して縁切りって約束だったんだけどさ。わざと留年したらもう一年固定収入があるんだなあって。だけど、留年した地点で縁切りされちゃうと留年損だからさ。悩んでるんだよ」
 先生は無精ひげをさする。好きで伸ばしているわけではない。借金のカタに納がシェーバーを奪い取って売りとばしたのだ。
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃんか。昔の彼女? まあそんなカンジの思い出ないの?」
「ないよ」
 あっさりと納は答える。
「ん? 納ちゃん関西の生まれでしょ?」

 納は首をひねる。
「たぶん、生まれは関西だろうけど……記憶と呼べるようなものができる歳には関東以外行ったことないと思うよ」
「曖昧だなあ」
「どこに住んでたのかわかんない時期があるんだもん。親が関西出身だけど、小学校入学前に関西離れてるし」
「ふうん。なんで?」
「父親がね、飲酒運転で交通事故起こしたんだよ。それで関西にいられなくなった」
「ヤクザの車にでもぶつけたの?」
「いや、ガードレール。だけど、その頃父親は何年も休職中とはいえ、小学校の教諭だったからね。地方のニュースで実名が報道された。それで関西に住めなくなったらしい」
「そんなニュース覚えてる人いるかねえ」
「珍しい名字だからね。しょうがない」
 七竃 ななかまど。 七回焼いても実が残る植物。
「まあ、小さかったからよく覚えてない。小学校一年生の四月に東京の学校に転入ってなってたから。なんかそうとうゴタゴタしたんじゃないかな」
「なってたって何が」
「当時の通知表が」
「ああ、なるほど。そこまでは物心ついてないんだ」
「その後もちゃんとついてたか怪しいけどね」

 はっきりした記憶。一人で怒鳴り続け、往来を徘徊する母を保護したという警察からの電話。
 そしてそれを聞いた父親の絶叫。
「なんでうちはこんなことばっかりやねん!」
 先生は納得する。
「アクセントがさ、納ちゃんは時々関西なんだよ。そういう訳ね」
「そういう訳だよ」
 意識しないでするオウム返しを、先生は妙に気に入っている。
「あ、でも、小学校三年生の時に京都はちょっと住んでたなあ」
「へえ、いた? 昔の女」
「無茶な期待しないでよ。そんなことわかる歳じゃない。男の子と遊んでたことしか覚えてない」
「今はわかるの?」
 先生はまたにやにやした。
「恋愛、恋情、エロス、劣情、まあどんな言葉でもいいけど、今はわかんのかい? 納ちゃん」
 納はぷいと横を向く。
「別に困ってないもん」
 あー、と先生は床に寝そべる。

「納ちゃんが女の子だったら良かったのに」
「怒るよ」
 大の字になろうとしているらしいが、折り畳み式のちゃぶ台が邪魔でTみたいな姿勢の先生はぼやく。
「恋をまだ知らないのに、身長ばっかり伸びたお人形みたいな女の子を、言葉巧みにレイプしたい」
「ただの犯罪じゃない」
 先生は自分の腕を枕にする。
「ただの犯罪だよ。だから、やらないで生きていられるこの街に感謝してる」

 

 

 蛍がこの街に来てすぐで、ユキが来る前。まだ4月が終わっていない頃。つまり納もこの街に来たばかりの頃。
 へんな人がいた。
 その時の納はまだ自分の口調が幼い少女めいたところがあるのを気にしていたので、脳内でもう少し表現を変えようと試みた。
 奇妙な男? 異様な若い男?
「あ、メフィストさんとこの子よね? もー、助けてよ! へんな人が仕事の邪魔するの!」
 へんな人でいいのか。へんな人がいた。
 長袖のTシャツにパーカー、キャップ、染めているに違いない茶髪、ジーンズ、全てが安物尽くしの若い男がしゃがんでいた。
 メモ帳に何か熱心に書き込んでいる。しゃがんでいる先には死体がある。潰れた頭の横にはコールタールのへこんだ缶。僅かに零れたコールタールが血と混じっている。
 困っている人は助ける。特に女性なら。
「何してるんですか?」
 若い男は振り向いた。眼鏡が洒落ているのに安物らしいデザインだ。こちらを見ると、やけになれなれしい口調になった。
「神様ありがとう。高校生だよな? 何か書くものもってない?」
「今、書いてるでしょ」
「ボールペンのインクの限界がきてるんだよ。さっきの婆さんは持ってないって言うしさ」
「いや、そうじゃなくて、何してるの」
「せっかく変死体があるから、状態をメモにして記録してるんだけど」

 頭が潰れた女の死体。中年の女。だけど妊娠しているらしい。過去形。胎児も死んでいるだろう。
「……楽しいの?」
 若い男は笑い声を上げる。
「まさか。一ミリも楽しくない。だけど、楽しくないことを集めて楽しいことができる。わかる?」
「……それより、いくら払える?」
「ん?」
 若い男は財布を取り出す。ルイヴィトンの長財布。こんなところに高級品。
「五千円がギリかな」
「オードリーさん、五千円だって」
 婆さんと呼ばれた女性、オードリーさんはふうんと言う。
「一時間くらいなら好きにしていいわよ」
「オウイエス、話がわかる婆さんだったぜ。で、なんで婆さんに俺が五千円払うんだ?」
 納が代わりに答える。変質者の疑いがある人を、女性に近づけてはいけない。
「この人が死体を回収するのが仕事の人だから」
 オードリーさんはバンと背中を叩く。
「そっちは副業だってば。あたしの本業は援助交際なんだって」

