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ハードボイルドダークファンタジー多め。銃と刃がrock 'n' roll! 超重量級の物語。 毎月最初の金曜日更新

僕が先生と呼ぶ尊敬できない人1

「ふうん、納ちゃん京都に行っちゃうんだあ」
 先生は缶コーヒーを灰皿代わりにしながら、にやにやと笑った。
 納は彼を先生と呼ぶ、先生は自分をウィルヘルミナと名乗る。偽名だ。ペンネームでもない。だから先生と呼ぶ。
「別に一時的に行くだけだよ。鍛えて貰うだけ。また帰ってくるよ」
「帰ってくるなんて宣誓するほど遠くないぜ。夜行バスを駆使すれば日帰りできる。よくやってる」
 納はため息を吐く。
「先生出席日数大丈夫なの? 卒業できる?」
 先生は二本目の煙草に火を点ける。
「ああ、最近迷ってるんだよ」
「大学行きたくなったの?」
「納ちゃんは次元の高い両親の元に育ったんだなあ。逆逆。高校卒業したら仕送りも終了して縁切りって約束だったんだけどさ。わざと留年したらもう一年固定収入があるんだなあって。だけど、留年した地点で縁切りされちゃうと留年損だからさ。悩んでるんだよ」
 先生は無精ひげをさする。好きで伸ばしているわけではない。借金のカタに納がシェーバーを奪い取って売りとばしたのだ。
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃんか。昔の彼女? まあそんなカンジの思い出ないの?」
「ないよ」
 あっさりと納は答える。
「ん? 納ちゃん関西の生まれでしょ?」
 納は首をひねる。
「たぶん、生まれは関西だろうけど……記憶と呼べるようなものができる歳には関東以外行ったことないと思うよ」
「曖昧だなあ」
「どこに住んでたのかわかんない時期があるんだもん。親が関西出身だけど、小学校入学前に関西離れてるし」
「ふうん。なんで?」
「父親がね、飲酒運転で交通事故起こしたんだよ。それで関西にいられなくなった」
「ヤクザの車にでもぶつけたの?」
「いや、ガードレール。だけど、その頃父親は何年も休職中とはいえ、小学校の教諭だったからね。地方のニュースで実名が報道された。それで関西に住めなくなったらしい」
「そんなニュース覚えてる人いるかねえ」
「珍しい名字だからね。しょうがない」
 七竃 ななかまど。 七回焼いても実が残る植物。
「まあ、小さかったからよく覚えてない。小学校一年生の四月に東京の学校に転入ってなってたから。なんかそうとうゴタゴタしたんじゃないかな」
「なってたって何が」
「当時の通知表が」
「ああ、なるほど。そこまでは物心ついてないんだ」
「その後もちゃんとついてたか怪しいけどね」
 はっきりした記憶。一人で怒鳴り続け、往来を徘徊する母を保護したという警察からの電話。
 そしてそれを聞いた父親の絶叫。
「なんでうちはこんなことばっかりやねん!」
 先生は納得する。
「アクセントがさ、納ちゃんは時々関西なんだよ。そういう訳ね」
「そういう訳だよ」
 意識しないでするオウム返しを、先生は妙に気に入っている。
「あ、でも、小学校三年生の時に京都はちょっと住んでたなあ」
「へえ、いた? 昔の女」
「無茶な期待しないでよ。そんなことわかる歳じゃない。男の子と遊んでたことしか覚えてない」
「今はわかるの?」
 先生はまたにやにやした。
「恋愛、恋情、エロス、劣情、まあどんな言葉でもいいけど、今はわかんのかい? 納ちゃん」
 納はぷいと横を向く。
「別に困ってないもん」
 あー、と先生は床に寝そべる。
「納ちゃんが女の子だったら良かったのに」
「怒るよ」
 大の字になろうとしているらしいが、折り畳み式のちゃぶ台が邪魔でTみたいな姿勢の先生はぼやく。
「恋をまだ知らないのに、身長ばっかり伸びたお人形みたいな女の子を、言葉巧みにレイプしたい」
「ただの犯罪じゃない」
 先生は自分の腕を枕にする。
「ただの犯罪だよ。だから、やらないで生きていられるこの街に感謝してる」

 

 

 蛍がこの街に来てすぐで、ユキが来る前。まだ4月が終わっていない頃。つまり納もこの街に来たばかりの頃。
 へんな人がいた。
 その時の納はまだ自分の口調が幼い少女めいたところがあるのを気にしていたので、脳内でもう少し表現を変えようと試みた。
 奇妙な男? 異様な若い男?
「あ、メフィストさんとこの子よね? もー、助けてよ! へんな人が仕事の邪魔するの!」
 へんな人でいいのか。へんな人がいた。
 長袖のTシャツにパーカー、キャップ、染めているに違いない茶髪、ジーンズ、全てが安物尽くしの若い男がしゃがんでいた。
 メモ帳に何か熱心に書き込んでいる。しゃがんでいる先には死体がある。潰れた頭の横にはコールタールのへこんだ缶。僅かに零れたコールタールが血と混じっている。
 困っている人は助ける。特に女性なら。
「何してるんですか?」
 若い男は振り向いた。眼鏡が洒落ているのに安物らしいデザインだ。こちらを見ると、やけになれなれしい口調になった。
「神様ありがとう。高校生だよな? 何か書くものもってない?」
「今、書いてるでしょ」
「ボールペンのインクの限界がきてるんだよ。さっきの婆さんは持ってないって言うしさ」
「いや、そうじゃなくて、何してるの」
「せっかく変死体があるから、状態をメモにして記録してるんだけど」
 頭が潰れた女の死体。中年の女。だけど妊娠しているらしい。過去形。胎児も死んでいるだろう。
「……楽しいの?」
 若い男は笑い声を上げる。
「まさか。一ミリも楽しくない。だけど、楽しくないことを集めて楽しいことができる。わかる?」
「……それより、いくら払える?」
「ん?」
 若い男は財布を取り出す。ルイヴィトンの長財布。こんなところに高級品。
「五千円がギリかな」
「オードリーさん、五千円だって」
 婆さんと呼ばれた女性、オードリーさんはふうんと言う。
「一時間くらいなら好きにしていいわよ」
「オウイエス、話がわかる婆さんだったぜ。で、なんで婆さんに俺が五千円払うんだ?」
 納が代わりに答える。変質者の疑いがある人を、女性に近づけてはいけない。
「この人が死体を回収するのが仕事の人だから」
 オードリーさんはバンと背中を叩く。
「そっちは副業だってば。あたしの本業は援助交際なんだって」
 若い男は納得する。
「ああ、オードリーって源氏名みたいなモンなんだ。道理で色っぽいわけだわ」
 皺だらけの五千円が渡される。
「あら、ありがと。一時間半にサービスしてあげる」
「いやいや、こっちこそご無礼働いて申し訳ない。連絡先交換していい?」
「ナンパ?」
「玄人さんをタダでナンパしない。常識っしょ」
 二人はスマホで連絡先を交換する。
「じゃあ、一時間半経ったらまた来るから」
「オーケー。俺は時間にはうるさい男さ」
 オードリーさんが去る。
 若い男は
「で、お兄さん、なんか書く物持ってない?」
 と問う。
 仕方なくカバンを探ってシャープペンシルを渡す。
 若い男はまたメモを取り始める。
「お兄さん? 君? お前? まあ、とにかく名前は?」
 唐突に聞かれる。
「七竈納」
「お、初めて聞く名字だ。レア枠だ。霊験が落ちないように納ちゃんと呼ぼう」
 とにかくなれなれしい。
「そっちの名前は」
「……」
 なぜか沈黙。
「ウィルヘルミナ」
「露骨な嘘を吐かないでよ」
「好きで吐いてんじゃないぞ。心外だな。カノジョがそう名乗ってくれって言うから名乗ってるに過ぎない」
「変わった彼女さんだね」
「うん。まあでも、いい女だし」
 淡々と春の昼は流れる。
 メモを覗く。
 絵は一切ない。
 ただ死体がどういう状態か克明にメモしている。
「おいおい、人が書いてるもの見ちゃダメだぞ」
「ごめんなさい」
「許そう」
「それ何に使うの?」
「小説の資料に」
 納はしばし考える。
「潜入ルポみたいなのは困るんだけど」
「大丈夫大丈夫。俺がそんなモン書くと干されるから。一応現役高校生小説家で売ってるから」
 ……。
「綿矢」
「シャラップ」
 黙る。
「納ちゃん。芥川賞なんてのはな、ヘタに狙っていると口に出しちゃいかんのだ。取れずに死ぬと「あの人結局取れなかったね」って話題になっちゃうだろ。そんな未来想像すると悲しいだろ。悲しい気持ちにわざわざなってどうする」
「まあ、とにかく先生なんだ」
「うん、まあ先生ということにしておこう。世界平和のために」
「で、先生。未成年にこんなとこいられると困るんだけど」
「オウ、アメージング。先生という言葉に一ミリも敬意が籠っていない。そして学ランでその注意を言う。っていうか、俺ここに住みたいんだけど」
「道?」
「室内希望」
「いくら持ってる?」
「130円」
「さっきの五千円は?」
「最後のお札」
「道で」
「いや、電気とネット環境がないと困る。原稿を出版社に送れない」
 ため息。
「お金に換えられそうな物無いの?」
「エメラルドの指輪持ってるけど」
「本物じゃないとダメだけど」
「本物本物。ちょっと黙って。やっと腐敗っぽくなってきたのに、後30分しかない」
 一時間半後、さっきと違って全身を宇宙服みたいな装備でくるんだオードリーさんに挨拶する。
 先生は使い捨てライターを取り出すと、メモに火を点けた。
「せっかく書いたのに」
 先生は燃えていくメモを見ながら笑った。
「ああ、書いて頭の中を整理してただけだから。この紙はあると邪魔なんだ」
「内容忘れないの?」
「忘れる」
 灰を愛おしげに散らせる。
「忘れなかったものだけが、書くに値するものだよ」

 