 若い男は納得する。
「ああ、オードリーって源氏名みたいなモンなんだ。道理で色っぽいわけだわ」
 皺だらけの五千円が渡される。
「あら、ありがと。一時間半にサービスしてあげる」
「いやいや、こっちこそご無礼働いて申し訳ない。連絡先交換していい?」
「ナンパ?」
「玄人さんをタダでナンパしない。常識っしょ」
 二人はスマホで連絡先を交換する。
「じゃあ、一時間半経ったらまた来るから」
「オーケー。俺は時間にはうるさい男さ」
 オードリーさんが去る。
 若い男は
「で、お兄さん、なんか書く物持ってない?」
 と問う。
 仕方なくカバンを探ってシャープペンシルを渡す。
 若い男はまたメモを取り始める。

「お兄さん? 君? お前? まあ、とにかく名前は?」
 唐突に聞かれる。
「七竈納」
「お、初めて聞く名字だ。レア枠だ。霊験が落ちないように納ちゃんと呼ぼう」
 とにかくなれなれしい。
「そっちの名前は」
「……」
 なぜか沈黙。
「ウィルヘルミナ」
「露骨な嘘を吐かないでよ」
「好きで吐いてんじゃないぞ。心外だな。カノジョがそう名乗ってくれって言うから名乗ってるに過ぎない」
「変わった彼女さんだね」
「うん。まあでも、いい女だし」
 淡々と春の昼は流れる。
 メモを覗く。
 絵は一切ない。

 ただ死体がどういう状態か克明にメモしている。
「おいおい、人が書いてるもの見ちゃダメだぞ」
「ごめんなさい」
「許そう」
「それ何に使うの?」
「小説の資料に」
 納はしばし考える。
「潜入ルポみたいなのは困るんだけど」
「大丈夫大丈夫。俺がそんなモン書くと干されるから。一応現役高校生小説家で売ってるから」
 ……。
「綿矢」
「シャラップ」
 黙る。
「納ちゃん。芥川賞なんてのはな、ヘタに狙っていると口に出しちゃいかんのだ。取れずに死ぬと「あの人結局取れなかったね」って話題になっちゃうだろ。そんな未来想像すると悲しいだろ。悲しい気持ちにわざわざなってどうする」
「まあ、とにかく先生なんだ」
「うん、まあ先生ということにしておこう。世界平和のために」

「で、先生。未成年にこんなとこいられると困るんだけど」
「オウ、アメージング。先生という言葉に一ミリも敬意が籠っていない。そして学ランでその注意を言う。っていうか、俺ここに住みたいんだけど」
「道?」
「室内希望」
「いくら持ってる?」
「130円」
「さっきの五千円は?」
「最後のお札」
「道で」
「いや、電気とネット環境がないと困る。原稿を出版社に送れない」
 ため息。
「お金に換えられそうな物無いの?」
「エメラルドの指輪持ってるけど」
「本物じゃないとダメだけど」
「本物本物。ちょっと黙って。やっと腐敗っぽくなってきたのに、後30分しかない」
 一時間半後、さっきと違って全身を宇宙服みたいな装備でくるんだオードリーさんに挨拶する。

 先生は使い捨てライターを取り出すと、メモに火を点けた。
「せっかく書いたのに」
 先生は燃えていくメモを見ながら笑った。
「ああ、書いて頭の中を整理してただけだから。この紙はあると邪魔なんだ」
「内容忘れないの?」
「忘れる」
 灰を愛おしげに散らせる。
「忘れなかったものだけが、書くに値するものだよ」

 

 十三番街の支配者にして、最上級悪魔にして、【鉄の女王】の階級のメフィスト・フェレスはビール片手に手を振った。
「親と喧嘩したかなんか知らんけど、親が正しいから帰って謝りなさい」
「おいおい、メフィストさん。話も聞かずにそれはないじゃないか」
「道端の死体のメモを丹念に取ってる息子が、どうやって親が悪いっていう展開に持ってくねん。っていうか納、へんな人うちに連れて来たりはもちろん、話しかけたらアカンよ」
 先生はふっと恰好をつけた笑みを浮かべた。
「甘い甘い。読みが甘いぜ。メフィストさん。まず俺は親と喧嘩して家出なぞしていない。純粋に親と不仲になったので、高校進学と同時に別居してくれと親に頭を下げられたんだ」
「不仲いうレベルかそれ。気味悪がられてないか。じゃあ、なんでこんなとこ住みたいの」
「俺に才能がないから」
 ……。
「メフィスト、この街のお医者さんは管轄外の人だと思うよ」
「いや、筋弛緩剤でも打って貰って、その間に警察に捨ててこようと」
「まってまってスマホしまってマジで。話せば長いからさ」
「私の休憩時間はこのビール飲み終わるまでやから、長い話聞く気ないわ」
「オーケー、大丈夫。ニーズに合わせて短く言うわ」
「大成しなさそうな子やなあ」
「まあ、否定しない。まず把握してほしいのは、俺には小説家の才能がない」