 十三番街の支配者にして、最上級悪魔にして、【鉄の女王】の階級のメフィスト・フェレスはビール片手に手を振った。
「親と喧嘩したかなんか知らんけど、親が正しいから帰って謝りなさい」
「おいおい、メフィストさん。話も聞かずにそれはないじゃないか」
「道端の死体のメモを丹念に取ってる息子が、どうやって親が悪いっていう展開に持ってくねん。っていうか納、へんな人うちに連れて来たりはもちろん、話しかけたらアカンよ」
 先生はふっと恰好をつけた笑みを浮かべた。
「甘い甘い。読みが甘いぜ。メフィストさん。まず俺は親と喧嘩して家出なぞしていない。純粋に親と不仲になったので、高校進学と同時に別居してくれと親に頭を下げられたんだ」
「不仲いうレベルかそれ。気味悪がられてないか。じゃあ、なんでこんなとこ住みたいの」
「俺に才能がないから」
 ……。
「メフィスト、この街のお医者さんは管轄外の人だと思うよ」
「いや、筋弛緩剤でも打って貰って、その間に警察に捨ててこようと」
「まってまってスマホしまってマジで。話せば長いからさ」
「私の休憩時間はこのビール飲み終わるまでやから、長い話聞く気ないわ」
「オーケー、大丈夫。ニーズに合わせて短く言うわ」
「大成しなさそうな子やなあ」
「まあ、否定しない。まず把握してほしいのは、俺には小説家の才能がない」
「チェーホフも似たようなこと言ってたね」
「納ちゃん、無自覚にハードルを上げないでくれるかな。まあ、とにかく、小説家の才能ってのはアンテナだ。才能があるってのは小さな刺激でもアンテナが反応する。心が動く。ネタになる」
「ふうん」
「で、俺はそのアンテナが鈍い。錆びてる上に蜘蛛の巣とか鳥の巣とかありそうなレベルに鈍い。こういうヤツが心を動かそうとすると、デカい刺激が必要になる。普通の日常生活にデカい刺激が溢れてるか? 溢れてたらそれは普通の日常とは言い難いだろ? そうなると、自力でデカい刺激を起こすしかないだろ?」
 メフェイストはビールを一口飲む。
「要するに、自分が犯罪に走る前に、刺激を求めて新人作家が来たわけかね」
「あ、はい。そういうわけです」
「その才能論に自信はあるわけ?」
「ある程度の自信はあるけど、若さと熱意でカバーしてるカンジ」
「外れてたら?」
「ん? フツーに別の場所に引っ越すけど?」
「ちゃらんぽらんを絵に描いたような子やな。君、今からそんなんで将来どうすんねん」
「逆に聞きたい。将来をちゃんと考えているヤツは、きちんと通学しつつ進路に悩んでいる時期だろ。高三なんての春なんて」
「腹立つなこいつ。っていうかさ、書かないって選択肢はないの? 筆を折るまでいかんでも、趣味でやめとくみたいな」
 あー、と先生はへらへら笑った。
「プロでも趣味でもやること同じだから。原稿料貰える分プロがいいわ」
「筆を折る」
「それはない」
 笑顔を絶やさずに
「芸術の名作しか、世界に残るものはないから」
 メフェイストはビールの缶を脇に置く。
「名作を書く気やの?」
「当然でしょ」
「書く自信は?」
「自信がどうとかはどうでもいいんだ。名作を目指して書きつづけなきゃ生きていけない、そういう生き物なだけ」
 メフェイストは言った。
「三つ、条件がある」
 指を一つ。
「この街の内部を絶対に公開しない。全ての媒体で」
「大丈夫」
 二つ。
「君が死んでも死体は家族の元に帰らない。まあ、死体回収業の方の収入源になる」
「大丈夫」
 三つ。
「君がなんらかのトラブルに巻き込まれた際、バックに私がつくので毎月お金を払って貰う」
「いくらくらい?」
「君の収入を見てから毎月の最低金額を決め、そして何が起こったかの面倒具合で上乗せする」
「ああ、了解」
 メフェイストは納に命じる。
「手紙書くから、不動産のタナカさんにあっせん頼んで」

 


僕が先生と呼ぶ尊敬できない人結

 荷物を運び終わったウィルヘルミナ先生は、相変わらずのオーバーリアクションで言った。
「いやあ、驚いた。倒産したゲームセンターの地下室が貸し出されるとは」
「カジノとパチンコと雀荘があるのに、ゲームに誰も興味を持たなかったんだよ。一か月もたずに潰れた」
「上はどうすんの?」
「わかんない。正式な所有者がこないだ死んじゃったから。まだ遺産相続話がまとまってない」
「それ、地下は逆にいいわけ?」
「うん。作った業者がなんか勘違いして勝手に作った地下室だから。別にいらないって」
「ありがたいけど、いい加減な話だなあ」
「先生に言われたくないと思うよ。この建物の所有者が業者に怒鳴り込んだ時には夜逃げしてて、仕方なく逃げ遅れたバイトを怒鳴りまくってたら刺し殺されたんだ」
「バイトに?」
「バイトに」
「ふうん。それでこんな謎のワンルームができてんだ」
 壁一面が本棚になっているのが、更に謎感を出している。
「ダンボール開ける?」
「いーよいーよ、後は自分でなんとかなるモンばっかりだから。アクエリアスでも飲もう」
 床に500mlのペットボトルを置く。
 納は学ランを脱いで埃を払う。
「……納ちゃん。それで、学ラン脱がないの?」
「何の話?」
「ん? 違ったか、ごめんごめん」
「何の話なの?」
 やや詰めよるようにすると、先生はしまったなあというポーズをした。
「俺の実家って開業医なんだよ。小児科の。で、まあ、骨格関係の本とか置いてあったのね。でさ、納ちゃんの肩甲骨の形がさ、ちょっとヘンだなって」
「え? 知らなかった」
「だよなー。ごめん」
「どこ、どこがヘンなの」
「んー、こっち来てくれる?」
 先生の背を向けて座ると、先生は肩より背中に近い肩甲骨の一部をトントンと触る。
「ここ。なんかちょっと折れた後微妙にずれてくっついたカンジで、隆起してる」
「え、動く時とか困るの?」
「いや、困んないでしょ。完全にくっついてるもん。何より、困ったら自分で気づくでしょ。こうやってワイシャツの上から触んないとわかんないくらいのズレだし。ただ、ちっちゃい頃にからかわれたかなんかして気にしてんのかなと思っただけ。余計なこと言っちゃったな。ごめん」
「骨折なんてしたことないと思ってた」
「だよなあ。ホント余計なこと言っちゃったよ」
 納は不審げに振り返る。
「なんでそんなに気にするの?」
「え? そりゃあ、他人様の気付いてない体の特徴をわざわざ指摘なんて失礼でしょ」
「先生、何か誤魔化してる」
 ウィルヘルミナは言いにくそうな顔をする。
「えーとね、肩甲骨ってさ。スゴくデカくて丈夫な骨なんだよ。だから、赤ん坊でもない限り結構派手な事故に遭わないと折れないし、折れたら覚えてる。本人が忘れる歳でも親は言うよね。そんな派手な事故に遭ってたらね」
 納が息を呑む。
「で、まあ、そんな記憶に残らないほど小さい頃に肩甲骨折って、放置するとさ。こんなズレじゃすまないんだよ。だって痛いじゃん? ちっちゃい子なんて我慢できなくて自分で動くじゃん? もっとズレるじゃん?」
 ウィルヘルミナは納の表情をじっと見る。
「そうすると、残る可能性は一つしかない。まだ自力で身動きできない赤ん坊の頃に、強く掴みすぎたかなんかして折れて、痛みで泣いてるのを放置されてるうちに自然にくっついた」
 納の表情を観察する。ウィルヘルミナの顔は愉悦を浮かべている。

 

 高校を転校せずに引っ越せる面白い場所はないかと、色々探していた頃。おお、僅か一か月程度も経っていない。とウィルヘルミナはカレンダーの×をつけ直す。特に意味がある×ではない。何よりカレンダー自体数年前のものだ。要するに全部意味が無い。
 とにかく、この街に住みたいと思える人物と出逢った。
 街中に死体が転がっていて、今ではたまにティータイムなどに誘ってくださるミス・オードリーをうるせえ婆さんだと追い払おうとしていた時。
 ごく普通に学生服の彼がやってきた。
 彼を見た瞬間、ウィルヘルミナは思った。
 おお、ドールが生きてる。
 やたらでっかくて丸い瞳にバサバサの睫毛。黒髪。左目に医療用眼帯。眼鏡。体格と相まって、以前インターネットで見た大人用のバカ高いお人形を思い出したのだ。
 あの学生服の下は球体関節じゃないかと澁澤龍彦みたいなことを思ったが、そんなありきたりな感想はすぐ忘れた。
 この死体を作ったのはこいつだ。
 言い方を変えれば、この生きたドール少年が孕んだ中年の女の頭にタールの缶を叩きつけたのだ。
 カッターシャツの袖にタールが付着している段階で明白だし。
 何より。
 メフィストの元に向かう時にあっさり白状した。
 いや、白状ではない。
 苦情だ。
 あの女性を殺したのは自分であり、きちんと死体回収業者に連絡をしているので、あんな風に邪魔をされては困る。
 そういう苦情を、彼の端的になりがちな上、時折幼女めいた言葉づかいになる口調で受けたのである。
 殺害の動機を聞いてみるとき、彼があの腹の子の父親であるとか、あるいは腹の子の兄であるとか、そういう展開を期待したのは否定できない。むしろ大いにした。
 だが、そんなドラマチックな話ではなかった。
 メフェイストに月々の”代金”を払っている男が、水商売の女に子供ができたから養育費と慰謝料を払えとつきまとわれて助けを求めたのだ。
 その男の子どもでないことは確実。
 なぜなら彼はこの街に来る前に、女性専門の風俗店で働いており、パイプカットをしていたのである。
 普通に、メフィストは自分の下僕(しもべ)たる納(これにもエロチックなことを想像したが、別にそんなことはないらしい)に手段は問わないのでこの男の前に姿を見せないように指示し。
 普通に、納は「お金を受け取るまで帰りそうになかったから殺した」のだ。
 いかな幻想的な狂気が繰り広げられたのかと思えば、おつかいも同様の殺人であった。
 だが、着眼点にすべきはそこではない。
 生きたドール少年が「もー、ホントに困るんだよぅ」などとウィルヘルミナにぺらぺら話すからには。
 この七竃納はウィルヘルミナが他人に漏らすそぶりをすれば、即座にウィルヘルミナを殺害するのだろう。
 いつからこの街にいるのかと問えば、最近住み始めたばかりだと言う。
 この殺人ドールが住んでいる街には、住むしかないと思った。
 そして彼は今京都にいる。
 帰ってくる頃には、あんなドールのような体型はしていないだろう。
 やはり言っておいて良かった。
 彼が赤ん坊の頃に肩甲骨を折られ放置されていたと告げた瞬間の顔。
 納得と怒りと、そして愛を乞うような心が入り混じったあの表情。
 彼が殺した腹の子も、同じような顔をして死んだのだろう、と思った。
 だから、嘘だと言った。
 実際嘘だった。
 そして彼の涙を待った。
 ドール少年は泣かなかった。
「うそつき」
 そう言っただけだった。
 ああ、この程度の傷では、彼は痛みがわからないのだ。
 なるべく鍛えて帰ってきてほしい。
 命が惜しくて、傷つけるのを恐れるような、まるで人間のような。
 この街に住む居住空間の代償として、エメラルドの指輪を支払う俺を見る目。
 彼は人間に近づいていくのだろう。
「これ盗品?」
「いいや、妹から渡された祖母の形見」
「デザインが古いから、売るとなったらばらすしかないんだけど。いいかね?」
「別に。ばらすのをセルフでやれってわけじゃないんでしょ」
 やり取りを見る彼の視線は咎めるようだった。
「妹さんから貰ったのに大事じゃないの」
「妹の方が大事だよ。だから、ばらして貰えると助かる」
 傷つけられない体になって帰ってきてくれ。あの咎める目つきが自在に使えるようになるまでに、この手にかけてしまえぬように。