「チェーホフも似たようなこと言ってたね」
「納ちゃん、無自覚にハードルを上げないでくれるかな。まあ、とにかく、小説家の才能ってのはアンテナだ。才能があるってのは小さな刺激でもアンテナが反応する。心が動く。ネタになる」
「ふうん」
「で、俺はそのアンテナが鈍い。錆びてる上に蜘蛛の巣とか鳥の巣とかありそうなレベルに鈍い。こういうヤツが心を動かそうとすると、デカい刺激が必要になる。普通の日常生活にデカい刺激が溢れてるか? 溢れてたらそれは普通の日常とは言い難いだろ? そうなると、自力でデカい刺激を起こすしかないだろ?」
 メフェイストはビールを一口飲む。
「要するに、自分が犯罪に走る前に、刺激を求めて新人作家が来たわけかね」
「あ、はい。そういうわけです」
「その才能論に自信はあるわけ?」
「ある程度の自信はあるけど、若さと熱意でカバーしてるカンジ」
「外れてたら?」
「ん? フツーに別の場所に引っ越すけど?」
「ちゃらんぽらんを絵に描いたような子やな。君、今からそんなんで将来どうすんねん」
「逆に聞きたい。将来をちゃんと考えているヤツは、きちんと通学しつつ進路に悩んでいる時期だろ。高三なんての春なんて」
「腹立つなこいつ。っていうかさ、書かないって選択肢はないの? 筆を折るまでいかんでも、趣味でやめとくみたいな」
 あー、と先生はへらへら笑った。
「プロでも趣味でもやること同じだから。原稿料貰える分プロがいいわ」

「筆を折る」
「それはない」
 笑顔を絶やさずに
「芸術の名作しか、世界に残るものはないから」
 メフェイストはビールの缶を脇に置く。
「名作を書く気やの?」
「当然でしょ」
「書く自信は?」
「自信がどうとかはどうでもいいんだ。名作を目指して書きつづけなきゃ生きていけない、そういう生き物なだけ」
 メフェイストは言った。
「三つ、条件がある」
 指を一つ。
「この街の内部を絶対に公開しない。全ての媒体で」
「大丈夫」
 二つ。
「君が死んでも死体は家族の元に帰らない。まあ、死体回収業の方の収入源になる」

「大丈夫」
 三つ。
「君がなんらかのトラブルに巻き込まれた際、バックに私がつくので毎月お金を払って貰う」
「いくらくらい?」
「君の収入を見てから毎月の最低金額を決め、そして何が起こったかの面倒具合で上乗せする」
「ああ、了解」
 メフェイストは納に命じる。
「手紙書くから、不動産のタナカさんにあっせん頼んで」

 


僕が先生と呼ぶ尊敬できない人結

 荷物を運び終わったウィルヘルミナ先生は、相変わらずのオーバーリアクションで言った。
「いやあ、驚いた。倒産したゲームセンターの地下室が貸し出されるとは」
「カジノとパチンコと雀荘があるのに、ゲームに誰も興味を持たなかったんだよ。一か月もたずに潰れた」
「上はどうすんの?」
「わかんない。正式な所有者がこないだ死んじゃったから。まだ遺産相続話がまとまってない」
「それ、地下は逆にいいわけ?」
「うん。作った業者がなんか勘違いして勝手に作った地下室だから。別にいらないって」
「ありがたいけど、いい加減な話だなあ」
「先生に言われたくないと思うよ。この建物の所有者が業者に怒鳴り込んだ時には夜逃げしてて、仕方なく逃げ遅れたバイトを怒鳴りまくってたら刺し殺されたんだ」
「バイトに?」
「バイトに」
「ふうん。それでこんな謎のワンルームができてんだ」
 壁一面が本棚になっているのが、更に謎感を出している。
「ダンボール開ける?」
「いーよいーよ、後は自分でなんとかなるモンばっかりだから。アクエリアスでも飲もう」
 床に500mlのペットボトルを置く。

 納は学ランを脱いで埃を払う。
「……納ちゃん。それで、学ラン脱がないの?」
「何の話?」
「ん? 違ったか、ごめんごめん」
「何の話なの?」
 やや詰めよるようにすると、先生はしまったなあというポーズをした。
「俺の実家って開業医なんだよ。小児科の。で、まあ、骨格関係の本とか置いてあったのね。でさ、納ちゃんの肩甲骨の形がさ、ちょっとヘンだなって」
「え? 知らなかった」
「だよなー。ごめん」
「どこ、どこがヘンなの」
「んー、こっち来てくれる?」
 先生の背を向けて座ると、先生は肩より背中に近い肩甲骨の一部をトントンと触る。
「ここ。なんかちょっと折れた後微妙にずれてくっついたカンジで、隆起してる」
「え、動く時とか困るの?」
「いや、困んないでしょ。完全にくっついてるもん。何より、困ったら自分で気づくでしょ。こうやってワイシャツの上から触んないとわかんないくらいのズレだし。ただ、ちっちゃい頃にからかわれたかなんかして気にしてんのかなと思っただけ。余計なこと言っちゃったな。ごめん」
「骨折なんてしたことないと思ってた」

「だよなあ。ホント余計なこと言っちゃったよ」
 納は不審げに振り返る。
「なんでそんなに気にするの?」
「え? そりゃあ、他人様の気付いてない体の特徴をわざわざ指摘なんて失礼でしょ」
「先生、何か誤魔化してる」
 ウィルヘルミナは言いにくそうな顔をする。
「えーとね、肩甲骨ってさ。スゴくデカくて丈夫な骨なんだよ。だから、赤ん坊でもない限り結構派手な事故に遭わないと折れないし、折れたら覚えてる。本人が忘れる歳でも親は言うよね。そんな派手な事故に遭ってたらね」
 納が息を呑む。
「で、まあ、そんな記憶に残らないほど小さい頃に肩甲骨折って、放置するとさ。こんなズレじゃすまないんだよ。だって痛いじゃん? ちっちゃい子なんて我慢できなくて自分で動くじゃん? もっとズレるじゃん?」
 ウィルヘルミナは納の表情をじっと見る。
「そうすると、残る可能性は一つしかない。まだ自力で身動きできない赤ん坊の頃に、強く掴みすぎたかなんかして折れて、痛みで泣いてるのを放置されてるうちに自然にくっついた」
 納の表情を観察する。ウィルヘルミナの顔は愉悦を浮かべている。

 

 高校を転校せずに引っ越せる面白い場所はないかと、色々探していた頃。おお、僅か一か月程度も経っていない。とウィルヘルミナはカレンダーの×をつけ直す。特に意味がある×ではない。何よりカレンダー自体数年前のものだ。要するに全部意味が無い。
 とにかく、この街に住みたいと思える人物と出逢った。
 街中に死体が転がっていて、今ではたまにティータイムなどに誘ってくださるミス・オードリーをうるせえ婆さんだと追い払おうとしていた時。
 ごく普通に学生服の彼がやってきた。
 彼を見た瞬間、ウィルヘルミナは思った。
 おお、ドールが生きてる。
 やたらでっかくて丸い瞳にバサバサの睫毛。黒髪。左目に医療用眼帯。眼鏡。体格と相まって、以前インターネットで見た大人用のバカ高いお人形を思い出したのだ。
 あの学生服の下は球体関節じゃないかと澁澤龍彦みたいなことを思ったが、そんなありきたりな感想はすぐ忘れた。
 この死体を作ったのはこいつだ。
 言い方を変えれば、この生きたドール少年が孕んだ中年の女の頭にタールの缶を叩きつけたのだ。
 カッターシャツの袖にタールが付着している段階で明白だし。
 何より。
 メフィストの元に向かう時にあっさり白状した。
 いや、白状ではない。
 苦情だ。
 あの女性を殺したのは自分であり、きちんと死体回収業者に連絡をしているので、あんな風に邪魔をされては困る。

 そういう苦情を、彼の端的になりがちな上、時折幼女めいた言葉づかいになる口調で受けたのである。
 殺害の動機を聞いてみるとき、彼があの腹の子の父親であるとか、あるいは腹の子の兄であるとか、そういう展開を期待したのは否定できない。むしろ大いにした。
 だが、そんなドラマチックな話ではなかった。
 メフェイストに月々の”代金”を払っている男が、水商売の女に子供ができたから養育費と慰謝料を払えとつきまとわれて助けを求めたのだ。
 その男の子どもでないことは確実。
 なぜなら彼はこの街に来る前に、女性専門の風俗店で働いており、パイプカットをしていたのである。
 普通に、メフィストは自分の下僕(しもべ)たる納(これにもエロチックなことを想像したが、別にそんなことはないらしい)に手段は問わないのでこの男の前に姿を見せないように指示し。
 普通に、納は「お金を受け取るまで帰りそうになかったから殺した」のだ。
 いかな幻想的な狂気が繰り広げられたのかと思えば、おつかいも同様の殺人であった。
 だが、着眼点にすべきはそこではない。
 生きたドール少年が「もー、ホントに困るんだよぅ」などとウィルヘルミナにぺらぺら話すからには。
 この七竃納はウィルヘルミナが他人に漏らすそぶりをすれば、即座にウィルヘルミナを殺害するのだろう。
 いつからこの街にいるのかと問えば、最近住み始めたばかりだと言う。
 この殺人ドールが住んでいる街には、住むしかないと思った。
 そして彼は今京都にいる。
 帰ってくる頃には、あんなドールのような体型はしていないだろう。

 やはり言っておいて良かった。
 彼が赤ん坊の頃に肩甲骨を折られ放置されていたと告げた瞬間の顔。
 納得と怒りと、そして愛を乞うような心が入り混じったあの表情。
 彼が殺した腹の子も、同じような顔をして死んだのだろう、と思った。
 だから、嘘だと言った。
 実際嘘だった。
 そして彼の涙を待った。
 ドール少年は泣かなかった。
「うそつき」
 そう言っただけだった。
 ああ、この程度の傷では、彼は痛みがわからないのだ。
 なるべく鍛えて帰ってきてほしい。
 命が惜しくて、傷つけるのを恐れるような、まるで人間のような。
 この街に住む居住空間の代償として、エメラルドの指輪を支払う俺を見る目。
 彼は人間に近づいていくのだろう。
「これ盗品?」

「いいや、妹から渡された祖母の形見」
「デザインが古いから、売るとなったらばらすしかないんだけど。いいかね?」
「別に。ばらすのをセルフでやれってわけじゃないんでしょ」
 やり取りを見る彼の視線は咎めるようだった。
「妹さんから貰ったのに大事じゃないの」
「妹の方が大事だよ。だから、ばらして貰えると助かる」
 傷つけられない体になって帰ってきてくれ。あの咎める目つきが自在に使えるようになるまでに、この手にかけてしまえぬように。