 

「間に合いますよ」
 医者は検査結果の写真をモニターに映しながら言った。
「栄養失調状態が続いていたのに、骨や内臓に脆さがない。珍しいです。どうも彼の記憶では炭水化物ばかり食べていたようなのに、脂肪が極端に少ないので若干諦めていたのですが」
「なんだかチャーハンばっかり食べていたようなことを言ってましたが。父親が食べた残りを」
「それでしょうね。お父さんは火が通っていなかったり焦げたりしている具の部分をほとんど残していたんでしょう。実質食べていたのはハム野菜卵炒めに米を混ぜたものといったところでしょうね」
「はあ、なるほど」
「とにかくバランスよく、そして量を多めに食べさせてあげてください。後、これは欲しがるものならなんでもいいのですが、おやつ、間食の類をなるべく切らさないように」
「おやつ……そんなに食べて大丈夫でしょうか」
「そうですね……。そんなにずっと必要なものでもないと思います」
「ええと……」
「肺にですね。タールが入っているのですよ。まあ、喫煙ですね。で、未成年の喫煙というのはだいたい不良めいた仲間内で恰好つけで始めるわけですが。彼はそういうタイプではなさそうです」
「そうですね……なんというか……ヤンキーめいた友達との付き合いというか……まず友達自体が」
「最近吸い始めたにしてはタールが染み込んでいるのに、親が平気で吸わせていたにしてはタールの量が少ない。これ、たぶんおやつですね」
「お、おやつ? 煙草が?」
「煙草を吸うと空腹感が紛れますからね。お腹が空いた時におやつ感覚で父親のものを吸っていたんでしょう。で、大量に吸うとバレてしまうので、ほんの数本をくすねていたんでしょうね。要するに食品のおやつを覚えて、それが食べられなくなる不安がなくなれば、喫煙もほぼなくなるでしょう」
「ほ、ほぼですか?」
「……メフィストさん、喫煙なさる方でしょう。あなたがすすめなくても、サービス感覚で煙草をすすめてしまう大人は案外ですね」
「すみません……先生の領域ではありませんね」
「まあ、煙草に関してはそのくらいで。私がどうしても気になることがあってですね」
 レントゲン写真を指差す。
「ここ、うっすら線みたいなものが残ってますよね。これ、骨折した後です。でも、すごくきれいにくっついてるので、動きに支障などは出ません」
 ただ、と医者は続ける。
「彼は骨折した経験はないと言い切ってますし。記憶にないほど小さい頃に骨折したのなら、親は動かないように相当苦労せねばなりません。痛がって泣き続けたり。そうでなくても入院して骨折した個所を固定するだけで子どもというのは大変です」
「……全く、恩に着せないのは不自然ですね」
「正直、そういう仰り方をしてしまうのはわかりますね。自力で動くのが困難な赤ん坊の頃に、なんらかの原因で折ったんでしょう。強く掴んだか、高い所から落としたか。その当時母親は発病していたようなので、錯乱状態で叩いた可能性もあります。そして痛みで泣き続けるのを両親ともに放置した。だから、逆に自然にこんなにきれいにくっついたんでしょう」
 医者はモニターを切りながら言った。
「そういう家庭環境と発達障害が合わさると、差別的な言い方をすれば異常人格者に成長してしまいやすいです。メフィストさん、私はあなたを疑っているわけではありませんが」
 メフェイストは微笑んだ。
「いいえ。疑われるのはもっともです。ですが、私はあの子がどのような成長をしようとも、手放すつもりはありません」
 医者はそうですか、と言った。
「あなたの意図がどんなものであろうと、何があっても手放されないという安心感を納君に与えて下さるのなら、私は今後も検査などをしましょう。ですが、保険証は作り直してくださいよ。わずか16歳で世帯主では、どうしても不審です」

 


水無月1

「かがり火なんてきらい!」
 奈落の花は、涙をこらえて怒る。
 同時に彼は覚醒する。
 右手が前に伸びている。
 前のめりにうつ伏せの姿勢。
「奈落の花ってなんや……」
 つけっぱなしのラジオアプリが、そのフレーズを繰り返す。
「これか……」
 曲が終わる。
「あいつか……」
 幼い自分に残った、黒いシミ。
 九つの黒い瞳の少女。
 小さい花。日陰の花。ならくのはな。
 時計に目をやる。AM6:30。机の上に視線移動。二行で途切れたノート。カレンダーに視線移動。六月一日。テスト前休み最終日。
 水無月が始まる。
「暑(あつ)……」
 湿気た日光。
 コーラを買いに行くことにした。

 

 堀川通に向かう道は狭く、細長い民家がぎっしり寄せ合っている。
「おお、篝火(かがりび)君」
 晴明神社の手前で呼び止められる。
「おはよう。なんやおっちゃん」
「今、あんたん家(ち)行くとこやったんや」
 坊主頭の神主は汗を拭う。体型もだるまそっくりなので、しょっちゅう僧侶と間違われている。
「陽炎(かげろう)君、おるか」
「兄貴やったらまだ寝てるで」
「そうか……いや……せやなあ……」
 きょろきょろとあたりを見回す。珍しくせわしない。
「また、誰かおったんか」
「ああ。うん。せやねん。せやねんけどな。ちょっと来てもろてええか」
「俺が?」
「うん。見間違いや……思うんやけどな」
 晴明神社の敷地には、誰でも入れる場所にベンチがある。
 昼間は観光客の休憩場所だが、夜でも使える。
 使うのは、酔っ払いと、反抗期と、そしてまれに、何かから逃げてきた人。
 それはこの神主が近所の親戚であるという理由で、知っている。
 だが、それの確認に来てくれなどと言われるのは初めてだ。
 前に偶然発見したことはあったが。
「かがり火」
 その発見した少女の声がリフレインする。
 ベンチで体を小さく丸めて、くうくう寝息を立てていた。
 短くて癖のある黒髪。反対に長くてすんなり伸びた睫毛。白いシャツにサスペンダーで吊った黒い半ズボン。すりきれた子供用フォーマルの下から長い足が伸びていた。足首まではうっすらベージュがかっているのに、そこから下はきゅうと白い足袋で絞ったような足。桜色の爪だけが鮮やかな花。
「この子やねんけどな。どっかで見た気がすんねん。篝火君の友達かなんかやなかったか思てな」
 ちょっとすんません、と、神主がベンチの前に突っ立っているサラリーマンに声をかける。
 篝火は、そのサラリーマンの体から隠されていない部分に目を奪われる。
 足首から下だけが白い足。膝から下の長さに不釣り合いな小さい足。
 纏足(てんそく)でもされたかのような、アンバランスな足。
 桜色の爪。隣に小さく擦りむいた傷。
 ああ、すんません。
 夜勤ですか。そっちのベンチやったら空いてますよって。ちょっと工事の道具とか置いてますけど、気にせんと。
 ああ、すんません。
 えろうお疲れですな。
 隠れていた部分が見える。
 道着。かなりの着崩れ。首に縹色(はなだいろ)の縮緬(ちりめん)を生地のままちょうちょ結びにしている。
 短くて癖のある黒髪。反対に長くてすんなり伸びた睫毛。左目を隠す医療用眼帯。
 縦に長い体を小さく丸めて、くうくう寝息を立てている。
 着崩れた道着の下、左胸にわずかに見える。
「入れ墨……?」
 確認しようと手を伸ばす、左胸に触れる。その時、ゆっくりとびろうどの幕が上がり始める。
 黒い瞳が現れる。
「七竈……?」
 吐息のような返事。
 それは、とても。
 低い声。
「だれ……?」
「やっぱり篝火君の友達か」
 神主の存在を思い出す。
 幼いころの黒いシミは、確認するように言う。
「かがりび……」
 次の瞬間、起き上がるのと飛びつくのを同時に行う。
「かがり火! ごめんね! きらいって言ってごめんね! 大好きだよかがり火!」
 ぎゅうぎゅうと抱き着かれる。やっと土御門篝火は知得する。
 己の黒いシミは、少女ではなく、少年であったと。
「七竈……あの……」
「あ」
 その「あ」、という言葉を発した一分後。黒いシミは体の半分がミンチ肉となる。

 

 

六月一日。
 今日から本当の日記を書く。
 日記はほかの人に見せないってかがり火が言ってたから、今までのは見せてたから本当じゃない日記。
 あったことは本当だけど、あれは本当の日記じゃない。
 夜中、目が覚めて、外に出たら先生のお家に火をつけようとしている女の人がいて、腕を折った時先生が出てきて、「待て」って言うからやめた。
 女の人が「誰との子おや!」って叫んで、先生が「いや、誤解じゃ。わしの言葉が足らなんだ。とりあえず手当を」って言って、女の人が「やかましいわ! うちをばかにするな! 知っとったわ、ほかにもおんのは知っとったわ! せやけど、いつか手ぇ切る思て……」って言ったところで、先生が「え、ええと、ちょっと今夜はこいつと二人にせい。どっか行っとれ」って言ったから、ベンチで寝た。
 起きたらかがり火がいた。びっくりした。
 うれしかった。
 それからかがり火のお家に連れて行ってもらった。
 おばさんが僕を見て「七竈ちゃん! 生きとったんやね!」ってぎゅうってしてくれた。
 おばさんは奥さんじゃなくておばさんって呼んでって言ったから、おばさんって呼ぶ。
 それから陽炎お兄ちゃんが起きてきて、「なんや、お前か」って言って。
 今日は眠くなったから日記やめる。
 眠くなったらすぐ寝るのが、僕には一番必要って先生が言ってた。
 えっと、とにかくおばさんが朝ごはんにオムライス作ってくれて、昼ごはんにエビフライ作ってくれておいしかった。
 かがり火は今でもやさしかった。

 

 

≪空六六六ぷらす! じゅうろく!≫

 

納「連載再開おめでとうー!」
蛍「あの……本文で気になるとこがあってめでたいどころじゃないんだけど」
納「何?」
蛍「お前、声低かったの?」
ユキ「ウー! 蛍、もはやメタ発言というレベルじゃないヨ!」
蛍「だってこのロリロリしい口調で声低いって!」
納「せっかく声変わりしたのに! 女の子みたいなしゃべり方って言うならしゃべり方変えるもん!」
蛍「あ、それはそのままでいこう」
ユキ「今の、蛍の趣味で言いましたよネ」
蛍「うるせーな! 今回登場した土御門篝火に比べりゃマシだろ! 小学生で足フェチに目覚めてんじゃねえよ! しかもわりとマニアックな!」
納「なんで今回の蛍はいじわるばっかり言うのー!」
ユキ「ああ、これはかわいいですネ。この男どもは実にかわいい」
納「僕は男だからかわいくないの!」
蛍「俺もお前もかわいいの!」
ユキ「ホント……かわいいやつらデス」

 


水無月2

 言葉が通じないことがよくある。
 故に、七竈納はコミュニケーションが苦手だ。
 それが苦手だと、怒られるし嫌われる。
 故に、彼は人づきあいが苦手だ。
 しかし、苦手なことでもやらなくちゃいけない。
 目の前の店員はまた同じ言葉を繰り返す。
「そちらは汚れがございますので……」
 納は言葉を換える。
「売ってはもらえないのでしょうか?」
 店員はまたリピートする。
「そちらは汚れがございますので……」
 それは1回目に聞いたときにわかったんだけどなあ、と思う。
 聞いているのは、このカッパはいくらで買えるのか、あるいは非売品なのかである。
 しかし、店員は汚れがあるとしか言わない。作り笑いを露骨なものにしながら、頑なに汚れがあるとしか言わない。
 嫌そうな顔で笑顔を作っている。逆に納はいつも通りの無表情で突っ立っている。
 京都はこういうことの頻度が多い。だからあんまり好きじゃない。
 同じく無表情なカッパをまた見る。
 どこかふてくされた顔のカッパである。自分も同じ顔をしているのかもしれない、と思う。
 と、いうことは表情はあるのか?
 しかし、これ以上どうやって回答を絞れば良いのだろう。もはやハウマッチではなく、イエスかノーかを問うだけになっている。
「むう」
 質問を考えこむ。店員の嫌そうな雰囲気が増す。
 やだなあ、と思う。
 怒ってる理由を教えてくれたら、改めるのになあ、と思う。
 改められないかもしれないけど、謝れるのになあ、と思い直す。
 嫌そうな雰囲気はお化けが出る効果音に似ている。
 どろどろどろ……出るぞ出るぞ、ぜんぶおまえがわるいんだ。だからお化けになったんだ。
「ノープログレム。ヒー、イズ、バイ、ディス、モンスター」
 ハッキリした声が響く。一刀で斬り捨てるように。当然、というように。私はお化けより強いのだというように。
「メフィスト!」
 黒いレースに包まれた指が振られる。
「ノノノ、ノウ」
 軽いたしなめ。
 会話に割って入った黒ずくめの白人女性。【鉄の女王】メフィスト・フェレス。店員はいきなり振り向き大声を出す。
「店長! こちらの外国のお客様、お母さんの方が日本語全然通じへんみたいで!」
 今まで接客していたのを放り出し、店長がすっ飛んで来る。
「えろうモタモタしてすんまへん。こちら、汚れのため処分品でしたよって返品できませんがよろしですか?」
「イエス」
「ほな、半額にお値引きさせていただきます。600円です」
「サンキュー」
 いきなりパタパタパタッとやり取りが進んだ。背中を叩かれてやっと財布を出す。
「ご自宅用ですか?」
「自分用です。袋なくていいです」
「はい。ではこちら。お待たせしてほんますんませんでした」
「グッバイ」
 速足のヒール音を慌てて追いかける。
「メフィスト! あの、ありがとう」
 ため息交じりの返答。
「お礼をきちんと言うのは良いことやけどね、納。君はさっきの自分の状態がわかってるか?」
「カッパ売ってもらえなさそうだった」
「それはそうや。せやけどな、その前に迷子やから。振り返ったらおらんようになってて、引き返したらその絶妙にかわいくないカッパに夢中になってたんやよ。わかった?」
 トン、と鼻をはじかれてやっと気づく。
「ごめんなさい」
「わかればよろしい」
 ぎゅうと物言わぬぬいぐるみを抱きしめる。カッパが「未熟者め」というような顔をする。
「ねえ、なんでさっきあんな発音でしゃべってたの?」
 メフィストの返答に怒りが混じる。
「普段通りにしゃべったら、バカは聞き取れへんから」
 いつになく言葉が汚いのに驚く。メフィストは速足の上に早口を加える。
「バカな日本人は、外国人だけはストレートに言わないとわからないと思ってるからな」
「あの、何言ってるかわかんなかったのは僕の方だよ?」
 しかも迷子にまでなった。
「あの店員の方がよっぽどバカや。まともなおつむなら一言で遠回しに言っても通じないと理解できる。しかも、あんだけ明瞭に質問されてるんやで? それを延々同じ返答! 最底辺のバカやなあれは」
「ごめんなさい。遠回しになんて言ってたの?」
「処分品。以上。漢字にして3文字! あんだけ画数の少ない漢字で3文字やで! その程度のことも答えられへんとは! 小学校から出直してこい!」
 早口の上に怒りが増されていく。納はカッパを抱きしめて追いかける。
「だってね、でもね、僕がね」
「確かに物事を遠回しに言うのは日本の文化。それも京都で特に発達した文化や。文化を否定することは許されない。せやけど、結果として他人に不便を強いるのもまた許されない。戦場にならない期間が長すぎたんや」
 怒りのスケールが大きくなる。
 納は縦に長い体を縮こめる。
「軍事的交渉ができるまで成り上がれる戦(いくさ)が遠すぎるんや。戦の交渉となれば、あんな遠回しな言い方、いくらでもわざと解釈を間違えられる。一見遠回しに見えて、何よりも直球でやり取りできなあかん。それがこんな体たらくとは! ああ、文化を尊重したるわ! どうせ次に焼け野原になったときに一緒に燃え落ちる文化や!」
「あの、あの、メフィスト、ごめんなさい。なんだか口調が乱暴に、あ、ううん、ちが」
「バカをバカと言うてるだけや。観察力がない人間というのはバカでも褒めてるに等しい。私にこんな大きな子供がおるわけないやろ!」
 最後の最も力を籠めた言葉に、納は怒りの理由を知る。メフィストは30歳くらいに見えるから、なくもないんじゃないかとも思う。それは黙っておいて、話を逸らす。
「どこに向かってるの?」
 メフィストは苛立たし気にコンパクトを見せる。一見ファンデーションのケースのようだが、鏡の代わりに電子地図が入っている。
「……ホテルで待ち合わせ?」
 魔導ナビというそれは、呪い持ちの居場所を契約悪魔に教える道具だ。しかし、電波(の、ような魔力の気配)が弱すぎて戦闘中は使えない。
「……こんなところで待ち合わせやったら……あいつも炎にぶち込んだるわ……」
 ますます増す怒り。かっかっかとヒール音。
「メフィスト、待って」
 待たずにドレスの裾をひるがえし、メフィストは扉を開ける。
 フロントに叩きつけられる札。
「鏑木一刀斎はどこにおる」
 かぶらぎいっとうさい、その名前を聞いてざわめく。
 ……ラブホテル。
「ついにこの時が……」
「遅かったとも言える……」
 ……納得のざわめき。
 すっと、合い鍵が出される。
 またかっかっかと歩き出すメフィストを追いかける。
 背中にやさしい声。
「ボク、こわなったらすぐおっちゃんらのとこ来るんやで」
「ありがとうございます。でも、僕は逃げません」
 京都の人は言葉が通じればやさしい。
 かっかっか。
 メフィストもいつもはやさしいのに。
 くすんだピンク色の扉を派手に開け、メフィストは怒声を上げる。
「コラァ一刀斎! この私の約束をすっぽかしてお楽しみとは分をわきまえんかァ!」
 からし色のまっすぐで長い髪。細くて白い体。
 お酒の臭い。
 ……女の人かな?
「誰やこの女ァ!」
 隣で寝ていたもう1人の女の人の怒声で飛び起きる人。
 裸を見て訂正。男の人だった。
「え、いや、誤解じゃ駒子」
「駒子って……誰やその女ァ!」
 まさかのリピート。ではこの女の人は誰なのか。
「え、誰……? 誰って……」
 まじまじとその男の人は、隣の人を見る。
「おぬし……誰じゃ?」
 この後、怒り狂った女の人が裸のまま部屋を出ようとしたり、その人が納のことをまたメフィストとの子供と間違えてメフィストも怒り狂ったり、フロントの人たちが全員飛んできたり、とにかく大騒ぎの隅っこで。
 納はカッパに話しかけた。
「あの男の人が僕の先生なんだよ」
 腕の中のカッパはとても不本意そうだった。

 

 五月十五日
 京都で僕たちが泊まってるのは3DKのマンションで、僕は蛍と同じ部屋でうれしい。ユキとメフィストは一人部屋。蛍がピンク色のお花がきらきらしてるノートを持ってて、日記帳って言ってたのでかっこよかった。
 中は見せてくれなかったけど僕もやりたいって言ったら、京都駅のそばのショッピングモールにいっしょに行ってくれた。
 文房具コーナーのノートどれにしたらいいかわかんなくて、えらんでって頼んだら蛍は「しょうがねえな」って言ってくれたけど、ユキはダメって言った。
「そういうのは納が自分でえらばないと意味ない!」って言った。よくわかんないけど、とりあえず一番安いノートとシャーペンを買った。
「それでいいです?」ってまた聞かれたらから「だめ?」ってきいたら「いいですけど」って言って、ユキはむずかしいこと言う。
「文房具のテナントも入ってるですよ」って言われたけど、それもなんでかわかんなかった。
 ユキが蛍に「納は蛍のものじゃないですよ」って言ったら、二人ともおこってるふんいきになったのもなんでかわかんない。
 わかんないじゃない。わからない。
 メフィストに日記つけるけど、書き方わかんないって言ったら「毎日書かんでもいいから、印象に残ったことを書き」って言った。
 ちがう。わからない。
 書けたから見せてくる。
 今日の晩ごはんはあじの塩焼き。お魚大好き。
 明日先生に会える。

 

≪空六六六ぷらす! じゅうなな! ≫

 

ユキ「う……ウン……日記1日目無事書けたネー」
蛍「せいぜいその調子で続けてけよ」
納「うん! ありがとう!」
蛍「……行ったな」
ユキ「蛍、言ってクダサイ。別に見せるモンじゃないっテ」
蛍「ふざけんな自分で言え」
ユキ「無理ダヨー。すごい嬉しそうダヨー。お兄ちゃんデショ、言ってヨー」
蛍「都合のいいときだけお兄ちゃんにすんじゃねえよ!」

 