 

「間に合いますよ」
 医者は検査結果の写真をモニターに映しながら言った。
「栄養失調状態が続いていたのに、骨や内臓に脆さがない。珍しいです。どうも彼の記憶では炭水化物ばかり食べていたようなのに、脂肪が極端に少ないので若干諦めていたのですが」
「なんだかチャーハンばっかり食べていたようなことを言ってましたが。父親が食べた残りを」
「それでしょうね。お父さんは火が通っていなかったり焦げたりしている具の部分をほとんど残していたんでしょう。実質食べていたのはハム野菜卵炒めに米を混ぜたものといったところでしょうね」
「はあ、なるほど」
「とにかくバランスよく、そして量を多めに食べさせてあげてください。後、これは欲しがるものならなんでもいいのですが、おやつ、間食の類をなるべく切らさないように」
「おやつ……そんなに食べて大丈夫でしょうか」
「そうですね……。そんなにずっと必要なものでもないと思います」
「ええと……」
「肺にですね。タールが入っているのですよ。まあ、喫煙ですね。で、未成年の喫煙というのはだいたい不良めいた仲間内で恰好つけで始めるわけですが。彼はそういうタイプではなさそうです」
「そうですね……なんというか……ヤンキーめいた友達との付き合いというか……まず友達自体が」
「最近吸い始めたにしてはタールが染み込んでいるのに、親が平気で吸わせていたにしてはタールの量が少ない。これ、たぶんおやつですね」
「お、おやつ? 煙草が?」
「煙草を吸うと空腹感が紛れますからね。お腹が空いた時におやつ感覚で父親のものを吸っていたんでしょう。で、大量に吸うとバレてしまうので、ほんの数本をくすねていたんでしょうね。要するに食品のおやつを覚えて、それが食べられなくなる不安がなくなれば、喫煙もほぼなくなるでしょう」
「ほ、ほぼですか?」

「……メフィストさん、喫煙なさる方でしょう。あなたがすすめなくても、サービス感覚で煙草をすすめてしまう大人は案外ですね」
「すみません……先生の領域ではありませんね」
「まあ、煙草に関してはそのくらいで。私がどうしても気になることがあってですね」
 レントゲン写真を指差す。
「ここ、うっすら線みたいなものが残ってますよね。これ、骨折した後です。でも、すごくきれいにくっついてるので、動きに支障などは出ません」
 ただ、と医者は続ける。
「彼は骨折した経験はないと言い切ってますし。記憶にないほど小さい頃に骨折したのなら、親は動かないように相当苦労せねばなりません。痛がって泣き続けたり。そうでなくても入院して骨折した個所を固定するだけで子どもというのは大変です」
「……全く、恩に着せないのは不自然ですね」
「正直、そういう仰り方をしてしまうのはわかりますね。自力で動くのが困難な赤ん坊の頃に、なんらかの原因で折ったんでしょう。強く掴んだか、高い所から落としたか。その当時母親は発病していたようなので、錯乱状態で叩いた可能性もあります。そして痛みで泣き続けるのを両親ともに放置した。だから、逆に自然にこんなにきれいにくっついたんでしょう」
 医者はモニターを切りながら言った。
「そういう家庭環境と発達障害が合わさると、差別的な言い方をすれば異常人格者に成長してしまいやすいです。メフィストさん、私はあなたを疑っているわけではありませんが」
 メフェイストは微笑んだ。
「いいえ。疑われるのはもっともです。ですが、私はあの子がどのような成長をしようとも、手放すつもりはありません」
 医者はそうですか、と言った。
「あなたの意図がどんなものであろうと、何があっても手放されないという安心感を納君に与えて下さるのなら、私は今後も検査などをしましょう。ですが、保険証は作り直してくださいよ。わずか16歳で世帯主では、どうしても不審です」

 


水無月1

「かがり火なんてきらい!」
 奈落の花は、涙をこらえて怒る。
 同時に彼は覚醒する。
 右手が前に伸びている。
 前のめりにうつ伏せの姿勢。
「奈落の花ってなんや……」
 つけっぱなしのラジオアプリが、そのフレーズを繰り返す。
「これか……」
 曲が終わる。
「あいつか……」
 幼い自分に残った、黒いシミ。
 九つの黒い瞳の少女。
 小さい花。日陰の花。ならくのはな。
 時計に目をやる。AM6:30。机の上に視線移動。二行で途切れたノート。カレンダーに視線移動。六月一日。テスト前休み最終日。
 水無月が始まる。
「暑(あつ)……」

 湿気た日光。
 コーラを買いに行くことにした。

 

 堀川通に向かう道は狭く、細長い民家がぎっしり寄せ合っている。
「おお、篝火(かがりび)君」
 晴明神社の手前で呼び止められる。
「おはよう。なんやおっちゃん」
「今、あんたん家(ち)行くとこやったんや」
 坊主頭の神主は汗を拭う。体型もだるまそっくりなので、しょっちゅう僧侶と間違われている。
「陽炎(かげろう)君、おるか」
「兄貴やったらまだ寝てるで」
「そうか……いや……せやなあ……」
 きょろきょろとあたりを見回す。珍しくせわしない。
「また、誰かおったんか」
「ああ。うん。せやねん。せやねんけどな。ちょっと来てもろてええか」
「俺が?」
「うん。見間違いや……思うんやけどな」
 晴明神社の敷地には、誰でも入れる場所にベンチがある。
 昼間は観光客の休憩場所だが、夜でも使える。