水無月3

 鏑木一刀斎は怒声か悲鳴かわからぬ声を上げた。
「何なんじゃあのガキは!」
 メフィスト・フェレスは呆れと叱責が混じった返答をした。
「君こそ何なんや。まだ半日しか教えとらんで」
 七竈納が鏑木流抜刀術に入門した夜。祇園の一室にての会話である。
 いつもならば芸子が酌をするところだが、今日は手酌だ。
 春鹿をぐいとあおる。メフィストは品よく杯を干す。
 縹色(はなだいろ)の単に武道袴。紅葉を散らした透けるようなショールだけが季節外れな男。
 黒一色のゴシック調ドレス。袖部分を広くレースにしているのが季節に合う女。
 上座から女は問う。
「で、何があったんや」
 バツが悪い一刀斎は、塩味のおかきをばりりと噛む。
 酒で流し込み、話し始める。

 

 出会いが出会いであったのは認める。しかし、こうも無表情に不服なツラができるものか。
 目の前の少年を見上げて、内心舌打ちする。
 他に弟子がいないと知ったときから、露骨なツラになっている。
 もっといいのが良かったとでも言いたいのか貴様。
 座右の銘。武人は単純であれ。
 かくして、一刀斎は即座にヤキを入れてやることにした。なめられたら二度となめられぬようにビビらせるのだ。武人は単純であれ。
 まだ詰め襟のガキを睨みつける。
「斬られた痛みを教えてやる。今から貴様をたたっ斬る故、貴様はまっすぐ突っ込んで来い」
 抜刀。次の瞬間、傍らの梅の木を両断する。
 どさりと木の半分が地に落ちる。少し惜しく思ったが、口には出さない。代わりに嘲る。
「どうした? 早く来い」
 無銘ながら白々とした秋水を見せつける。さすがに恐れたであろうと口角を上げる。
 ガキはじいっとその日本刀を見つめている。そして確認する。
「まっすぐ突っ込んで斬られるだけでいいんですね?」
 相変わらず表情がない。
「うむ。早うやれ」
「わかりました」

 

 一刀斎はドンと畳を叩く。
「儂でなくばあやうく首をはねるところであったわ!」
「ほほう。流石。どこまで刃を迫らせたんや?」
「詰め襟の首のホックまでは斬った」
「流石流石」
 にやにやと刺身をつまむ。対して一刀斎ははあ、と大きくため息を吐く。
 儂でなくばは誇張ではない。そこまで刃を近づけて、どこも斬らぬなど他にできる者はない。物理学者が「まあ、いないと見なしてもいいでしょう」と素人向けに言う確率の存在だ。
 あの十五や十六のガキも承知で、「……斬らないんですか?」ときょとんとしていた。承知するものが多すぎる。
 うすのろめ。
「あれは儂の思うままにしてよいのか」
 メフィストは一刀斎の杯に春鹿を注ぐ。
「どのように育てるつもりなん?」
 一刀斎は朱塗りの杯を一気に干す。
「生き延びさせるように」
「ふむ」
 メフィストは己の杯にも酒を注ぐ。そして、口調を戻した。
「やりたまえ」
 一刀斎はまた手酌をする。
「具体的に何をするかは聞かんのか?」
 メフィストは小さく杯に唇を寄せる。
「上からごちゃごちゃ口出ししなくていい教官を選ぶのが、将のすることだ」
 少し、微笑。
「あれが気に入ったかね」
 一刀斎は刺身のつまをたいらげる。
「気に食わんのだ。あれはあのままではすぐに死ぬ」
 いつまでたってもつまらん時代だ。
 そうぼやき、また杯を空にする。
 メフィストは高野豆腐を食べる。
 隣室から三味の音が聞こえた。

 

 14日後。
「何なんじゃあのガキは!」
「君ね。前回の同じ台詞から二週間しかたってへんで。語彙力か? 語彙力の問題なんか?」
「やかましいわ!」
 奇しくも部屋も同じである。肴のメインが鱧なことだけが違う。
「で、何があったん?」
「懐きおった」
「ええことやん」
 苦虫を噛み潰し切った顔で、杯を一気にあおる。
 メフィストはやはり、品よく唇をつける。
「いいわけなかろう! 「せんせい、せんせい」と纏わりつきおって! 新聞読んでるだけで背中にべったりじゃぞ! でかい図体で! 儂を父親とでも思っておるのか、あのアホは!」
「君は16のころ父親にそんな風に接してたんか?」
 静まる。
 冷や汗が落ちる。
「……おぬし、あの山狩りのことをどこで……?」
「いや、初耳やなそれは。どんな反抗期や、山狩りて」
 言えない反抗期だ。知られていなかったか。よかったよかった。
 安堵の息と対照的なため息を吐かれる。
「父親やと思ってたら、そんな風には接しへんよ。あの子は。君がなんかもっとええもんみたいなこと言うたんやろ。自業自得。因果応報。嘆くなら草葉の陰に行き」
「くっ」
 呻くしかない。鱧の湯引きを一口で食う。まだ旬ではない。
「どんな教え方してるん?」
「ふん。生きられるように、じゃ」
 指についた梅の汁を舐める。
「あやつ、見たもんを全部覚えおる」
「全部? どこまで全部だ?」
 口調が戻る。
「どこまでも全部じゃ。録画と同じく、目に映ったものすべて。取捨選択なく記憶する」
 しばし黙。
「それは厄介だな」
 頷く。
「ああ、常に集中しすぎておる。あれではいずれ体力が尽きる。さもなくば発狂する。壊れるのが早いか死ぬのが早いか、どちらかしかない」
 細い指を唇に寄せ、メフィストはまた黙す。
「思うままにしてよいと言うたな」
「ああ。違(たが)えるつもりはない」
 メフィストから徳利を奪う。
「お主が気に食わんようにする。百ぺん殺しても飽き足らぬと儂を恨むであろうよ」
 ラッパで呑む。
 酒が畳に滴り落ちる。

 

五月二十日

 

 日記がけっこうあいた。書きたいときに書けばいいってメフィストが言ってたのでいいと思う。一刀斎先生はやさしい。
 弟子になった日に背を測ったら186センチで、目方を量るって先生に片手で持ち上げられた。「刹那的な体じゃな」って言って「とにかくでっかくせねばならん」って言った。
 僕は動きがおそいから、力を強くする方がいいって言った。
 それで、たまごやきとおにぎりとおみそ汁いっしょに作って。その前に先生がたたっ斬るからつっこんで来いって言ったけどなぜか斬られなかった。制服がだめになっちゃったから道着着てる。ぶかぶかだけど合うくらい大きくするって言ってた。最初におにぎり食べてたら、「お前、まずしい生まれか」って聞かれて、なんでわかるんですかって聞いたら、口に詰め込めるだけ詰め込んで長々と味わってるのと、箸が使えんのを恥じて物欲しそうにひたすらたまごやきとみそ汁を見ておるのでわかるって。その後、「お前は気を張り詰めすぎじゃ。めしくらい気を抜いて食え」って言ったけど、僕は気を抜くってどうするのかわかんない。先生がごはんは別々に食べることにしてくれた。
それから、何かせいと言われてないときは好きにせいって言ってくれた。好きにもよくわかんなかったけど、映画でくつろいでるシーンみたいな風って教えてくれた。うれしかった。ぎゅっとしてもいい大人の人ができた。うれしい。
えーと、後、鉄の入った木刀振ったり、走ったり、筋トレしたり、ヤクザの人たちがたくさんいるところにかちこんだりしてる。先生の普段のお仕事はかちこむこととかちこみ方を教えることだって聞いた。先生はすごく強い。ねむくなったねる。

 

 

≪空六六六ぷらす! じゅうはち!≫
納「先生、お塩だけの卵焼き作っていいですか? 本に出てきました」
一刀斎「構わんが。それは酒のつまみじゃぞ。呑めんヤツが食ってものう」
納「ダメですか?」
一刀斎「まあ、貰い物の塩があることじゃしの。作りたくばやってみい」
 完成
納「……?」(微妙な顔)
一刀斎「ほれみろ。酒の味がわからんガキにこの味はわからん」
 その夜。
(そういう意味で)仲良しの女「こないだあげたん使ってくれたー?」
一刀斎「ああ。なかなかうまかったぞ」
(そういう意味で)仲良しの女「食うたんかアレ!?」
一刀斎「塩じゃろ?」
(そういう意味で)仲良しの女塩いうたかて……「バスソルトやで!? 入浴剤やで!? えー……うまかったって……うわ……」
 翌朝。
納「先生が朝ごはんおうちで食べるの珍しいですね」
一刀斎「うむ。納よ、よい女とは思いきりもよいものじゃぞ」
納(察した)

 


水無月4

「陽炎(かげろう)! 起き! 起きぃて! 早よ起き!」
 やかましい。起きろの三段階活用京都バージョンかクソババア。
 枕元の時計を見れば、まだ8時前である。2時間も寝ていない。俺の夜勤率はJRの駅員並みやぞ、クソババア、とまた胸中で毒づく。
「早よ起きぃて言うてるやろ! いい加減にしぃ!」
 こちらの方が100倍いい加減にしてほしいので、陽炎は渋々寝床を抜け出る。
「なんなんや」
「あんた寝間着のまんまやないの! 人に会う恰好ちゃうやろ!」
 人に会うなどということを初めて聞いた。
 そもそも、朝っぱらからアポなしで他人様のお宅を訪問する方が非常識でないのか。そんなヤツに礼儀は不要ではないか。寝間着でよくないか。
「早よ着替えて来(き)ぃ!」
 しかし、世の母親というのはそういう理路整然とした話は通用しない。渋々、着替えに戻る。
 甚平に着替えてくると「なんも変わらんやないの!」が来たが、無視して玄関に向かう。こちらの決意が変わっていないのだから、なんも変わらんで当然である。客を追い返してすぐ寝直す。不退転の決意ならぬ必退転の決意だ。
 京の町家の造りはうなぎの寝床。奥の自室兼仕事部屋からまっすぐ行けば玄関。
 そこにやたら背が高く細い男女と、愚弟が突っ立っていた。
 男女。否。男ではない。少年だ。
 顔のパーツがどれもかれも派手なつくりの少年。左目を医療用眼帯で覆い、それをさらに眼鏡で覆っている。人形のように首を傾げる。
「陽炎お兄ちゃん……?」
 男特有の艶めいた低い声。アンバランス。既視感。否。既に見知った人物。
「なんや、お前か」
 七竈であった。生きていたのか。意外だ。
 隣で弟が嬉しそうなゾンビといった体(てい)で立っている。
 ああ、こいつは七竈に惚れとったな、と思いながらスルーする。
「兄貴、なんで男やって教えてくれへんかったんや」
「自分で気づけ、アホ」
 年の離れた下の子らしい発言だが、こちらも兄らしく冷たく対応する。惚れた相手の性別くらい気づけアホ。
「で」
 長身の女に向き直る。白磁がごとき白い肌、ゴシック調ドレス。顔のパーツがどれも品の良いつくり。こちらの方が人間らしい。
 しかし、人間ではない。
「なんでおんねん。メフィスト・フェレス」
「土御門の。運というのは自分で引き寄せるモンや。しかし、運が良かったときの感謝の心を忘れたらあかんぞ」
 人を叩き起こしておいて、何をしみじみ語っているのか。まあ、七竈とこの女が一緒に来た地点で、良からぬことをしでかしたのであろう。
「メフィスト、陽炎お兄ちゃんの知り合い?」
「ああ、先代のころから仕事でなぁ」
 親しげな口調。男女の関係ではない親しさ。
 呪い持ちか。
 ふいに嫌な感覚を覚える。感情ともいう。哀しみともいう。
 七竈は「お兄ちゃん、久しぶりだねえ。すごい。大人になってる」などと嬉しげに言う。
 嬉しげなのに、表情というものが喪失している。
「メフィスト・フェレス。そいつは……」
「あんた、久しぶりに会(お)うたのにそんな不愛想な顔して。ごめんねえ、いくつになってもこうやねよ。それより朝ごはんまだやろ! 食べ食べ!」
 母親というのは工事用スチールボールの類らしい。空気を一撃で粉砕する。
「土御門の、実はな」
 手を振って遮る。
「後でメールで」
 スチールボールが文句を言うが、聞こえないふりで自室に戻る。明日も朝から仕事なのだ。必退転だ。

 

 八つ時。しかしながら、食べるのはエビフライである。日頃の「家で揚げ物作るなんて、ええこと1つもない」という信条はどこへやったのかスチールボール。
「ごちそうさん」
 口内に残った尻尾を堪能しつつ、スマホを開く。
 メフィスト・フェレスからのメールが入っている。
 あの朝っぱらからの騒動は、愚弟が晴明神社のベンチで熟睡している七竈と再会し始まったらしい。
 感動の再会というものをやっていたその時、その場にいた民間人(こういう書き方がメフィスト・フェレスという女だ)の上に木材が倒れてきた。
 七竈はとっさにその木材を、体で受け止めた。
 が、民間人は恐怖で腰を抜かしてしまい、動けない。
 七竈は質問した。
「死にたくない?」
 民間人は答えた。
「し、死にたくない! 俺なんかが生きたところでいうんはわかってるけど、けど」
 七竈は遮り。
「今は哲学の話をする余裕がない。かがり火! 僕の荷物にスマホが入ってる! そこからメフィストに電話して!」
 両腕どころか体全体を使ってやっと木材支えている状態に関わらず、片手を離し。
 民間人を掴んで木材の下から、放り出し。
 そのまま木材の下敷きになった。
 愚弟の電話でメフィスト・フェレスがかけつけたときには、体の半分が潰れてミンチ状態だったそうだ。
 時間回復(タイム・リカバリー)が、後30秒遅れていたら死んでいたと。
 居合わせたのが土御門の一族で助かったという結びまで読んで、納得する。
 やはり、怪物とならねば生きられなかったか。
 天を睨む。
 とかくこの世は忌ま忌ましい。

 

 翌日。丹後から帰宅すると、玄関で七竈とばったり会った。愚弟もいたが、同居している家族なんぞどこで会ってもばったりではない。
 相変わらず道着に革靴という妙な格好をしている。首に巻いた縮緬に関してはもはや妙とすら思わない。7年前もえんじのリボンを同じように巻いていた。
「おかえりなさい」
 ああと適当に返す。篝火はようやくぞんざいな「おかえり」を言う。七竈は陽炎をじぃっと見る。これも7年前と変わっていない。何かに目を引かれれば、いつまでもじぃっと見つめている。
「陽炎お兄ちゃん、コスプレ?」
「そんなわけあるかい」
 しかし、己の恰好を改めて見ると、黒一色の着流し、羽織に五芒星の紋、黒足袋黒手甲。京極夏彦が描く憑きもの落としのコスチュームと同じであった。なるほど、生業を知らねばコスプレに見えるだろう。
「仕事着や」
「ふうん」
 まだじぃっと見て。
「お兄ちゃん、もっと背が高いと思ってたなあ」
 などとほざく。首を上げてもらっておきながら、いい度胸である。
「お前、身長何センチや?」
「昨日計ったらね、188センチに伸びてた!」
「ふん」
 背だけすくすく育ったものだ。他はまるきり育っていないくせに。なんだそのしゃべり方は。幼女か。
 7年前と変わっていないではないか。
 それが何をするかを考えると嫌な感覚が蘇るので、話を変える。
「篝火、テスト中ちゃうんか」
 手のひらを上下させ、20センチの身長差に愕然としていた愚弟に追い打ちをかける。兄の身長も7年前と変わらないのだ。土御門の産道をくぐるとき、汝一切の望みを捨てよ。
「えっ。いや、あ、後で」
 追い打ちに弱いヤツである。
「三流大なんて行くだけ金の無駄やぞ」
「うっさいわ高卒!」
 負け犬の近吠え。なんせ大黒柱はその高卒。本当に「金の無駄」とするかの決定権は陽炎と母にある。
「かがり火、勉強してないの?」
 じぃっという視線がくるりと移動する。
「い、いや、してないこともないねんけど……」
「テスト中なんだよね?」
 いい殴り方だ七竈。愚弟は七竈に対してはえらく恰好つけであるし。
 七竈は高校に行くことができないことを知っているのだ。
 そこで陽炎は顔をしかめる。
 自分の思考で、嫌な感覚と記憶を蘇らせてしまった。
「兄貴?」
「陽炎お兄ちゃん?」
 3つしかない目が怪訝と心配を浮かべる。
 陽炎はしかめっ面で手を振る。
「何(なん)もない」
 ふいに昨日のメールを思い出す。
「七竈って名字やったんやな」
 きょとんと眼鏡の下の目が開かれる。
「うん」
 それを下の名前と勘違いしたのが、篝火の恋の一端を担っていた。
「土御門は分家によって、男子の命名に規則がある。うちは火行に関する漢字を入れる」
 草履をそろえる。
「木生火や」
 なあにそれなあにとやかましいが、無視して自室に戻る。
 文机がある。7年前はまだ「お父(と)んの」という扱いであった。
 つまり、誰も使っていなかったのだ。
 生前の父親は、毎日ここで電卓を弾いていた。
 これが、現在は何を置いているかを知ったらどう思うだろうか。
 土御門陽炎は目をつぶる。
 ずるずると疲労に任せて、畳に座る。
 記憶が開く。この生業を選んだきっかけが。中学生の土御門陽炎が。

 

 中学2年生というのは、反抗期がアイデンティティみたいなものだ。
 大人のやることなすこと気に入らない。自分の力を大きく見る。そのくせ、たかが中学校に1年通っただけのサルにすぎない。
 土御門陽炎も例外に漏れず。やたらと死んだ父だの生きている母だの学校の連中だのが、自分のことをわかってくれないと思っていた。
 今思えば、1番わかっていなかったのは自分自身であったと思う。
 賢い子と扱われていたのは、偏差値の高い中学に通える環境を整えてくれた父母のおかげであり。学校で浮いた存在であったのは、不愛想でろくに喋らないくせに、喋れば知識をひけらかすためであった。
 要するに賢くもなんともなく。それでもいじめなどにあわないという学校生活。衣食住は母によって与えられ。その元の資金は父が遺したコインパーキングから出ていて。
 恵まれていたのだ。気づかなかっただけで。
 ひたすらに反抗期をしていたし、できる生活だったのだ。
 だから、その小さいのがいつから家に来るようになったのか、知らない。
 弟とは年が離れている上に性格も合わなかった。今でも、合わない。当時から「兄貴はへんくつなヤツや」と周囲に紹介されていた関係である。アホながら人を見る目は確かなようだ。今でも偏屈者の自覚はある。
 その頃はまだ自室は2階で、弟と隣あっていた。陽炎の部屋の方が狭く、日当たりも悪かったのはいずれ父の仕事部屋を与えるから、という理由であったのだろう。
 春か初夏かわからない日。西日本特有の土砂降りに追われて帰宅した夕方。その小さいのは陽炎の部屋にいた。
 こちらを見て、怯えた顔をした。妙なちびだと思った。黒の半ズボンはサスペンダーが一体となったフォーマルなもので、子供の普段着にはふさわしくない。しかも、かなり古びて色あせている。
 女児か男児かもわからない。青白く、やせた小さい子供。
 手には、「魍魎の匣」のタイトルがあった。分厚いその本を重たそうに両手で抱えていた。
「誰やお前」
「七竈……」
「篝火の友達か」
 七竈と名乗った小さいのは、しばらく考えた。
「お友達になってくれるかなあ……」
 ぽうっとした返事。
「篝火は何しとるんや」
「宿題……」
「お前はもう済んだんか」
 細い手はぎゅうっと本を握りしめた。
「おとうさんが……学校行っちゃだめって……」
 当時の陽炎が、言われた言葉の意味を理解できたとは言いがたい。
 しかし、この小さいのが書物を欲しているのだけは理解できた。
 中学生の小遣いでは高い方の小説だったが――。
「後で返しに来いよ」
 青白かった頬が桜色に染まった。
「ありがとう!」
 その時から、陽炎は「何でも知ってる陽炎お兄ちゃん」となり。
 した理解は成長とともに痛みに変わり。
 今の土御門陽炎の生業となっている。

 

「生きとったか……あいつ」
 座っていた体が横倒しになっていく。
 い草の香りが強く湿る。
 雨が降ってきたのだ。土砂降りの雨が。
「木生火。金剋木」
 呟きは雨に溶け、流れて土にしみ込んだ。

 

 五月二十五日
 明日は病院に行かないといけない。やだ。

 

≪空六六六ぷらす! じゅうきゅう!≫

 

納「陽炎お兄ちゃん、あのね、あのね」
陽炎「俺、お前のお兄ちゃんちゃうぞ」
納「あ……そうだよね。前は9歳だったから、かがり火もお兄ちゃんって呼べって言ってたんだね」
陽炎「……その「お兄ちゃん」って篝火が呼べ言うたんか……?」
納「う? うん」
陽炎(自分は兄貴って呼んどったやないか……。あいつ、何に目覚めとんねん……。きっつ……)
納「お兄ちゃんは寡黙だねぇ。昔のまんまだね」

 

 