 使うのは、酔っ払いと、反抗期と、そしてまれに、何かから逃げてきた人。
 それはこの神主が近所の親戚であるという理由で、知っている。
 だが、それの確認に来てくれなどと言われるのは初めてだ。
 前に偶然発見したことはあったが。
「かがり火」
 その発見した少女の声がリフレインする。
 ベンチで体を小さく丸めて、くうくう寝息を立てていた。
 短くて癖のある黒髪。反対に長くてすんなり伸びた睫毛。白いシャツにサスペンダーで吊った黒い半ズボン。すりきれた子供用フォーマルの下から長い足が伸びていた。足首まではうっすらベージュがかっているのに、そこから下はきゅうと白い足袋で絞ったような足。桜色の爪だけが鮮やかな花。
「この子やねんけどな。どっかで見た気がすんねん。篝火君の友達かなんかやなかったか思てな」
 ちょっとすんません、と、神主がベンチの前に突っ立っているサラリーマンに声をかける。
 篝火は、そのサラリーマンの体から隠されていない部分に目を奪われる。
 足首から下だけが白い足。膝から下の長さに不釣り合いな小さい足。
 纏足(てんそく)でもされたかのような、アンバランスな足。
 桜色の爪。隣に小さく擦りむいた傷。
 ああ、すんません。
 夜勤ですか。そっちのベンチやったら空いてますよって。ちょっと工事の道具とか置いてますけど、気にせんと。

 ああ、すんません。
 えろうお疲れですな。
 隠れていた部分が見える。
 道着。かなりの着崩れ。首に縹色(はなだいろ)の縮緬(ちりめん)を生地のままちょうちょ結びにしている。
 短くて癖のある黒髪。反対に長くてすんなり伸びた睫毛。左目を隠す医療用眼帯。
 縦に長い体を小さく丸めて、くうくう寝息を立てている。
 着崩れた道着の下、左胸にわずかに見える。
「入れ墨……?」
 確認しようと手を伸ばす、左胸に触れる。その時、ゆっくりとびろうどの幕が上がり始める。
 黒い瞳が現れる。
「七竈……?」
 吐息のような返事。
 それは、とても。
 低い声。
「だれ……?」
「やっぱり篝火君の友達か」

 神主の存在を思い出す。
 幼いころの黒いシミは、確認するように言う。
「かがりび……」
 次の瞬間、起き上がるのと飛びつくのを同時に行う。
「かがり火! ごめんね! きらいって言ってごめんね! 大好きだよかがり火!」
 ぎゅうぎゅうと抱き着かれる。やっと土御門篝火は知得する。
 己の黒いシミは、少女ではなく、少年であったと。
「七竈……あの……」
「あ」
 その「あ」、という言葉を発した一分後。黒いシミは体の半分がミンチ肉となる。

 

 

六月一日。
 今日から本当の日記を書く。
 日記はほかの人に見せないってかがり火が言ってたから、今までのは見せてたから本当じゃない日記。
 あったことは本当だけど、あれは本当の日記じゃない。
 夜中、目が覚めて、外に出たら先生のお家に火をつけようとしている女の人がいて、腕を折った時先生が出てきて、「待て」って言うからやめた。
 女の人が「誰との子おや!」って叫んで、先生が「いや、誤解じゃ。わしの言葉が足らなんだ。とりあえず手当を」って言って、女の人が「やかましいわ! うちをばかにするな! 知っとったわ、ほかにもおんのは知っとったわ! せやけど、いつか手ぇ切る思て……」って言ったところで、先生が「え、ええと、ちょっと今夜はこいつと二人にせい。どっか行っとれ」って言ったから、ベンチで寝た。
 起きたらかがり火がいた。びっくりした。
 うれしかった。
 それからかがり火のお家に連れて行ってもらった。
 おばさんが僕を見て「七竈ちゃん! 生きとったんやね!」ってぎゅうってしてくれた。
 おばさんは奥さんじゃなくておばさんって呼んでって言ったから、おばさんって呼ぶ。
 それから陽炎お兄ちゃんが起きてきて、「なんや、お前か」って言って。
 今日は眠くなったから日記やめる。
 眠くなったらすぐ寝るのが、僕には一番必要って先生が言ってた。
 えっと、とにかくおばさんが朝ごはんにオムライス作ってくれて、昼ごはんにエビフライ作ってくれておいしかった。
 かがり火は今でもやさしかった。

 

 

≪空六六六ぷらす! じゅうろく!≫

 

納「連載再開おめでとうー!」
蛍「あの……本文で気になるとこがあってめでたいどころじゃないんだけど」
納「何?」
蛍「お前、声低かったの?」
ユキ「ウー! 蛍、もはやメタ発言というレベルじゃないヨ!」
蛍「だってこのロリロリしい口調で声低いって!」
納「せっかく声変わりしたのに! 女の子みたいなしゃべり方って言うならしゃべり方変えるもん!」
蛍「あ、それはそのままでいこう」
ユキ「今の、蛍の趣味で言いましたよネ」
蛍「うるせーな! 今回登場した土御門篝火に比べりゃマシだろ! 小学生で足フェチに目覚めてんじゃねえよ! しかもわりとマニアックな!」
納「なんで今回の蛍はいじわるばっかり言うのー!」
ユキ「ああ、これはかわいいですネ。この男どもは実にかわいい」
納「僕は男だからかわいくないの!」
蛍「俺もお前もかわいいの!」
ユキ「ホント……かわいいやつらデス」