水無月5

ブレザーを脱ぐだけでなく、ネクタイまで外してもまだ暑い。
 盆地の梅雨というのは忌ま忌ましいとか憎らしいとかそれ以外形容できない季節だ。
 山に閉じ込められた空気は太陽光でスチームされて溜まり、そうでない日はドカドカ雨が降る。
 じっとりと張り付く、不快指数。
 自転車の籠に全部放り込んで、戻り橋の方へペダルをこぐ。
 元はあの世とこの世の境だったと云われる橋。
 現在はコンクリート製の橋の傍らに、小さな児童公園がある。
 この辺りは住宅地だ。京都の者以外は観光地と思っているが。
 ブランコの傍らに古ぼけたベンチがある。
 道着の背中に、縹色の縮緬が垂れ下がっている。出会ったときは前でちょうちょ結びにしていたそれは、今は後ろで縦結びになっている。
 この数週間で、ずいぶんと大きくなった背中。
 七竈は結局、蹴上の師匠宅へ通いで学び、八条の民泊に帰る生活を送っている。「でも時々先生のとこにお泊まりもするよ」とのこと。
 稽古が終われば、篝火の家に遊びに来る。
 蹴上から堀川通りは結構距離があるのだが、とことこ歩いてくる。
 ……もう、とことこというオノマトペが似合う容姿ではない。
「とにかく体をでっかくしろ」という師の方針により、どんどん筋肉質になって。
 儚げな美しさは消えた。
 代わりに、誰もが振り向く華やかな美しさを手に入れた。
 自転車の音に気付いたようだ、ぱっと立ち上がり振り向く。
「かがり火ー!」
 右手を大きく振る。しかし、篝火の視線は左手に奪われる。
「何してんねんお前!」
 七竈はいつものぽうっとした顔でしばらく考え。
「手を振ってる」
「そっちちゃうわ!」
 いつにない篝火の剣幕に、自分の何が気に障ったか考えている。
 考え終わる前に、口に出す。
「煙草! なんで吸ってんねん!」
 ますますぽうっとした顔をされる。
「ここ、禁煙だった?」
「そうやないわ!」
 普段の篝火なら、同級生の喫煙を見かけようと見ていないふりをする。
 だが、七竈が紫煙をくゆらせているのは許せぬ。
 恋の残滓が許せぬと言う。身勝手な許せぬを繰り返す。
「なんで吸ってんねん。そんなん」
 当惑した返答。
「おなかすいたから」
 こちらも当惑する。
「なんで腹減ったら吸うんや」
「おなかいっぱいになるから」
 誰もが振り向く美丈夫。しかし、話し方は昔のまま。
 9つのまま。
「かがり火……怒ってる?」
「怒ってへん」
 射干玉(ぬばたま)の右目が不安に揺れる。
「金持ってないんか」
 こてん、と首を傾げる。
「持ってるよ? お給料もらってるもん」
「ほんならコンビニがそこにあるから」
「うん。あったね」
 ふざけているのではない。コンビニがあった。それだけのことを言っている。それ以上は、彼にはわからない。
「コンビニでなんか買って食うたらええやろ」
 大きい射干玉がさらに見開かれる。
「コンビニでおやつ買っていいの!?」
「ええ」
「いいの!? ホントにいいの!?」
「ええて」
「行ってくる!」
 すぐ走り出し、案の定転び、すぐ起き上がる。
 篝火はその後を追う。9つの土御門篝火が、さらに追いかけてくる。

 

 幼かったころ、糸が見えた。
 白く汚らしい糸が、人間に絡みついているのが見えた時期があった。
 それは絡みついている人もいない人もいて、糸の量も人によって違った。
「お父(と)ん。あれ何や」
 父は少し黙った。
「お穢(けが)れさんやな」
「何やそれ。お穢れさんて何なん?」
 父――土御門不知火――は、目元を和らげた。
「その糸はな、悲しい気持ちとか、さみしい気持ちとかそういうもんやねん。そういう気持ちがな、ぐるぐる巻きついてうまいこと動けんようになったりすんねぇや。そういう人のことをお穢れさんってお父ちゃんの仕事では呼ぶねん」
「俺にしか見えへんの?」
「うん。見えへん」
「お穢れさんにはどないしたったらええの?」
 目元がさらに緩んだ。
「やさしいしたげ。やさしいしたら、お穢れさんや無(の)うなる」
 そういう父の体を、一瞬で糸が絡み取った。父はなんでもないように、電卓を叩く作業に戻っていった。
 半年後、出張先の事故で父は死んだ。無口なひとだった父と、深い会話をしたのはその時だけだった。
 二年後、晴明神社のベンチで七竈が寝ていた。
 学校の帰り道での発見。
 まだ半分眠っているような顔で、名字を名乗った。
 それを下の名前だと思ったから、かがり火と名乗り返した。
「かがり火」
 オウム返しをして、七竈は笑った。
 声を立てず、小さな花のように笑った。
 その体は全身がお穢れさんで、逆に繭に守られてるのかと錯覚するほどだった。
 それを連れて帰ったのは、義侠心のようなものだったと思う。
 ほうっておけなかった。小さい、弱い、これを。
 七竈は東京の言葉を使ったり、自分のことを僕と言ったり、アイドルの少女そっくりの仕草をして。
 いつも声を立てずに笑っていた。
 9歳の彼らもまた、この公園で待ち合わせをしていた。
 同じ学年だったが、七竈はかがり火よりずっと小さかった。
「あのね、3月になったらね、お誕生日だから、かがり火よりおっきくなれるよ」
 そうか、あの時七竈はまだ9歳にもなっていなかったのだ。
 出会った日も6月で、かがり火は7月生まれだから、ほぼ丸1年年下だったのだ。
 ほんとうに、小さく、弱かったのだ。

 

「かがり火! これ全部買っていいの!?」
 はっと現在の七竈に変わる。
 20センチほど高いところから、はしゃぐように言う。
 しかし、笑ってはいない。
 七竈は笑わなくなった。
 いつからか失くしてしまったのだろう。
 篝火の糸が見えなくなったように。
「全部は買えへんやろ」
 七竈は考えて言い直す。
「なんでも買っていいの?」
「そらええけど」
 えっとね、じゃあね、と店内をうろうろする。意外とやかましい男なのだ、昔から。
『肉まん類最終日!』のPOPの前で、「かがり火! これも買っていいの!?」と騒ぐ。店員が戸惑った視線をこちらに向ける。篝火はあわてて「ええよ!」と叫ぶ。
 んっとんっとえっとえっとと、温め機の前でまた迷う。迷い放題だろう。この暑さで全商品勢ぞろいなのだから。
 散々迷った後、「チーズ肉まんください」と言う。
 店員はほっとしたようにトングを使う。
「からしつけますか?」
「からしつけないです」
 袋を大事そうに抱えてくる。
 公園に戻る道々、何度も袋をのぞき込む。
「コンビニ行ったことないんか?」
「あるよ。でも、おやつ買ったのは初めて」
 あ、と声を上げる。
「また買っていい?」
 空気が蒸されていく。
「いつでも。自分がほしいとき買え」
「いいの?」
 縦結びの縮緬がひらひら泳ぐ。
「かがり火はずっとやさしいね。ちっちゃい時からずっと」
 土御門篝火は押し黙る。
 元のベンチに座った七竈納が、肉まんを半分に割る。
「はい」
 半分を渡される。
「……いや、もらっても……」
「いらない?」
「いや……その……腹減ってたんちゃうんか」
 七竈はこてんと傾げる。
「だって、目の前でおいしいの食べてるのに、独り占めされたらやだよ」
 そう言って口いっぱいに頬張り、長々と味わっている。
 京都の町が蒸されていく。
 日陰に奈落の花が咲く。

 

 五月二十六日
 病院に行った。
 なんで行ったかはないしょでメフィストと一刀斎先生と行った。前に京都にいたときに行った病院で、メフィストはお医者さんの先生とお話があるから残って一刀斎先生はバスじゃなくて電車だからバス停で別れた。
 バス待ってたら、知らないおじさんが「1人でバス乗れるの? えらいね」ってにやにや言った。僕が「うん。乗れるよ」って言ったらまたにやにやしてやだなって思ったけどだまってたら戻ってきた一刀斎先生がそのおじさんを殴り倒してびっくりした。
 それから先生は、僕にすごく怒った。「蔑(さげす)まれたら、殴らんか!」よくわかんなくて意味を考えてたら、先生はまた怒った。「お前は他人に見下されるためのおもちゃではない! なめた口を利くやつはすぐ殴れ!」表現のしかたわかんない。うれしかったのかな、びっくりしたのかな。わかんない。

 

 

≪空六六六ぷらす! にじゅう!≫

 

ユキ「ドンパチが足りまセン!」
蛍「そこは出番の方を言えよ。水無月に入ってから俺たちの出番ぜんぜんねえんだから」
ユキ「蛍は何もわかってナイ! 出番少ないキャラハマった人の二次創作、とても業が深イ! 自給自足勢強イ!」
蛍「されたいのかよ。二次創作」
ユキ「これに限らず、浮草堂作品は全部二次創作歓迎ダヨ!」
蛍「そりゃかわいくかいてもらえりゃ嬉しいか知らんけどさ」
ユキ「存分に白濁まみれにするいいデス!」
蛍「セックスアピールが激しすぎて、逆に萎える!」

 


水無月6

 太田満は震えていた。名前の通りの巨体を小さくして。震えすら必死に小さな振動にして。車内の振動でかき消されるように。
 助手席のガキはシートベルトの限界まで振り返り、ひっきりなしに太田の後ろの男に話しかけている。
 ガキといっても身長は太田よりはるかに高い。道着らしきものに包まれた肉体は鍛えられている。左目に医療用眼帯。その上に眼鏡。黙っていればどんな女も惚れる整った顔立ち。
 黙っていればの話だ。
「あのね、先生。それでね、そのシュークリームはコンビニにしかないの。コンビニの中でも、えっとね」
 さっきからずっとこの調子だ。「先生」が「せんせぇ」に聞こえる。AVのようなその発音が、もっとも歪(いびつ)に聞こえる。ああ、AV。AVの仕事にうつりたい。
 後部座席の「先生」は初対面ではない。
 あっちこっちの組で用心棒やら荒事やらを引き受けている男だ。どこの組にも属していない。「へこへこするのは嫌いじゃ」とほざいてどの組から話がきても断っている傲慢な男だ。
 こちらは道着ではないが、やはり袴である。女のような優男が茶髪を伸ばしているのだから、一見女にしか見えない。そして本物の女にめっぽうモテる。
 見目麗しい師弟と言えるだろう。
 だが、こいつらの手には刀がある。本物の日本刀がある。
 太田はヤクザだ。暴力には慣れている。
 しかし、今日見たものには慣れていない。初めて見る。そして二度と見たくない。
 今日、事務所が2つ潰れた。
 この2人によって潰された。
「でもね、ユキと食べてたらね。蛍に見つかって怒られた。また寝る前に食べて! って。寝る一時間前からはおやつ食べたら太るんだって。蛍はしょっちゅう怒るんだよ」
「ああ、わかった。ちっと黙っとれ」
「ごめんなさい」
「別に怒っとらん。単にやかましい」
「はぁい」
 鏑木一刀斎、この男はいったい”何”を連れている?

 

 蹴上の古臭い日本家屋に「お迎えに上がった」際、噂は本当だったかと納得した。
 祇園と木屋町で夜の女たちが沸き立った噂。
 鏑木一刀斎に隠し子がいる。
 それは太田の所属事務所に、目を血走らせた素人女が来た夜に沸騰した。
 隠し子がいる。同居している。一刀斎に似てはいないが、彫が深い顔だ。凹凸の多い顔と体型。同じように西洋人の血が混じっているように見える。絶対に隠し子だ。
 最近一刀斎があちこちの事務所を潰して回っているのもそれだろう。まずい女に手を出したのだ。金がいるのだ。
 ”隠し子”は、太田の目を見て言った。
「七竈納です。今日はよろしくお願いします」
 おっとりしているともぼんやりしているとも言えるガキだ。
 一刀斎は太田を紹介もせず、太田も名乗らず車に乗り込んだ。
 その時のガキは無口だった。
 一刀斎はすすめられる前に上座に座り、今日の行き先の説明を始めた。
 ガキも「はい。はい」と相槌を打つのだが、太田に向けての説明であった。
 どこにすっこんでいろという指示だ。お前なんぞじゃまだという意味だ。太田の面子なんぞまるっきり無視している。わかっていて無視している。
 ツラこそ女のようだが、粗暴な男なのだ。こいつは。
 それをオブラートに包みきって言うと、一刀斎は大声で笑った。
「儂程度の粗暴さなぞ、女はみな持っておる」
 関西の警察も沸き立っている。
 京都府警から情報が流れてきた。
「あっちゃこちゃで銃(チャカ)が動いとる」
 どこに売っているのかという質問への回答。
「売ってるんやない。使てるんや」
 1つ目の事務所正面で、一刀斎は今度は口角だけ上げて笑った。
「納。今日は儂にしかできんことを見せてやろう」
 なにが儂にしかできんことだ。だいたい刀一振りで事務所を潰しているというだけで眉唾ものだ。銃が使われているなどガセに決まっている。この男一人でそこまで強いわけがない。それを正面に車をつけるとは。監視カメラに丸見えだ。もう怒声だの足音だのが聞こえてくるではないか。門が開いたらすぐ車を出す。己を臆病だとは思わないが、無駄に死ぬのは勇敢さではない。
 一刀斎が木製の扉の前に立った瞬間、サイドブレーキを下ろした。まだガキが下車しきっていないが知ったことか。
 しかし、アクセルは間に合わなかった。
 一刀斎が扉を蹴破ったのだ。
「鏑木流抜刀術、推参!」
 一刀斎の大音声。走る組員たちの殺気。居合抜きの構え。鯉口が切られる――。
 太田の記憶はそこまでしかない。
 気がつくと、ガキにぺちぺち頬を叩かれていた。
「おじさん、大丈夫ですか? おじさん」
 相変わらずぼんやりしたガキだ。しかし、なぜ失神した?
「大丈夫じゃ。生きとる生きとる」
 一勝手なことを一刀斎が言う。真後ろに戻っている。
 はっとバッキバキに砕けた扉の向こうを見る。
 血の気が引いた。
 20、30、そこで数えるのをやめる。数十人事務所の者が皆死体となって転がっている。
 刀傷だ。
 斬り殺されたのだ。
「先生、速すぎて見えなかったです」
 自慢げに一刀斎は訂正する。
「速すぎたのではない。あまりにたくさんのことを儂がやったが故に、わからなかったのじゃ」
 また口角を上げる。
「メフィストの言葉を借りるならば、人間は目から入った情報を脳が処理して、初めて見えたと認識する。じゃが、儂はほんの少しの時間にあまりにたくさんの”行動”をする。走ったり斬ったりいろいろな。故に、脳が情報量が多すぎて処理しきれず、結果、目では見えても”見えていない”としか認識できんのじゃ」
 粗暴な者しかしない自慢。
 納はしばらく黙った。
「先生、それは僕もできるようになりますか?」
 一刀斎はあっさり答えた。
「ならん。言ったじゃろう。儂にしかできんと。お前にはお前の戦い方がある。そもそも、戦い方が同じ生物なぞおらん。体格、性格、人格、すべてが一致する生き物がある生き物なぞ、この世に一人もおらん。いつも言っておるじゃろう。儂の真似をするな。儂の言う通りに反射でできるようになれと。次はお前の番じゃぞ。おい、早く発車せんか。警察がくる」

 

 脳は処理しきれないものを拒否する。
 しかし、それ以上に恐ろしいものを拒否する。
 太田の脳は次の「お前の番」をシーンの点滅と化す。
 自動車から降りたガキ。
 低い声。
「鏑木流抜刀術、推参」
 その瞬間、空気が変化した。
 いや、変化したのではない。
 消滅した。
 空気をすべて薙ぎ払い、己の殺気のみにした。
 このガキが。
 姿を見せた瞬間、相手の金的を蹴り潰す。
 もう一人の目玉を、棒手裏剣で刺し貫く。
 刃の光。
 力任せに両断される人体。
 悲鳴。
 最後に残った男。
 最初に金的を蹴り潰された男。
 命乞い。
 立ち上がることもできず、泣いて命乞いする男。
 その頭上に、振り下ろされる鞘。
 無言で振り下され続ける鞘。
 男の脳みそが零れたとき、ようやく鞘は止まった。
 ガキの姿は思い出せない。
 ただくろぐろとしたものの中に、爛々と目玉が1つ光り続けていた。
 無限の殺意。
 他には何もない。
 怒りも恐怖も喜びも、人殺しに必要な感情が1つしかない。
 殺してやるという5文字以外、何ももたずに鏖(みなごろし)だ。

 

 太田がもっとも恐怖したのはその姿ではない。
 鏑木一刀斎が「仕舞(しま)いじゃ」と言った直後だ。
 ぽすんと空気がただの血臭となり、「ありがとうございました」と礼をし。
 そしてそれから、この調子でぺらぺらとたわいのない話を続けている。
 一刀斎はそれに勢いよく応えていたが、血の気が納まるにつれて黙りがちになっている。
 ガキの方は思いつくまま喋っている。本当に楽しくなってくると端的になりすぎて、何の話かわからなくなる。
 まるでスイッチがオフになったようだ。
 それに気づいた瞬間、どっと恐怖が押し寄せた。
 そうだ。
 これはスイッチがオフになったのだ。
 これまではオンだったから、無口だったし一人で何十人ものヤクザたちに突っ込んでいったし。
 あんなに無惨に殺しつくしたのだ。
 一刀斎がオフのスイッチを押したから、こんなにやかましく甘えているのだ。
 あれだけの暴力性をスイッチ一つでパチンパチン出したり消したりするのだ。
 ミラー越しに一刀斎を見る。上がっていた血が下がりきって、もう黙れと面倒気に手を振っている。人間だ。暴力に血が通っている。頭に血を上らせねば人を斬れぬ。
 対して、俺の隣にいるのは。
 化け物だ。
 0と1しかない化け物だ。
 ハンドルを持つ手が震える。
 気味が悪い。
 おぞましい。
 恐ろしい。
 その瞬間、ハンドルがいきなり掴まれた。
 太田はついに絶叫した。

 

「なんだ。本格的に寝込んじまってるのかい」
 スマホから聞こえる声に、情けなく答える。
「はい……中津さんがせっかくいらしているのに……本当に申し訳ありません……」
「なあに。俺ならしばらく京都でぶらぶらしてるからさ。気にすんなよ」
 穏やかな口調に涙がにじむ。あわてて相手に気取られないようにする。
 中津礼二は篠織会組長付きだ。関東が拠点なところもあり、組としての接点はあまりない。だが、なんでも太田の組の先代が世話になったことがあるとかで、たまに彼が関西に来たときは宿や酒の支度をするのが習慣である。
 一目見てヤクザとわかるが、こいつもやはりめっぽうモテる。映画から出てきたような大物ヤクザだからだ。おまけに面倒見もいい。非の打ち所がないヤクザというおかしな形容の壮年である。
「まあ、一刀斎のやつがなんかしでかしたんだろ?」
「お知り合いなんですか!?」
 思わず大声を出した太田に、おや、知らなかったのかい。とあっさり返答。
「古い馴染みだよ、あの人とは」
 その瞬間、今日あったことが口から迸った。水道管が破裂したようだった。恥も外聞もなく、何があったか悲鳴のようにまくし立てた。
 中津が黙っているので、ハっと我に返った。なんという失礼を、と別の動転を起こしかけた。
「そいつはひでぇ目にあったなあ」
 しかし、中津の変わらぬ穏やかな声が、太田を正気に踏みとどまらせた。
「男のダメなところを全部詰め込んだような人だからな。あの人は。お前(めぇ)も気の毒な目にあったもんだ」
 はあはあと上がっていた息が落ち着いてきた。知らぬ間に頬が濡れていたのに気付いた。
「まあ、あの坊ちゃんはお前が思っているのと違ってね。隠し子じゃないさ」
 電話の向こうでライターの男がした。
「隠し子じゃない……。あえて言うなら「神の忌み子」ってとこかな。しかし、なんでまたハンドルなんか触ったんだね、あの坊ちゃん」
 大きく息をついた。
「「右にハンドルがある助手席に初めて座らせてもらったから、触ってみたくなった」だ、そうです。えらく謝ってましたよ。そう、えらく「ごめんなさい」って」
 ははは、と電話の向こうで笑い声がした。
「よく生きてるもんだ」
 太田もやっとはははと言った。
「せっかく拾った命だ。大事に使いな」
 説教だか冗談だかわからない言葉を残して、電話は切れた。
 太田は床に脱ぎっぱなしのスーツにようやく頭がいった。
 小便くさいスーツなど、捨てるしかあるまい。弁償させるなんて恥はごめんだ。まったくろくでもない男だ、あの野郎。

 

六月十三日
 僕、怒ってる。おリボン言われた。布をおリボン言われた。もうおみそしるもたまごやきもおにぎりも作れて男らしくなったから女の子のかっこうなんかしない。布の結び目後ろにしたからもうユキだっておリボン言えなくした。でも怒ってる。

 

≪空六六六ぷらす! にじゅういち!≫

 

納「だからね、後ろで結んだからね。これはおリボンじゃないんだよ。わかった?」
ユキ「そうデスネ。勘違いしてごめんなサイ」
納「うん。僕は男だからおリボンなんてしないんだよ」(怒りが解けて立ち去る)
メフィスト「かわいいから黙ってたやろ」
ユキ「メフィストもデショ」
メフィスト「後ろで結んだらおリボンじゃないの理屈がわからんし」
ユキ「さらにおリボン度が上がってますが」
メフィスト「我々は指摘しない」
ユキ「かわいいカラ!」