 


水無月2

 言葉が通じないことがよくある。
 故に、七竈納はコミュニケーションが苦手だ。
 それが苦手だと、怒られるし嫌われる。
 故に、彼は人づきあいが苦手だ。
 しかし、苦手なことでもやらなくちゃいけない。
 目の前の店員はまた同じ言葉を繰り返す。
「そちらは汚れがございますので……」
 納は言葉を換える。
「売ってはもらえないのでしょうか?」
 店員はまたリピートする。
「そちらは汚れがございますので……」
 それは1回目に聞いたときにわかったんだけどなあ、と思う。
 聞いているのは、このカッパはいくらで買えるのか、あるいは非売品なのかである。
 しかし、店員は汚れがあるとしか言わない。作り笑いを露骨なものにしながら、頑なに汚れがあるとしか言わない。
 嫌そうな顔で笑顔を作っている。逆に納はいつも通りの無表情で突っ立っている。
 京都はこういうことの頻度が多い。だからあんまり好きじゃない。

 同じく無表情なカッパをまた見る。
 どこかふてくされた顔のカッパである。自分も同じ顔をしているのかもしれない、と思う。
 と、いうことは表情はあるのか?
 しかし、これ以上どうやって回答を絞れば良いのだろう。もはやハウマッチではなく、イエスかノーかを問うだけになっている。
「むう」
 質問を考えこむ。店員の嫌そうな雰囲気が増す。
 やだなあ、と思う。
 怒ってる理由を教えてくれたら、改めるのになあ、と思う。
 改められないかもしれないけど、謝れるのになあ、と思い直す。
 嫌そうな雰囲気はお化けが出る効果音に似ている。
 どろどろどろ……出るぞ出るぞ、ぜんぶおまえがわるいんだ。だからお化けになったんだ。
「ノープログレム。ヒー、イズ、バイ、ディス、モンスター」
 ハッキリした声が響く。一刀で斬り捨てるように。当然、というように。私はお化けより強いのだというように。
「メフィスト!」
 黒いレースに包まれた指が振られる。
「ノノノ、ノウ」

 軽いたしなめ。
 会話に割って入った黒ずくめの白人女性。【鉄の女王】メフィスト・フェレス。店員はいきなり振り向き大声を出す。
「店長! こちらの外国のお客様、お母さんの方が日本語全然通じへんみたいで!」
 今まで接客していたのを放り出し、店長がすっ飛んで来る。
「えろうモタモタしてすんまへん。こちら、汚れのため処分品でしたよって返品できませんがよろしですか?」
「イエス」
「ほな、半額にお値引きさせていただきます。600円です」
「サンキュー」
 いきなりパタパタパタッとやり取りが進んだ。背中を叩かれてやっと財布を出す。
「ご自宅用ですか?」
「自分用です。袋なくていいです」
「はい。ではこちら。お待たせしてほんますんませんでした」
「グッバイ」
 速足のヒール音を慌てて追いかける。
「メフィスト! あの、ありがとう」
 ため息交じりの返答。

「お礼をきちんと言うのは良いことやけどね、納。君はさっきの自分の状態がわかってるか?」
「カッパ売ってもらえなさそうだった」
「それはそうや。せやけどな、その前に迷子やから。振り返ったらおらんようになってて、引き返したらその絶妙にかわいくないカッパに夢中になってたんやよ。わかった?」
 トン、と鼻をはじかれてやっと気づく。
「ごめんなさい」
「わかればよろしい」
 ぎゅうと物言わぬぬいぐるみを抱きしめる。カッパが「未熟者め」というような顔をする。
「ねえ、なんでさっきあんな発音でしゃべってたの?」
 メフィストの返答に怒りが混じる。
「普段通りにしゃべったら、バカは聞き取れへんから」
 いつになく言葉が汚いのに驚く。メフィストは速足の上に早口を加える。
「バカな日本人は、外国人だけはストレートに言わないとわからないと思ってるからな」
「あの、何言ってるかわかんなかったのは僕の方だよ?」
 しかも迷子にまでなった。
「あの店員の方がよっぽどバカや。まともなおつむなら一言で遠回しに言っても通じないと理解できる。しかも、あんだけ明瞭に質問されてるんやで? それを延々同じ返答! 最底辺のバカやなあれは」
「ごめんなさい。遠回しになんて言ってたの?」

「処分品。以上。漢字にして3文字! あんだけ画数の少ない漢字で3文字やで! その程度のことも答えられへんとは! 小学校から出直してこい!」
 早口の上に怒りが増されていく。納はカッパを抱きしめて追いかける。
「だってね、でもね、僕がね」
「確かに物事を遠回しに言うのは日本の文化。それも京都で特に発達した文化や。文化を否定することは許されない。せやけど、結果として他人に不便を強いるのもまた許されない。戦場にならない期間が長すぎたんや」
 怒りのスケールが大きくなる。
 納は縦に長い体を縮こめる。
「軍事的交渉ができるまで成り上がれる戦(いくさ)が遠すぎるんや。戦の交渉となれば、あんな遠回しな言い方、いくらでもわざと解釈を間違えられる。一見遠回しに見えて、何よりも直球でやり取りできなあかん。それがこんな体たらくとは! ああ、文化を尊重したるわ! どうせ次に焼け野原になったときに一緒に燃え落ちる文化や!」
「あの、あの、メフィスト、ごめんなさい。なんだか口調が乱暴に、あ、ううん、ちが」
「バカをバカと言うてるだけや。観察力がない人間というのはバカでも褒めてるに等しい。私にこんな大きな子供がおるわけないやろ!」
 最後の最も力を籠めた言葉に、納は怒りの理由を知る。メフィストは30歳くらいに見えるから、なくもないんじゃないかとも思う。それは黙っておいて、話を逸らす。
「どこに向かってるの?」
 メフィストは苛立たし気にコンパクトを見せる。一見ファンデーションのケースのようだが、鏡の代わりに電子地図が入っている。
「……ホテルで待ち合わせ?」
 魔導ナビというそれは、呪い持ちの居場所を契約悪魔に教える道具だ。しかし、電波(の、ような魔力の気配)が弱すぎて戦闘中は使えない。
「……こんなところで待ち合わせやったら……あいつも炎にぶち込んだるわ……」
 ますます増す怒り。かっかっかとヒール音。

「メフィスト、待って」
 待たずにドレスの裾をひるがえし、メフィストは扉を開ける。
 フロントに叩きつけられる札。
「鏑木一刀斎はどこにおる」
 かぶらぎいっとうさい、その名前を聞いてざわめく。
 ……ラブホテル。
「ついにこの時が……」
「遅かったとも言える……」
 ……納得のざわめき。
 すっと、合い鍵が出される。
 またかっかっかと歩き出すメフィストを追いかける。
 背中にやさしい声。
「ボク、こわなったらすぐおっちゃんらのとこ来るんやで」
「ありがとうございます。でも、僕は逃げません」
 京都の人は言葉が通じればやさしい。
 かっかっか。

 メフィストもいつもはやさしいのに。
 くすんだピンク色の扉を派手に開け、メフィストは怒声を上げる。
「コラァ一刀斎! この私の約束をすっぽかしてお楽しみとは分をわきまえんかァ!」
 からし色のまっすぐで長い髪。細くて白い体。
 お酒の臭い。
 ……女の人かな?
「誰やこの女ァ!」
 隣で寝ていたもう1人の女の人の怒声で飛び起きる人。
 裸を見て訂正。男の人だった。
「え、いや、誤解じゃ駒子」
「駒子って……誰やその女ァ!」
 まさかのリピート。ではこの女の人は誰なのか。
「え、誰……? 誰って……」
 まじまじとその男の人は、隣の人を見る。
「おぬし……誰じゃ?」
 この後、怒り狂った女の人が裸のまま部屋を出ようとしたり、その人が納のことをまたメフィストとの子供と間違えてメフィストも怒り狂ったり、フロントの人たちが全員飛んできたり、とにかく大騒ぎの隅っこで。

 納はカッパに話しかけた。
「あの男の人が僕の先生なんだよ」
 腕の中のカッパはとても不本意そうだった。

 

 五月十五日
 京都で僕たちが泊まってるのは3DKのマンションで、僕は蛍と同じ部屋でうれしい。ユキとメフィストは一人部屋。蛍がピンク色のお花がきらきらしてるノートを持ってて、日記帳って言ってたのでかっこよかった。
 中は見せてくれなかったけど僕もやりたいって言ったら、京都駅のそばのショッピングモールにいっしょに行ってくれた。
 文房具コーナーのノートどれにしたらいいかわかんなくて、えらんでって頼んだら蛍は「しょうがねえな」って言ってくれたけど、ユキはダメって言った。
「そういうのは納が自分でえらばないと意味ない!」って言った。よくわかんないけど、とりあえず一番安いノートとシャーペンを買った。
「それでいいです?」ってまた聞かれたらから「だめ?」ってきいたら「いいですけど」って言って、ユキはむずかしいこと言う。
「文房具のテナントも入ってるですよ」って言われたけど、それもなんでかわかんなかった。
 ユキが蛍に「納は蛍のものじゃないですよ」って言ったら、二人ともおこってるふんいきになったのもなんでかわかんない。
 わかんないじゃない。わからない。
 メフィストに日記つけるけど、書き方わかんないって言ったら「毎日書かんでもいいから、印象に残ったことを書き」って言った。
 ちがう。わからない。
 書けたから見せてくる。
 今日の晩ごはんはあじの塩焼き。お魚大好き。
 明日先生に会える。

 

≪空六六六ぷらす! じゅうなな! ≫

 

ユキ「う……ウン……日記1日目無事書けたネー」
蛍「せいぜいその調子で続けてけよ」
納「うん! ありがとう!」
蛍「……行ったな」
ユキ「蛍、言ってクダサイ。別に見せるモンじゃないっテ」
蛍「ふざけんな自分で言え」
ユキ「無理ダヨー。すごい嬉しそうダヨー。お兄ちゃんデショ、言ってヨー」
蛍「都合のいいときだけお兄ちゃんにすんじゃねえよ!」